言問橋のうさぎ
木山花名美
言問橋のうさぎ
『77年前の今日未明、東京の下町では、多くの市民が犠牲となる大空襲がありました。空は真っ赤に染まり……』
お母さんの温かいスープと、大好きなぶどうパンを食べながら、テレビのニュースを観る。
「お母さん!今日は戦争中に沢山人が死んじゃった日なんだって」
キッチンの方へ呼びかけると、エプロンで手を拭きながらお母さんが出てきた。しばらくテレビ画面を見つめると、悲しそうに眉毛を下げる。
「そうよ、今日は第二次世界大戦中に、東京大空襲という恐ろしい空襲があった日でね。夜中に沢山沢山、
「そうなの」
町中が燃えてしまうって、きっと恐ろしいんだろうな。家族も宝物も、全部失くしてしまうのだろうか。私はぼんやり考えながらスープを飲み干すと、ごちそうさまと手を合わせた。
歯を磨き、服を着替えた頃には、ずっと楽しみにしていた今日のお出かけのことで頭が一杯になり、さっきの会話などすっかり忘れていた。
電車に乗って、お母さんと二人向かうのは押上駅。今日はスカイツリーに初めて登るのだ。
展望台から景色を眺めていると、お母さんが静かに言った。
「ここから見える景色も、東京大空襲で一面焼け野原になってしまったはずよ」
私は信じられない気持ちになった。今は高いビルや建物が沢山並んでいて、大きな川もゆったりと流れている。こんなに眩しくて素敵な場所が、全部焼けてしまったなんて。
スカイツリーを後にすると、お昼ご飯を食べる為、浅草方面へ向かう。今日のもう一つのお楽しみだ。
お母さんは、きょろきょろと辺りを見回す。こっちかなと少し歩いてやって来たのは、隅田川に架かる一本の大きな長い橋。
「この橋から見るスカイツリーが、すごくきれいなんだって」
「へえ」
橋の中程まで歩くと、いっせえのせで後ろを振り向く。目の前にはさっきまで登っていた大きなスカイツリーが、何にも邪魔されずに堂々とそびえ立っていた。
「すごい!きれいだね」
「本当、ここへ来て良かったわ」
満足するまで眺めると、また、スカイツリーを背に浅草方面へ足を踏み出す。
ふにゃり。何かを踏んでしまった。慌てて後ずさり足元をみると、うさぎのぬいぐるみが落ちていた。
「誰かの落とし物かな?」
まわりを見るも、特に小さな子はいない。自分が持っている真っ白やピンクのふわふわのうさぎとは違い、ざらざらした布で作られている。よく見ると、ところどころ布の色も模様も違う。目はボタンだし、手触りもごわごわで、あまり可愛くない。
「橋の入口に置いといてあげましょうか?落としたことに気付いて、探しに来るかもよ」
「うん」
浅草方面へ橋を渡りきると、『ことといはし』とかれた黒い石の横に、うさぎを置いた。
「気付いてくれるといいわね」
お母さんはそう言うと、またスカイツリーを眺め、写真を撮り始めた。
何故そんなことをしてしまったのか分からない。私はお母さんが見ていない隙に、さっとうさぎのぬいぐるみをかばんに入れていた。可愛くないし、全然欲しくもなかったのに。
その後で食べたお寿司は、きっとすごく美味しかったのだろうけど、全然味がしなかった。
家に帰ると、かばんの底に押し込まれたうさぎを取り出す。
どうしよう……探している子がいるかもしれないのに。もう一度同じ場所へ帰しに行こうか。貯金箱のお金を使えば大丈夫。でも、一人で電車の乗り換えを間違わずに行けるだろうか。それとも、お母さんに正直に話そうか。
答えが出ないまま、ぬいぐるみを見つめる。見れば見るほど可愛くないけれど、このくすんだ緑色のボタンのせいか、うさぎの顔は何だか悲しそうに見えた。
見ている内にすごく眠くなり、うさぎをもう一度かばんの底へしまうと、私はベッドに入り、目を閉じた。
ここはどこだろう。ぽかぽかと温かくて気持ちいい。背中から、優しい声が聞こえる。
