【KAC20235】変わらないキミが好き

雪うさこ

変わらないキミが好き



「おい。読んだか?」


 田口は斜め前に座る安齋から、A4サイズの紙を受け取り、そこに書かれている文字に目を通した。


「……なんだか、馬鹿げたことが始まりそうだな」


 二人は視線を合わせてため息を吐く。田口の目の前に座る大堀は頬を膨らませた。


「なんだよー。おれにも見せてよ」


 田口は大堀に書類を手渡した。


「なになに? えーっと。澤井副市長からの指令じゃん! おー、こわっ。それだけでホラーだわ。で、内容は……っと。新規事業を立案すること。最低でも各部署一つ。予算は要相談。テーマは……『筋肉』!? あの人、筋肉の塊だもんな! 権力を行使して、おれたち市民を筋肉化するつもりか!」


 ここは梅沢市役所。安定した職業として、人気が高い地方公務員だが。その実。ブラック企業も顔負けの過酷さを強いられる。


 何事もトップダウン。組織人として、雲の上の存在である副市長の命令には逆らえない。


 安齋は銀縁の眼鏡を押し上げながら、「実家の弁当屋で『筋肉弁当』を売り出せ」と言った。


「なんだよー。バカにしてんのか!?」


「お前は脂肪のパーセンテージが高い」


「なんでわかるんだよ! お前におれのパーソナルデータは提供していないはずだ。そういう安齋こそ……って言いたかったけど。お前、着痩せするんだったな」


 リスみたいなキョトンとした顔の大堀は、安齋を眺め回す。しかし、彼は満更でもなさそうに、くいっと眼鏡を押し上げた。


「悪いな。おれはこのからだを維持するため、週4で出勤前にジムに寄ってくるんだ。恋人を悦ばせるためには必要不可欠なことだぞ」


 大堀は腰が引けている。田口も苦笑いをするしかない。安齋は悪びれるどころか、迷惑そうに大堀を見た。


「お前、中坊の童貞かよ。悪いが、たとえ人類がお前一人になったとしても、お前とだけは臥所を共にはしないから、安心しろ」


「な、な、なんなんだよ。おれこそ願い下げだ。それなのに、なんだかすごく屈辱的な発言だぞ。この鬼畜眼鏡!」


「黙れ。中坊童貞」


 いつもの光景だ。安齋は大堀をからかうのが好きらしい。からかわれている大堀も、もう少し大人になればいいのに——。田口は大きくため息を吐いた。こうなってしまったら、放っておくに限る。


 一人で大騒ぎになっている大堀を他所に、安齋が田口の名を呼んだ。


「お前も鍛えているのだろう? 室長は細身だが、あの運動音痴は致命的だ。気を使いそうだ」


(確かに。保住さんは体も硬いし、体力がない……。でも。夜の顔は——)


 深夜。田口だけが独り占めできる彼の姿。田口だけの宝物。

 田口は、昨夜の出来事を思い出して、耳まで熱くなる。言葉がうまくでてこなかった。


「素直で可愛いねぇ。レトリバー犬の田口くん」


「おれは……。ジムに行く暇はないから。——ただ、歩くことだけは続けているが……」


「歩くという行為は、筋力のトレーニングとしては不適切だな!」


 そう言いかけた時。突然、張りのある大きな声がフロアに響く。田口だけではなく、別部署の職員たちも一瞬、手を止めるが、声の主を確認すると、そのまま仕事に戻っていく。これもいつものこと。なのだ。


 颯爽と現れたのは、ここ、市制100周年記念事業推進室のボスであり、そして、田口のよき恋人の保住だった。


 保住は、丸めた書類で肩を叩きながら、田口たちのところに戻ってきた。


 彼はいつもの如く。飲み会の帰りのサラリーマンの風体だった。ワイシャツのボタンは外され、浅葱色のネクタイはだらしなく緩められている。捲り上げられた袖は、左右の長さが違っているし、漆黒の髪は寝癖であちこちに跳ね上がっていた。


「また会議でバトルですか? さっき整えて差しあげたばかりですが……」


 田口はため息を吐く。しかし、保住はそんなことは関係ないとばかりに、手にしていた会議資料をデスクの上に叩きつけると、そのままどっかりと椅子に腰を下ろす。


「いいか。田口。ウォーキングの効果は?」


「ウォーキングは有酸素運動だとおっしゃりたいのでしょう? 筋力トレーニングとしてチョイスする運動ではない。ということですね」


 保住は「その通りだ!」と手を鳴らしてから、大堀のデスクに上がっていた『筋肉』の企画書に、一瞬視線を落とした。それから、「面白い」と言ったっきり、しばし黙り込む。三人は保住を固唾を飲んで見守った。


 他部署の電話の鳴る音や、人の話し声、様々な音の中で、保住の周りだけがまるで時間が止まってしまったかのように見えたその時。


 突然、彼はキーボードを叩き始めた。


「我が市の運動習慣の統計。壮年期では、男子が28.7%、女子が24.3%。メタボリックシンドロームの割合は、男子が31.1%、女子が24.8%。これらは国の状況よりも悪い値だ。それから、死亡に関してみてみよう。悪性新生物と自殺を除外すると、心疾患や脳血管性疾患が上位を占める。ということは、やはり。筋肉をつけさせるなら壮年期。ちなみに高齢期の施策は高齢福祉課が『コツコツご長寿体操』を各町内会で実施ずみ。こちらは高齢者人口の10%が取り組むことを目指すもの……」


