フライト・アウェア

野生いくみ

第1話

 尚弥なおやは子ども部屋の小さなベッドの上で目を覚ました。はずみで伸ばした腕が思いきり壁に当たったからだ。小六になるとさすがに手足も伸びて、子ども用のベッドは狭かった。タオルケットはどこかへ行ってしまい、シャツから丸出しになったおなかをバリバリと掻いていると、本格的に目が覚めてきて、むくりと身体を起こした。

 部屋の中は暗く、カーテンの隙間からは薄闇がのぞいて、まだ明け方だとわかる。もう少し寝かせて欲しいと光を避けるようにふたたび横になり、寝返りを打つ。そして気がついた。

「……にちようび」

 今日は学校はない。しかも、夏休みに入ったばかりの日曜日だ。眠気が吹き飛んだ尚弥はガッツポーズをした。寝落ちたまま電源を切っていなかったゲーム機の、スリープ機能を解除し手に取る。お気に入りのソシャゲを始める。明け方でも対戦相手はすぐに見つかるが、なかなか勝てない。起き上がりたくないと思ったが、不完全燃焼でもやもやした気持ちを晴らしたくて、ベッドから起き上がり水を飲みに行くことにした。

 リビングダイニングのドアの前に立つと、中から青い光が漏れていた。室内の照明は消えているのでその灯りじゃない。たぶんノートPCの光だ。そっとドアを開けて中をのぞくと、予想通りノートPCの電源が入っていて、暗い中、母親の美沙が画面をのぞき込んでいた。尚弥は、ああ、またか、と思った。

 美沙はあるアーティストにハマっている。その人たちの音楽が好きでたまらなくて、SNSでできた友人たちと、チャットで、キャーキャーとはしゃいでいる。専業主婦の彼女は、比較的自由に時間を使えるので、明け方までネットで遊んでいることも稀ではないのだ。美沙は今日もダイニングテーブルのいつもの席に座り、画面を見ていた。

「また?」

 ドアを開けて中に入りながら、明け方まで何してるのか、と呆れを込めて声をかけ、台所へ入っていく。冷蔵庫の中の麦茶のボトルを出し、とぽとぽとグラスに注ぐ。美沙は振り向きもしなかった。

 こんなふうに、夜中まで友達とチャットしていることを、お父さんはどう思っているのだろうと考えて、尚弥は時々可哀想に思う時があった。まるで父親が忘れられているような気がしてしまうからだ。

 そんな尚弥の父は、いま海外出張でタイに行っている。何か会議があるらしい。もう一週間になる。そろそろ帰ってくるはずだけど、いつだろう、と首をかしげた。海外出張が多すぎて珍しくないので、自分も父親がどうしているのかあまりよく知らなかった。可哀想なことをしているのはお母さんだけじゃないと少し反省した。

 美沙は聞こえなかったのだと思って、もう一度声をかけた。

「ねえ。またやってんの?」

 不機嫌をあらわにして、尚弥はそう声をかけた。

「んー」

 美沙は、こちらを見もせずに返事をした。壁にかけられた時計は四時二十分。

「まさかずっと起きてたの?」

「んー」

 こっちのことを全然気にしていなかった。いつもみたいにイヤホンもしていないし、しゃべってもいない。ただ画面を見ているだけ。でも、この前この時間に起きた時にはチャットしていた。確かその前もそうだった。いつもと何か少し違うと思いながら、尚弥はグラスに口をつけ、ちびちびと飲みながら、母親の様子を観察した。画面に向かって、ニコニコしている。

「ちょっとさ、そのニヤニヤ笑い、やめない? いくら『ユウくん』が可愛いからって、気持ちわるいよ」

 尚弥は、母のお気に入りのボーカリストの名前をあげた。

「ユウくんじゃないわよー」

 明け方には似つかわしくない明るいテンションで美沙は返した。

「じゃあ、何なの」

 PCをのぞき込んで、ニヤつく理由が他にあるのか。

「そうねー……」

 まだ画面の中に目を向けたまま、美沙は微笑んだ。

「かくれんぼをしてるの」

 は? と言ったきり尚弥は顔をしかめた。何を言ってるのかわからなかった。美沙は続けて言った。

「やっぱり鬼ごっこの方があってるかなー」

 鬼ごっこ……と、つぶやいて、尚弥は盛大に眉をひそめたまま首を傾げた。元々不思議なところのある人だけど、本当によくわからない。

 かくれんぼ? 鬼ごっこ? インターネットで?

 いつもPCをのぞきこむと叱られるので、グラスを手に遠巻きに眺めていると、美沙が手招きした。尚弥が近づいていくと、こちらを見ずに、隣の椅子をとんとんと手で叩いた。そこに座って、怒られはしないかとドキドキしながら母の横顔を見る。そして、その視線の先に目をやった。

「これ、何?」

「『フライトアウェア』ってサイト。世界中の飛行機がどこの空を飛んでいるか教えてくれるの」

 濃紺の画面には薄い線で地図が描いてある。そこに東南アジアから緑の線が日本の方角に向けて、すうっと伸びている。背景が紺色だから緑の色がくっきりと浮かんでいる。そして、その先頭には飛行機のアイコンがあった。

「お父さんの飛行機よ」

 美沙はワクワクした顔で言った。飛行機のアイコンのそばにはアルファベットと数字がいくつかあった。

「これが便名。NH850。この数字が、到着予定時刻」

 ゆるく縦に伸びた緑の線の根元まで指を移動させる。

「ここがタイのバンコク。そこを出発して、いまは……ほら、ここ。静岡の下あたり」

 緑の線をたどって北上する美沙の指の先で、飛行機はわずかに前進する。

「羽田まであと少し。高度もだんだん下がってきたし」

「なんでわかるの?」

 尚弥は首をかしげ、美沙を振り返る。

「それはね、ほら、これでわかる」

 画面の下の方には、曲線のグラフがある。出発してから、どれくらいのスピードと高さで飛んだかが一目瞭然でわかる。父の飛行機はいま、時速七百キロ、上空五千メートルを飛んでいる。確かに少しずつ地上に近づいているようだった。