「明日は
「うん!」
温かい手が、私の頭をぐりぐりとなでる。
「でも、小豆を出したら、うさぎさんが空っぽになってしまうよ?」
「今度お祖母ちゃんがまたお手玉を送ってくれるって言ってたから。そしたら取り出して、この子に詰めてあげましょう」
「よかった。空っぽになったらかわいそうだもの」
「洋子ちゃんは優しい子ね」
背中から手が伸び、私を胸に抱く『洋子ちゃん』の頭をなでる。
「さあ、お休み」
「お休みなさい」
洋子ちゃんが、とんとんと私の背中を叩いてくれる。ああ、ぽかぽかしていたのは、二人の間で寝ていたからなんだな。気持ち良くて、私も寝てしまった。
どれくらい経っただろうか。ウーッとサイレンみたいな音がして、ゆさゆさと身体が揺れた。
「洋子ちゃん」
洋子ちゃんは目をこすりながら起きると、私をシャツの中に入れて、頭に防災頭巾をかぶった。二人はしばらくラジオの音に耳をすませていたけれど、ラジオを消して、そのままのかっこうで布団に入った。
それからまたどれくらい経ったか。激しいサイレンの音と、叫び声が聞こえる。
「洋子ちゃん!起きて!」
ラジオからは『……海上に多数』と流れているが、サイレンと何かがドーンと爆発する音、外の悲鳴やらでよく聞こえない。
「洋子!」
さっきとは違う厳しい声に、私は怖くなる。お母さんが洋子ちゃんに濡らした着物をかぶせると、シャツの中の私にもポタポタ水が垂れてきた。
外へ出ると空は真っ赤で、辺りは火の海だった。それは低く飛ぶ飛行機のつるつるのお腹にも映って、赤い悪魔みたいに見えた。
お母さんは洋子ちゃんの手を引いて必死に走る。あんまり動くものだから、私はシャツから飛び出しそうになった。洋子ちゃんが慌ててシャツを押さえてくれた途端、着物は強い風にあおられ空へ飛んで行った。お母さんは自分の着物を洋子ちゃんへかぶせながら走るけど、あんなにびしょびしょだった着物は、もうカラカラに乾いている。
途中お母さんがパンと洋子ちゃんの袖や頭を叩く。何をしているのかと見ていたら、ついた火の粉を消しているのだと分かった。お母さんも後ろのおじさんに、何度も背中や頭を叩いてもらっている。直接触れている訳じゃないのに、火ってこんなに簡単に人についてしまうの?自分も一緒に熱えてしまうのだろうかと、恐ろしくて仕方なかった。
「浅草はもう駄目だ!」
「本所に向かえば助かるかもしれん」
逃げる人が口々に叫ぶ。
「洋子、本所へ逃げよう。あっちなら川もあるし」
ぜいぜいと息を切らしながら叫ぶお母さんに、洋子ちゃんは震えるだけで何も言わなかった。
大きな橋の辺りはもう人が一杯だった。だけど後ろからどんどん人が押し寄せる。お母さんは自分の手と洋子ちゃんの手を何かのひもで結ぶと、覚悟を決めて橋の中へ入って行った。
何とか少しずつ進んだけれど、途中で全然動けなくなる。どうやら橋の向こうからも人が押し寄せてるようだ。
布団が積まれた台車に押されて、私達は橋のすみに押しやられた。前からも後ろからも人に押され、息が出来ない。その内橋の上にも強い風が吹き、竜巻みたいな炎が迫ってくる。
「洋子!川へ……川へ」
お母さんは
「あっ!」
洋子ちゃんが叫ぶと同時に、私はするりとシャツから落ちた。
最後に見た洋子ちゃんは、防災頭巾に火をつけながら、私へ手を伸ばしたまま橋の下へ消えて行った。
橋に一人残された私は、燃える人に挟まれながらゆっくり下へ落ちていく。誰かのくつに踏まれ、苦しくて熱くて何も分からなくなった。
目が覚めると、私はベッドの中にいた。夢だったのか……燃えるにおいが、まだ鼻に残っている。
窓の外は明るく、時計を見るともう六時半だった。学校へ行く支度をしようと身体を起こすけど、身体が熱くてふらふらする。
「お母さあん」