 大堀は田口に小声で言った。


「なんか見てんの? 統計資料」


「いや。ただワードで企画書打っているみたいだ」


「どこにそんなデータが入っているんだよ。別部署のだろう? 庁内のデータ、全部頭に入っているってこと? しかも最新のだろう? いつアップデートしているんだよ。ある意味ヲタク級だな」


 大堀の隣にいた安齋は「室長の頭が筋肉っぽいよな」と笑った。その間にも保住はどんどん企画書を書いていく。


「我が市のマスコットゆずりん。ゆずりんの知名度は壮年期では、89%を超える。つまり、壮年期に対して、ゆずりんを活用した健康行動を促すような取り組みは、功を奏すると期待されるのだが。うーん。待てよ。ゆずりんの姿は、二頭身だぞ? 運動などできる体形ではない。これは重要課題だ」


 ふと彼のタイピングが止まる。大堀が冗談混じりの声で「ゆずりんも、ムキムキにしたらいいんじゃないですか?」と口を挟む。すると、保住は「なるほどな!」と手を打ち鳴らした。


「その案採用。でかしたぞ。大堀。ゆずりん筋肉ムキムキ計画。ゆずりんを七頭身にモデルチェンジ。筋肉隆々のキャラに仕上げ……。あまりかわいくないな」


 不意に保住は悲しそうに田口を見た。田口は「大丈夫ですよ」と頷いた。


「ゆずりんの新しい一面が垣間見れてファンは嬉しいです」


「そんな前向きな考え方もあるな。では続けよう」


 それから保住は、予算、細かいスケジュール、評価項目などを次々に書いていく。そして。


「できた! 副市長のところ行ってくる」


 彼は座ったばかりの椅子から、立ち上がると、さっさと廊下に姿を消した。


 それから10分後。保住は颯爽と戻ってきた。


「オッケーが出たぞ!」


「えー。嘘でしょう? 普通は企画書作ったら、通すのに時間かかりますよ。決裁もらうの大変なんですから」


 大堀は「うへー」と舌を出した。


(あれ? 各部署対抗の催しじゃなかったのか?)


 田口の疑問をよそに、保住は話を進める。


「正規のルートだろう? この推進室は副市長直轄だから、上司の決裁をもらっただけの話。幸い今月は議会月。澤井が通してくれるだろう」


「そうですね。なんというタイミング。運まで味方につけるとは。さすが室長ですね」


「運ではない。これは計画通りだ——と澤井が言っていた。あいつ、おれがすぐに企画書を持ってくると踏んでいた節がある。どうせ、おれを焚きつけて案を出させる気だったのだ。この案件は我々の管轄ではない。さっそく健康福祉部健康企画課に引き継ぐ」


 安齋にそう返した保住は、大堀を呼んだ。


「効果的に筋肉をつけることができるスタミナ弁当の開発をすることになるだろう。内々に打診したいのだが。市内の飲食店協会にアポ取ってくれ」


「承知しました」


 彼は今度は安齋を見る。


「お前、ジム通っていると言っていたな。運動指導士はいるか」


「いますね。正確な人数は把握しておりませんが」


「一人知っていればいい。市内の運動指導士を使いたい。テンションが高い、イケイケ系がいいが、品位は要求する」


「横のつながりがあるはずです。聞いてみましょう」


 保住は安堵したように椅子に腰を下ろす。田口はじっとしていた。ネクタイを緩めた保住と視線がぶつかった。すると、保住は瞳を細めて笑った。


「飼い主に置いて行かれたレトリバーみたいな顔をするな。銀太」


「そ、そんな顔。していません」


「いやしているぞ。お前には後日頼みたいことがある。ちゃんと仕事はあるのだ。我慢しろ」


「でも……」


 大堀は窓口にやってきた市民の対応をしていた。安齋は電話の対応中。二人の意識がこちらにないことを確認した後、保住は田口の耳元に唇を寄せた。


「昨晩は寝不足だ。ほぼ徹夜だったからな。だが、今晩も付き合ってやってもいいぞ」


 保住は艶やかな笑みを見せる。田口は耳まで熱くなってしまった。口をぱくぱくとさせていると、「だから、そうがっかりするな」と言って、チャームポイントの泣きぼくろがある左目を瞑ってみせた。


 先鋭職員だけを集めた部署で、一番仕事が遅い田口は、いつも劣等感に苛まれている。しかし、保住はそんな田口の変化にもすぐ気がついてくれた。


『お前はお前のままがいい。他の人間の真似などするな。おれはそんなお前が好きだ』


 しらじらと夜が明ける寝所で、彼のその細い腰を撫でるが好きだ。


(保住さんは、筋肉つけないで欲しいな。今のままが一番、抱き心地がいいもの)


 濡れたような漆黒の瞳は、田口の大好きな宝物。他の人たちが知らない彼の姿。何と変わらぬ日々が続いて欲しかった。


 田口は、ずっとずっと、心の中でそう願っていた。




 

—了—

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