 ふーん……と、解せない顔で尚弥は聞いた。

「空港ついたらちゃんと連絡くれるんじゃないの? そんな心配しなくても」

 尚弥はてっきり、美沙が夫の無事を心配して、飛行機の状況を見ているのだと思っていた。すると美沙は初めて尚弥を振り向き、おかしそうに目を丸くした。

「心配? 違うわよ。『鬼ごっこ』」

 また出てきた単語に、ずっと焦らされている感じがして、尚弥はムッとする。

「さっきから謎の言葉、連発すんのやめてくんない?」

「あ! ほら、羽田の上空まで来た。それで、大きく旋回して、スピードと高度を十分に落として……」

 尚弥の言葉を無視して、実況中継でもするように話し、美沙は表情を輝かせている。

「いつもドキドキはするのよ。飛行機が無事に着陸できますように、って。神様に祈るような気持ち。でもね、いまは楽しいのが先」

「楽しい? お父さんに会えるから?」

「それもあるかなー。アルバムをめくるみたいなの。あの時は楽しかった、この時はドキドキだったって、お父さんの飛行機を待っている間、たくさん思い出すの。新婚旅行は、ハプニングの連続で、とにかく雪ばっかりで、移動が大変だったとか、レストランが開いてなくて何も食べられないままの年越しになりかけたとか」

「ドイツだっけ?」

 前にも聞いた話だと思いながら、尚弥は両親の新婚旅行先を当てる。

「そう。それからもいろんな所に旅行に行って。いろんなごはん食べたし、いろんな場所に行ったし。でもね、いちばん楽しかったのはね、どんな国に行っても、目的もなくぶらぶら歩きまわったこと。ショーウィンドーをのぞき込んで、変なものを見つけては笑って、くだらないんだけど、最高に幸せな時間だった」

 尚弥は、少し考えて口にした。

「お父さんが海外出張に行くたびに、いろいろ想い出しては楽しんでるんだ?」

「そうよ。お父さんが飛行機に乗って、遠いところに旅をしてるから、お母さんも想い出を旅するの」

 あー、そういうことね。

 尚弥は胸の中でつぶやいた。ひとつ謎が解けた気がして安心した。テレビで知っている場所が出てくると、母はよく話している。お父さんと行った時はね……と、のろけるように。それと同じことだったのか。

「別に、お父さんがいない時の楽しみにしなくていいじゃない」

「目の前にいないから楽しいのよ」

「てっきり、『ユウくん』がいちばん好きなんだと思ってた」

 美沙は驚いたように目を丸くした。

「失礼ね。『ユウくん』は三番目よ」

 三番目? と尚弥はつぶやく。考える間もなく、名前を呼ばれる。

「ほら、見逃しちゃダメよ。高度七百……、六百……、ほら、四百六十……」

 真剣なまなざしに、尚弥は不思議な気がしてしまった。父も、母も、ごく当たり前のように家の中にいて、二人とも尚弥に向かって、叱るか、馬鹿な冗談を言うだけだから、その間にいる自分が一番なのだと思っていた。でも、違うのかもしれないと思ったら、なんだかむずがゆくて、湧いてくる幸せをかみしめた。

「さあ、もうちょっと……。三百五十……、二百四十」

 そう言ったきり、美沙は黙った。長い沈黙の後、「よしっ!」と大きく声を上げた。

「無事着陸!」

 美沙の指先で、到着時刻が『予定』から、つい三十秒前の時刻に変わっていた。

「いまごろ、お父さん、シートベルト外してるはず。まだ外さないでくださいってアナウンスがあっても、絶対に聞かないのよね」

 そういえばお父さんはせっかちだもんな、と尚弥はうんうんとうなずく。美沙はスマホを手にした。

「さて。お父さんをつかまえるわよ」

 すばやい入力でメッセージを打ち込んでいく。

「『久弥さん、発見! おかえりなさい』……っと」

 その二十秒後に、ポーンと通知音がして、美沙はガッツポーズをした。画面を尚弥にみせてくれる。

『ただいま。また負けた……』

 父のものに違いない返信。『また』ってことは、もう何回もこんなことをしているってことだ。

「また私の勝ち」

 やったねとピースサインをしているネコのスタンプを返して、ウキウキしながら美沙は台所に入っていき麦茶をグラスに注いだ。

「『鬼ごっこ』って……」

「お父さんの飛行機が着陸したら、『ついたよ』って知らせをもらう前に、『見つけた!』ってメッセージするの。お父さんもそれより早く知らせようとするから、毎回かなりの接戦なのよ。鬼ごっこみたいでしょ?」

 よくわからないけど、スケールの大きな鬼ごっこだと、尚弥は苦笑いをして椅子から立ち上がり、グラスを持って美沙のそばに行く。新しく麦茶をついでもらい、ごくごくと飲み干した。外はもう明るくなりかけていたけれど、もうひと眠りすることにした。リビングを出ようとして思い立ち、尚弥は振り返った。

「ねえ、『鬼ごっこ』、ずっと続けるつもり?」

 流しの中のグラスを洗っていた美沙は、顔をほころばせた。

「ええ。一生」

 能天気な両親だと思いながら、じわじわと笑いが込み上げてくるのを隠し、リビングのドアを後ろ手に閉めた。


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