かすれた声で何度か呼ぶと、隣の部屋からお母さんが来た。私の顔を見るとすぐにおでこを触り、「今日は休みなさい」と言ってくれた。
布団をかけ直してくれた時、お母さんの足元に何かがぽとんと落ちた。
「あら、これは……」
しゃがんだお母さんの手に握られているのは、あのうさぎのぬいぐるみだった。確かに寝る前に、かばんの中にしまったのに。
同時に、ぼんやりしていた夢の記憶がはっきりと戻ってくる。私は身体がだるいのも忘れて、一気に話し出した。
「お母さん!私、そのぬいぐるみ欲しくなかったの。欲しくなかったのに、かばんへ入れちゃったの。ごめんなさい」
お母さんは何も言わずに、うんうんと聞いてくれる。
「あとね、怖い夢を見たの。私がそのぬいぐるみになって、女の子と一緒に火の中を逃げる夢。飛行機が沢山爆弾を落として、橋に逃げて、でも女の子は川へ落ちて、私は橋の上に一人ぼっちになっちゃった」
「そう……」
お母さんはぬいぐるみをじっと見つめる。
「とりあえず着替えて、水分をとりましょう。りんごもすってあげようね」
しかられなくて良かった。お母さんは優しい手で、私のほっぺたをなでてくれた。
熱は昼には下がり、その夜はあの怖い夢を見ることはなかった。
次の日学校から帰ると、お母さんがハサミで、うさぎのぬいぐるみの糸を切っていた。
「何してるの?」
「少し糸がほつれていてね、中からポロポロ小豆が出て来たの。全部出して、柔らかい綿に詰め替えてあげようと思って」
「小豆ってあんこの材料だよね?」
「ええ、お汁粉とか」
「お汁粉……そういえば夢の中で、女の子とお母さんが話してたの。明日は誕生日だから、お汁粉を作るって」
「そうなの……」
小豆はうさぎの耳にまでぎっしり詰まっていて、お母さんはそれを全部、丁寧に取り出す。ボールの中の小豆はピカピカしていて、何だか嬉しそうに見えた。
「昔、お母さんのひいお祖母ちゃんから聞いた話なんだけど……戦時中は食べ物を送るのが禁止されていたから、こうやってお手玉やぬいぐるみに小豆や大豆を入れて、子供へ送ったんだって」
「そうなんだ。そういえばお祖母ちゃんが送ってくれるって言ってたな」
お母さんはこくりとうなずく。
「見て、この目のボタンなんか
お母さんはうさぎにふわふわの綿を詰め縫い直すと、仏壇に置き、ボールを持ってキッチンへ向かった。
「さあ、この小豆でお汁粉を作りましょう」
「私、あんこは食べられないよ」
「あなたじゃなくて、このうさぎさんにあげるの。沢山お砂糖を入れて、とびきり甘くしてあげましょうね」
小豆を洗うお母さんの目には、涙が光っているように見えた。
お餅が入った、ほかほかのお汁粉を前に置かれたうさぎは、もう悲しそうには見えない。洋子ちゃんは、あの後お汁粉を食べられたのだろうか。考えると、今度は私が悲しくなった。少しだけなめてみると、すごく甘くてしょっぱい味がした。
それから数ヶ月が経ち、セミのうるさい季節がやって来た。
朝顔がらの大人っぽい浴衣を着せてもらうと、仏壇のうさぎを抱いて、お母さんとあの橋へ向かう。
「橋の上は止まれないから、歩きながら見ようね」
隅田川の上、ドンと開く花火は迫力があってとてもきれいだ。橋の途中まで来ると、足がピタリと止まり、動けなくなる。
「お母さん、ここ!洋子ちゃんと、離れた場所かもしれない」
少しだけ止まらせてもらうと、
「きれいね……こんなにきれいな花火と、命を奪う爆弾。どちらも同じ火なのに」
「本当だね。空にはいつも、きれいなものだけを浮かべたいな」
うさぎは少しだけ動いたかと思うと、いつの間にか手の中から消えていた。洋子ちゃんの元へ帰ったのだろうか。
川をのぞきこめば、美しい花火が
言問橋のうさぎ 木山花名美 @eisi0922
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