筋肉と文芸について〜とりとめなくあやふやな思考と雑談

はに丸

筋肉と文芸

 さて、ここでは文芸を狭義のジャンル区分、カテゴリではなく、文学的芸術、すなわち有史以来人類が言葉を獲得して以降行った芸術的娯楽的産物として話をすすめる。つまり、大前提としてギルガメシュ叙事詩も、徒然草も、羅生門も、Web小説もひっくるめ、全てを文芸として述べる。


 前置き失礼、本題へ入る。


 このたび、筋肉というお題が出て、筆者は、小説が書けぬ、と早々にさじを投げた。筋肉の描写、そして愛において、すでに素晴らしい先達がおられ、その影響から免れぬ、と考えたからである。


 生理的に筋肉の描写をするだけなら、技術としてできよう。が、筋肉がテーマであるから、物語の主題、センターにしたい。しかし、マッチョを褒め称える作品、武芸を尊ぶ作品と楽しみすぎた結果、己独自のものを書くことを放棄し、筋肉と文芸の関係について考えることにした。


 筋肉というのは、内部に骨格を持つ動物のほとんどが備えている運動器官である。伸縮によって活動を司っていると言って良い。この筋肉が無ければ、内蔵さえ動かなくなるのである。


 生きるために必要な部位が発達するのも筋肉である。肉食獣、草食動物、鳥類とそれぞれ特徴的であるが、人間は生きるためだけ以外に、己の力を誇示するため、筋肉を鍛える習慣がある。


 古来より、筋肉の美しさは人を酔わせていたらしい。代表的なイメージは、ギリシャ・ローマ文化盛んな地中海文明であろう。肉体美を求めた彫刻は、有名である。筆者は紀元後2世紀の、円盤投げをする青年像を見たことがある。引き絞った筋肉と動き出しそうな躍動感、均整のとれたアスリートの魅力が素晴らしかった。……と、これはあくまで芸術であり、文芸ではない。


 当時の文芸であらば、詩か朗読演劇か。地中海文明で人々を熱狂した朗読演劇にて、英雄といえばヘラクレスはおおいに人気があったということだ。その膂力をもって困難を解決していくこの勇士は、巨人に代わって天空さえも支えたという。言葉の限りを使われ、その肉体美を表現されたに違いない。


 筋肉というものは、基本的に積み重ねて作られるものである。生活習慣か自覚的な鍛錬かはともかく、その人物の生き方、こだわり、人生そのもの、性格があらわれるときもあるのであろう。


 人は、理想的な筋肉に理想の人格を求めた。


 実際においてはともかく、まあ、求めた。ゆえに、筋肉の出来や質に対しても厳しく鑑賞し、良いと思ったものを褒め称え、様々な言葉で文字に起こす。絵や塑像、彫刻であらば一目でわかる魅力を、わざわざ文字にすべく、筋肉を表し褒めるための言葉をも作っていくわけなのだから、人間は人間の体が好きすぎるのであろうし、筋肉への憧憬も強いと言えよう。


 ところで、日本は筋肉について、両極端なところがある。


 たとえば、力強さを褒め称えられるカタチがある。古くはスサノオノミコトかと思われるが、戦国時代の加藤清正、江戸時代の有名力士など、数知れぬ。


 ところが、ヤマトタケルノミコト、牛若丸、南総里見八犬伝のチュートリアルキャラクター犬塚信乃など、強さの象徴である筋肉描写を捨て、未発達な少年の魅力も愛でている。小柄な美少年が、素晴らしい体躯を誇る筋肉を屈服させるのもお好きなようだ。


 まあ、物語としてはなかなかに盛り上がり、カタルシスがある。躍動する筋肉が、最高潮にはちきれ、本気で挑むも、未発達の薄っぺらい体に押し負ける。敗者としての筋肉の魅力であろう。屈強なイケメンを押し倒す嫋やかな美少年というBLだってある、筆者も書いている。


 古今東西、筋肉を褒める描写は生命賛歌であることが多い。知性を褒める描写は文明賛歌であろう。この2つが同時に成立していれば、人間讃歌か。いささか、大仰すぎる記述に、筆者としても面映ゆさはある。


 最後になるが、ひとつ。


 筆者にとって印象的な筋肉描写がある。作家が友人を語った、特に有名でもないエッセイである。いや、ここを隠すのは卑しいため吐露するが、かの有名な芥川龍之介が、同年作家で友人の佐藤春夫について記したものである。文庫でも2ページ3ページあるかどうか、という程度の小品で、内容や存在は全く有名でもない。ただ、芥川龍之介から見た佐藤春夫でしかない。


 関東大震災で、いささか感傷的であったらしい佐藤が、

「銀座の回復する時分には二人とも白髪になっているだろうなあ」

 と言ったらしい。そこからの、芥川の筆致は彼らしい軽妙なシニカルさで綴られている。以下、著作権も切れていることだし、旧仮名遣いを調整した上で引用する。


 佐藤は僕にこう云った。「銀座の回復する時分には二人とも白髪になっているだろうなあ」これは佐藤の僕に対して抱いた、最も大きな誤解である。いつか裸になったのを見たら、佐藤は詩人には似合わしからぬ、堂々たる体格を具えていた。到底僕は佐藤と共に天寿を全うする見込みはない。醜悪なる老年を迎えるのは当然佐藤春夫のみ神々から下された宿命である。


 以上で、このエッセイは締められている。


 詩人に似合わない体躯、とだけの表現で筋肉など仔細に記されていない。


 しかし、芥川が見た、佐藤の美しい筋肉がまざまざと迫るようではないだろうか。


 シニカルな視点で綴られてもなお、筋肉の持つ美しさ、強さ、生命力、そして憧れが、たった数行に集約された素晴らしい文芸作品だと、筆者は読み返すたびに思っている。

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