推しメーカー【筋肉】
沖綱真優
第5話
「呼ばれて、飛び出て、じゃじゃじゃ〜〜〜んっ」
忍野ミカは、鼻唄交じりに呟いた。思いついたままの、聞き覚えのある節だ。
夜七時半の住宅街は、ほんのりとした灯りに包まれている。LEDと従来型の電灯が入り混じった街灯と、路地の両側に建つ三階建て低層アパートや、戸建ての飛び飛びに灯った明かりが、明るいとはいえず、けれど暗いともいえない微妙な濃度で夜を上書きしている。天からは半円に薄い蒲鉾のオマケを付けた月が、夜道を煌々と照らすまではいかずとも、不埒な行いを留まらせる程度の光を投げかけている。
「さぁ〜て、本日の獲物はどいつかね〜ぃ?」
ミカは鼻唄交じりにゆっくりと歩く。リボン付シャツと紺ブレ、リボンと同じパターンのチェックのプリーツスカートは、グレー地にビリジアンを乗せたタータンチェックで、控え目に入った赤いラインがお気に入り。スカート丈は膝上で、イマドキのコには珍しく、黒タイツで足をすっかり覆っている。いわゆるなんちゃって制服を着こなしたミカは、すっかり雰囲気女子高生だ。
「うーん、ん……。ぅふっぅ」
ミカは軽く息を吹き出して、立ち止まった。口角がずずずと上がり、細まった目が路地の先を見据えた。
「みぃつけたぁ。……の前に、確認かくにん」
首から垂れ下がった分厚いストールを退けて、イーストボーイのスクバを開ける。パイセンに持たされたバッグの中身は、グラマーと数二と世界史と生物の教科書とルーズリーフホルダ、ペンケースに、ハンカチ、ティッシュ。それから、アンプル。
透明なガラス製のアンプルの中には、推しメーカーの企業秘密である薬剤が封入されている。真っ赤なクスリ。空に翳せば、世界が真っ赤に染まる。怖ろしく、美しい、赤。真っ赤に染まったあと、風船が萎むように——いや、鋭い針の一刺しに割れるように——色を失い——灰色、やがて黒へと——。
「……なんか、ヘンなこと考えたぁあ?ま、いっか」
ミカはアンプルをスカートのポケットに突っ込み、生物の教科書を取り出しやすいようにバッグの中で縦向きに置き直した。
*
「お腹すいたなー」
駅から家までの帰り道、ウスダはとぼとぼ歩いていた。目の端が痛い。トイレで顔を洗って、ハンカチで目元を冷やして、高校から駅までの道はぜんぜん違う話——最近面白かったツイッターの話とか、ウエブマンガの話とかでエトウと盛り上がって。落ち着いた、はず。
「花粉のせいだって言えば、いいかな」
泣いた?なんて、センシティブなこと、他人じゃぁ言わないけど。家族はね、遠慮なんてないから。特に、母親は娘の恋バナに首突っ込んでナンボだし。下世話っていうか、まぁ、心配してくれてるんだけど。腹立つ。
腹が立つと余計にウスダのお腹は空いて、ぐぅぐぅと鳴り出した。時刻は七時半ちょい手前。夕飯の匂いがそこかしこから流れ出て、数メートル進むごとに違う料理にヨダレが出る。特にカレーと焼き肉は、鼻腔から微粒子が入るとなしに脊髄反射でヨダレが湧き、のち、脳みそが早く食べたい一心で、近日のメニューと冷蔵庫の中身から本日の夕飯を高速計算し始め、八割の確率で外す。
「この家は中華かなぁ、ごま油の香り……」
中華鍋で躍るごま油の香ばしさに醤油の風味が混じる。じゅうぅって音まで聞こえそうな香り。中華じゃなくてキンピラとかかも。ウスダのお腹が再び鳴って、腹が揺れると胸までモヤモヤした。
「もっと怒ればいいのに、かぁ〜〜。十分怒ってるんだけどな……」
フラれた。
のは、もういい。先月の話だ。バレンタインにチョコを渡した。分かりやすい。実に単純で、よくある、フラれ話。
相手は、部活の一コ上の先輩で、まぁまぁのイケメンだ。優しくて、面倒見が良い。先輩は劇部の大道具で、書き割りの絵のうまさに惚れた。
ホントに、フラれたのは良いのだ。三日ほどご飯が喉を通らなかっただけで、痩せるでもなく復活したから。そもそもフラれるつもりで、気持ちに区切りを付けたくて告白したんだし。
