小山先生

深見

第1話 小山先生

 これは、別に何か怖いことが起こるとか、幽霊が出るとかそういう話じゃありません。


 私の高校時代の、恩師についての話です。




 高校になると、小学校より中学校より先生の数って増えますよね。

 それぞれの専門科目ごとに何人もの先生がいて、担任や部活の顧問、授業担任じゃないとほとんど関わることなく卒業していく先生だっている。

 そんなたくさんの先生の中に、小山先生って人がいたんです。

 私の、高校2年のときの歴史の先生でした。



 小山先生は、若い女の先生だったんですけど、小柄で化粧っけの薄い人で、歴史の担当なのにいっつも白衣を羽織ってました。板書でチョークを使うせいでか、袖口にチョークの粉の汚れが目立ってたのを覚えてます。

 白衣の下もだいたい似たようなグレーのパンツスーツと白いシャツで。

 爪だって先の白いところがほとんどないくらい切ってて、髪も真っ黒なのを低いところでひとつに結んだだけ。


 だからまぁ、そんな風にあんまり、お洒落な人じゃなかったからか、言い方はあれですけど人気がある方じゃなかったと思います。

 提出物にも厳しかったし、テストの訂正だってただ答えを書き写してたら評価が下げられたりもあって。


 でも、熱心な先生だったんです。ほんとに。

 授業態度が不真面目な子には確かに厳しかったかもですけど、でも真面目に頑張ってる子の努力をちゃんと見てくれる、っていうか。


 試験の成績がいい子だけを評価するんじゃなくて、本当に全体的な様子で評価してくれる、みたいな。

 テストの点が悪かったとか授業でわからないところがあったときに、先生にちゃんと聞きに行く。記述問題でどこがだめだったのか、どうすればよかったのか。正しい答えをただ覚えて書くだけでも悪くはないけど、自主的に考えてみる姿勢、そういうことを歓迎する先生だった。

 歴史は公民との選択科目だったから、生徒の方も小山先生はそういう先生だって受け入れていた感じがあります。嫌だったら公民にすればいいし、って。


 だからまぁ、成績の加点目当てだったり純粋にわからないところがあったりで、休み時間も放課後も先生のところに質問に行く生徒ってそんなに多くはなくても少なくないだけいて。

 私もその一人でした。


 私はけっこう、そうですね。自分で言うのもなんですけど、かわいがってもらってたと思います。当時流行ってたアニメの影響で歴史が好きだったので、もちろん授業にもかなり身が入ってましたし、なんなら授業とは関係ないことも質問しに行ったこともあります笑。


 でも、先生はそういうくだらない質問をしに行ってもいつも真剣に答えてくれました。

 歴史を選択したきっかけがアニメだって知っても、いいね、って。本当にそう思っているんだってわかるような真っ黒な目で、女の人にしてはちょっと低い声で、言ってくれて。そのまっすぐなところが、あの頃の私にもかけがえのないものでした。

