すれ違う心

霖しのぐ

*****

 こんなはずじゃなかったのにと思いながら、私は窓辺に立つ彼を見つめた。


 の彼と付き合い始めてそろそろ二年。


 今日は土曜日。彼の部屋で向かい合って勉強をしている。私は勉強は一人でする方が捗るタイプなんだけど、彼がそうしたいと言ったから。一緒にいたいと言われたら、断ることはできない。


 出会った頃は真っ白でつるりと平らだった彼の背中は、今や薄い小麦色に焼けた逆三角になっていた。遠慮なく背中の隆起に目を走らせると、浮き上がった筋肉がだんだん見覚えのあるものに見えてくる。


 私はペン尻をそっと唇に添え、既視感の正体を探った。


 ああ、ロールシャッハ・テストだっけ。インクを落とした紙を折りたたみ、広げた時にできた模様を見て何を思ったかで性格やらがわかるというアレ。


 背骨を中心にして左右対称に盛り上がる筋肉は、あのインク染みが描く模様にどことなく似ている。頭の中で回路がつながったことに対して、勝手に笑みがこぼれる。


 決してあのたくましい体に魅力を感じているからではない。むしろ気持ち悪いとすら思っている。詳しい人が見ればすごく形がいいらしいけど、私には巨大な虫刺されやたんこぶにしか見えないからだ。


 部屋にふたりきりだからって、わざわざシャツを脱いで見せつけることもないんじゃない。私はタンクトップ一枚の姿の彼を、どうしても冷たい目で見てしまう。


 彼は私の気持ちに気づくよしもなく、その鍛え上げた背中を誇示するように窓辺に立って、左手に持った参考書を熱心に読んでいる。ダンベルを握りしめた右手を規則的に上下させながら。


 ふん、ふんという規則的な息遣いが静かな部屋に響く。まったく落ち着かなくて、私はペンをいったん置いた。勉強か筋トレかどっちかにすればいいのにと思うけど、彼は私の言うことなんか聞いてはくれない。


 勇気を出して何かを言ってみても「君のためなのに」と口を尖らせて、決して自分を曲げることはない。


 ……私たちの心はすれ違っている。そう感じているのは、きっと私だけだけど。




 二年前の春。同じクラスにいた彼に一目惚れして、私から告白した。色白で物静かで、他の男子にはないどこか儚げな雰囲気をまとっていた彼は私の好みど真ん中だった。するとなんと彼も私のことが気になっていたらしく、めでたく付き合えることになった。


 趣味から食べ物の好みから私たちはとにかく気が合って、運命の出会いかもと笑いあった。彼といると本当に幸せだった。これからもずっと一緒だと約束をして、ゆるやかに絆を深める日々が続いた。


 しかしそんな矢先、私と彼の運命を狂わせる事件が起こった。それをきっかけとして彼とは学年が一つ離れ、そして気持ちもすれ違うことになる。




――私はその日、通学中の電車内で痴漢に遭った。初めてのことですくみ上がったけど、勇気を出して犯人の手を掴み声をあげた。


 幸いなことに周りの人も確保に協力してくれ、犯人は次の停車駅で電車の外に引きずり出せた。ここまではよかった。


 次の瞬間、強い衝撃を受け視界が真っ白になった。私は逆上した犯人に突き飛ばされ馬乗りになられ、顔をボコボコに殴られていた。犯人は格闘技の経験があったらしくて、押さえつけていた駅員や男性客をあっさり蹴散らしてしまったのだ。


 女のくせに楯突くなんて生意気なやつめ、俺の人生はお前のせいで無茶苦茶だ、こんな不細工な顔なんか潰してやると喚き散らしながら。青かったはずの空が真っ赤に染まって、そのあと電気が消えたみたいに真っ暗になった。


 犯人はその場にいた人たちがなんとか引き剥がしてくれたらしいけど、私は頭や頬、顎の骨を骨折し、生死の境を彷徨った。全治数カ月の診断。命は助かって、脳も無事だったけども顔はぐちゃぐちゃで、再建のために何度も手術を受ける羽目になってしまったのだ。


 学校を放り出して病院に駆けつけてきた彼は、集中治療室の前で、「とにかく命があってよかった」と大声で泣いていたらしい。それを聞かされた私も、彼がいてくれて本当に良かったと泣いた。