問題は、男じゃない。女だ。カズナ先輩。キャストメインで、役柄が合わなくて劇に出ない時は小道具を受け持ってるから、小道具専従のジブンにも話しかけてくれた。
明るくて、友だちも多い、いわゆる陽キャの先輩で、ぶっちゃけ、特に好きでも嫌いでもなかった。キャスト外れたときの小道具係としての熱意は高くなくて、よその係に遊び行ってる方が多い印象だった。
先輩ランキングで言えば、小道具専従で手先の器用なオグリさん、女子のキャストならアカイさん、ミネさん、ゴンダさん辺りが上手いし憧れる。ただ、オグリさんは職人肌というか、少し気難しいタイプで気楽な話でキャッキャするんではないから、カズナ先輩が話しかけてくれて嬉しかった面もある。
だから、聞かれて、答えてしまった。
『ウスダちゃんって、カレが好きなの?』
答えてくれたら去年の文化祭の写真あげるよ、なんて安いツリに見事引っ掛かったジブンも安モノも安モノ、閉店セール八割引なんだけど。
スマホ画面の中に一年時の——今のジブンと同い年の先輩がいるだけで、幸せな気分になった。五人で写ってるその写真の中にカズナ先輩やほかの先輩たちが混じっていても、ジブンには先輩しか見えなかった。スマホを見れば笑っている先輩の姿が見られるんだから——サイコーに幸せだったんだ。
それから二週間ほどは、何事もなかった。というか、テスト週間とテスト期間だったから部活がなかった。二学期末は数学がめちゃくちゃで、理系志望のジブンとしてはアゲてかないとヤバいな、予備校とか部活との両立どうしてんだろ、先輩たちに聞いてみるかと、テスト明け初日の部活に行くと。
『わたしも好きになっちゃったから』
カズナ先輩のライバル宣言。
寝耳に水というよりかは、熱湯ってか、酸、いっそ、ピラニア液。
劇部は部内恋愛禁止だから、告白とか考えてなかったし、高嶺の花だし、見てるだけで良かったのに。大袈裟になったなとか、ライバルって何とか。
陽キャなカズナ先輩を出し抜く立ち回りなどできるハズがないという自信だけは満々にあって。正直、うわぁ、しかなかった。乾燥、冬場だし、いや感想か。それくらい混乱してた。翌日やっと。カズナ先輩、応援してるって、写真くれたじゃん。先々週じゃなかった、あれれれれ。おっかしいなー。ってどこぞの小学生名探偵になった。引いた。サイコじゃんって、引いた。
ハラワタ煮え繰り返るよりは、ハラワタでんぐり返り。あれよあれよと脳から腹から爪先まで全身全霊絶賛混乱中のまま迎えた年明け最初の部活で。
『内緒で付き合うことになったから』
ライバル宣言からあっという間に、コイビト宣言。
はぁ、おめでとうございます。としか返しようがナイ。一ヶ月で付き合うトコまで持って行くんだ。すげぇな陽キャ、小並感。
うん、陽キャでキャスト張れる先輩とイケメンの先輩、お似合いだよな。しょせん、ジブンなんぞ釣り合いから考えても、ムリムリだし。って。諦めようとしたんだ。終わったんだ。って。
——あぁ、でも。好きだなぁ。
付き合うって聞いた後も、部活では先輩の姿を探して、見つければ胸が高鳴るし、目は勝手に追いかけちゃう。ジブンに向けられた笑顔じゃなくても、笑っているだけでジブンまで嬉しくなってしまう。コレが恋。感情を制御できないコレが、恋。
だけど、キリがない。バカじゃないから、メがない恋に引きずられるのはイヤだ。制御できないなら、強制的にシャットダウンするまで。
『それで、告白までして。エラいんだか、バカなんだか、だいたいさぁ』
玉砕後は三日間、ご飯が喉を通らず、授業が——特に数学——耳に入らず、ほとんど生きる屍、しか