 だから私は小山先生が高校の時の先生で一番好きだったんです。


 好きだったから、私は先生のことをわりとよく見ていた方だと思います。

 小山先生は変なところで抜けていて、うっかりをやることがけっこうありました。

 うっかり、というかあそこまでいくともう癖だったのかも。


 先生方って、試験の採点をするときに水性のサインペン、あれをよく使うじゃないですか。あの、シンプルなキャップ式のやつ。

 油性だと下の紙に沁みちゃうし、ノック式だとペン先をしまい忘れてポケットを汚しちゃう。たぶん、そんな理由で使ってるんだと思うんですけど。


 そのペンの蓋をしめる時にだったかな、小山先生はよく手先にインク沁みをつくってたんです。

 右手でペンを持って、左手でペンの蓋を持つ。

 だいたい、そういう風な動作になりますよね。蓋をしめるときって。

 そうしてそのまま、ペンを蓋に向かって差し込む。

 そのときに、何か考え事でもしているのか、ペン先がつるりとずれて、蓋の外側を滑って。指にぶつかってじわりとインクが皮膚に沁みて。

 本当になんてことない動作を仕損じては指先にまたひとつ沁みをつくる。


 そうやって積み重なったうっかりで小山先生の左手は、特に人差し指はいつ見てもインク沁みだらけだった。

 それでも水性ペンだから、朝課外のときなんかはまだ指もきれいで、だけど放課後になると赤とか青とか黒が沁みついていって。

 爪の短く切られた指がそうやって三色に染まっているのを私、今でも覚えています。


 ――え?怖い話は?って。

 だから言ったじゃないですか、怖い話なんかじゃないって。

 誰からどういう風に聞かされたか知らないですけど、ただの、高校の時の、そう、恩師の先生との思いで話だって。

 そう何度も何度も言ってるのに。


 まぁ、いいですよ。

 本題ですよね、2か月前の合コンのときの話でしょ。

 でも、あのときだって別に怖いことはなんにもなかったんです。

 本当に、なんにも。


 ただ。最初から私は乗り気じゃなかったんですよ。

 友達に飲み会だって誘われて、なのに行ってみたら実は合コンだった時点で嫌だった。しかも、知らない人たちばっかりで。


 その男の子は確か二回目の席替えでちょうど前に座ったんですけど、なんとなく、最初に見たときから嫌な感じで。ああもう帰りたいな、って。

 最低限愛想よくしないと、みたいなことはもう全然考えもしなかったです。帰りたいな、って、ただそれだけ。


 そう思って俯いたまま、机の木目とかグラスの水滴とか見てたかな。

 だから何を話してたかは覚えてません。たぶん、ずっとその子と隣に座ってた男の子と女の子が話してたと思います。

 盛り上がってたんじゃないですか?内容なんて正直右から左に聞き流してたので、わからないですけど。


 十分くらいそんな感じで居心地悪く座ってたと思います。

 そうしたら、何の弾みだったか。

 四人でどこかに出かけないか、って。

 そういう話になってきたんです。


 冗談じゃない。盛り上がってるのは三人だけで、私まで巻き込まないでってそう思うにきまってますよね。

 だいたい、私、相槌だってまともにしてなかったのに、しらけたりとかそういうこと全然なかったんですよ。

 三人とも妙に盛り上がってて、いいね、行こう行こうって。どこに行く?って。そんな感じで。


 もうやだ、帰りたい。ってそう思った、ちょうどその時だったと思います。


 ふ、っと会話が途切れたんです。


 一瞬、それまで絶え間なく続いていたものが途切れる。

 不自然に、確かに。あいまいで、はっきりとした奇妙な間。


 それはほんの一瞬の静けさでした。そのすぐ後、沈黙の時間なんてなかったみたいに三人はまた話を続けていましたし。

 でもたぶんその一瞬の断絶の間に、先生が来ていたんですよね。

 まあ、後になってから、そう思ったってだけなんですけど。


 くだらないことで盛り上がる三人のけらけらという笑い声を割くように。


 すっ、と私の後ろから伸びてきた指が私の正面に座っていた彼の眉間を刺した。


 チョークの粉で汚れた白衣の袖。

 白いところがほとんどないくらい、きっちりと切られた爪。

 赤と青と黒と、水性ペンのインク沁みついた人差し指。


 ――ああ、小山先生だってそうすぐにわかりました。

 だってずっと見てきた手だったから、見間違るわけないんです。 

 だから、わかったから、わざわざ振り返りませんでした。


 むしろ安心して、小山先生が来たから、だからもう帰ろうって。体調が悪くなって、って。そういえばいいんだからって。

 そのまま荷物をまとめて立ち上がって、幹事の同級生に声をかけて。

 まっすぐに家に帰りました。


 それだけの話です。


 その男の子たちがそれからどうしているのかとか、そういうことは知りません。

 特に知りたいなとも思わなかったです。

 きっと今もどこかで元気にされてるんじゃないでしょうか。

 たった十分くらいご一緒しただけで、私には何の関係もない人ですよ。


 そう。


 あのとき小山先生が来て。


 彼のことを指さしていったので。


 私にはもう、何の関係もない人なんです。






 追記:その後、該当の男性の消息は不明。彼は明るく活動的で交友関係も広かったがトラブルに巻き込まれていた、あるいは何らかの禍根を抱えていたという話はなかった。あの場に同席していたという二名の男女については通常の生活を送っているという。


 また、彼女が通っていた時期、該当の高校に小山という名前の教師は勤務していない。上記の小山女史と思われる教諭が勤務していたのは彼女が卒業して4年後のことになり、また、現在は県内の他の高校に異動している。


 なお、彼女の語る「小山先生」と実在の「小山女史」の両者の特徴は一致する。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

小山先生 深見 @iwlu4e_sis

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