 面会ができるようになってからは、彼は毎日病室を訪ねてくれた。白くて滑らかな指に触れられただけで、耐え難かった痛みも飛んでいくようだった。


 顔は元通りにならないかもしれない。そう言われ絶望した私は、彼に別れようといった。でも「大丈夫、ずっとそばにいるよ」と優しく笑って抱きしめてくれた。私は嬉しくてまた泣いた。





「こんな細腕じゃいざという時に君を守れないから、鍛えることにしたんだ」


 退院した日、彼は決意に満ちた目でそう言った。私のためにと懸命にトレーニングする彼を最初は嬉しい気持ちで見ていた。


 彼は私と違って頭がいい。運動や食事について徹底的に研究して、最短で結果を出すために生活を変え、食事もお母さんに頼らず全て自分で用意するようになったそうだ。


 でも彼の身体が大きくなるたび、私が好きだった彼が少しずつ消えていった。彼はひたすら筋トレの話ばかりして、私が話す隙を与えてくれなくなった。筋肉と一緒に自信をつけたらしい彼は、性格がすこし変わっていた。


 すっかり男らしくなって陽気に笑うようになった彼に、今まで見向きもしてなかった女の子たちが競うように寄っていった。学校で一番の美人に告白されても彼は決してなびかなかったけど、まんざらでもない顔をしていた。


 私のことは変わらず愛してくれたけれど、私の心には小さな穴が空いていた。だって彼はひたすら上ばかり見ていて、足元の小さな花には気づかなくなったから。


、格闘技やることにしたんだ」


 彼はそう言って、歯を見せて笑った。ジムにスカウトされたんだと得意げに胸を張る彼に、すうっと血が冷えていくのを感じた。


 私はそんなの求めていない。私は望んでいない。強くなって殴り返して欲しいなんて思ってない。辛い時はそっと寄り添って、一緒に涙を流してくれればそれでいいのに。ずっと心の中で叫んでいるのに。


 けれど、彼は決して気づかない。




――彼の規則的な息遣いはなお響く。私は彼に話しかける時、慎重に言葉を選ぶようになっていた。


「ねえ。落ち着かないから、トレーニングは私が帰った後にしてくれると嬉しいんだけど」


「え? 鍛えてるのは君のためなんだから、黙っててよ。それに、これ終わったらさ……わかってるだろ? 頑張ったごほうび欲しい」


「……わかってる」


 白い歯を見せて、嬉しそうに笑う彼。


 怪我の後遺症で、私は少し表情が乏しくなってしまった。顔の筋肉がうまく動かせなくなってしまったのだ。別に表情がなくなったわけではないから、親兄弟や仲のいい友達はちゃんと顔を見て、察してくれる。彼の目にはきっと、笑った私が見えている。


 頷いた私を見た彼は、もはや機嫌がいいのを隠すこともしない。顔を緩ませて、ダンベルを上下する腕がさらに加速する。


 どうやら筋肉と共にそういう欲も膨らんでしまったらしい彼は、「ごほうび欲しい」と言って私を頻繁に求めるようになった。単なる言葉のあやなのはわかってるけど、モノみたいに思われてる気がして、手を伸ばされるたびに胸がチクチクする。


 広くなった背中に、太くたくましくなった腕。誰から見てもかっこよくなったのかもしれないけど、私は今の彼に抱きしめられても決して安心することはない。


――私の目にはいつの間にか、彼があの日の犯人みたいに見えるようになっていたからだ。


 抱かれるのが本当は嫌だと言えば、また真っ赤な空を見るのではと恐れている。彼は決してそんなことはしないとわかっているのに、身体がすくんでしまう。


「君は本当に可愛いね」


 表情が上手く作れなくて能面みたいになってしまった私に、変わらずこう言ってくれるのは、きっとこの世でひとりだけ。


 彼はこうと決めたら心を曲げることはない。だから私が何もかもを飲み込んでしまえば、心の綻びを見ぬふりをすれば、この先も私のことをずっと変わらず愛してくれるだろう。


 でも私は、今の彼のことを愛しているのだろうか。


 ……彼は揺れる私を置き去りにして、今日も私のためにと筋肉を鍛えている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

すれ違う心 霖しのぐ @nagame_shinogu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