いい加減、話してくれたらどうよ、と、ついに同クラのエトウにせっつかれた。興味半分、心配半分……いや、興味が八割、無関心一割、心配一割ってトコか。エトウは無関心というニュートラルな部分を常に有しているから、安心して相談できる。こちらに感情移入しすぎて煮え滾るアドバイスをくれるよりは、冷めてるくらいが良い。先輩に惚れて、告白はできない、見てるだけで良いんだ、っていうトコロから、ライバル宣言までは話してたから、顛末はすぐに説明できた。
が、褒めて貶したあとの、エトウ独自ルートの情報が爆弾。
『だいたいさぁ、大道具先輩って、そのカズナとかいうのに告ってたんでしょ』
『え?それ、何?何、それ?知らない。劇部恋愛禁止だし』
『ウスダ、陰キャっても、情弱はマズイって。惚れるなら、相手のことを調べてから惚れなよ』
『え?NTRてこと?』
『
ツボったエトウは、涙目でしばらく笑い転げた。ようやく落ち着いて、情報通の天文部の先輩から聞き出した話を披露した。
ジブンが恋したイケメン先輩、まずは、入部早々二年の先輩にコナ掛けて、付き合いはしなかったもののプッシュしまくった。本人はコッソリのつもりだったが、あんまりにもあんまりだったらしく、夏休み前にバレて文化祭のキャスト降板させられた。文化祭は一年生が主体でやる最初の劇だから、キャスト希望者は多いのに。
それから、しばらくは劇部外のカノジョとよろしくしていたけど、別れた後はまた別の先輩にコナ掛けて、部活辞めるか恋愛沙汰を起こすのを止めるか迫られて、反省文に、キャスト永久追放で、大道具係に収まって。だがしかし、裏方でも大道具と小道具って近いから、カズナ先輩とは自然と仲良くなって、内緒で付き合おうって懲りずに告ったのが一年の終わりらしい。で、カズナ先輩は断った、と。
『満更でもなかったんだろうね、女の方も。部活が恋愛禁止なんて古くさい掟に縛られてなければ、普通に付き合いたかったか……いや、どっちかってぇと』
エトウはジブンの方に指先を揃えた手の平を向けた。人差し指でささないのは、マナーらしい。
『ウスダにやるのがもったいなかったんじゃない?結果的に焚きつけたというか、でもまぁ』
どっちにしても、フラれてたんだろうけどね。と付け足した。ジブンの胸を見て。
『でもさ、遣り口がヒドイよね。ウスダの惚れた相手がジブンに気があるのを知ってて応援してるとか、勝つのも分かっててライバル宣言とか。もっと怒ればいいのに。ムカつかんの?あたしは、あたしのウスダに何やってくれてんのって……ほらぁ、ダメだって、泣くなって』
怒りよりも悲しくて涙が溢れてきて、止まらなくなった。代わりに怒ってくれてるエトウの優しさも浸みた。面白がってるフリで、結構ホントに面白がってるのかもしれないけど、やっぱり天文部先輩からわざわざ話を聞き出してくれて、教えてくれるのは優しさだと思う。
劇部の先輩たち二人は、もうすぐ引退だから、付き合ったとしても問題ないし、でも、だまし討ちみたいな遣り方、楽しいのかなぁ。ふたりで笑ってるのかなぁ。あんな陰キャって。好きだったのに?ホントに胸が苦しくなるくらい好きで好きで好きだったのに、嗤われてるのかなぁ。
「あ、ダメだ。思い出したら、また、泣けてきた。落ち着こう。」
家まではあと五分ほど。半泣きで帰ったらなんて言われるか。面倒事にならないように、気持ちと涙を落ち着かせないと。
ウスダは、道沿いにある公民館に向かう。平日昼にはヨガや絵手紙なんかの講座が開かれている公民館も、この時間は誰も使っていない。空の駐車場で深呼吸でもして落ち着かせよう。道で立ち止まるよりは良いだろう。
角を曲がり、公民館の入口を過ぎて、駐車場の方に。道路には背を向けて、隅に置いてある倉庫に寄っかかろうと——
「ココロのスキマ、あっためてやろうか、ねぃっ」
振り返る間もなかった。じゃりっと駐車場に敷き詰められた砂利を踏みしめる音が、ウスダが立ち止まったあとにも鳴った。ヒトよりも軽い——あるいは、子ども。身の危険というよりは気恥ずかしさにドキンとした刹那、女の子の声がほとんど耳元でして、バクンと胸が弾むのと同時に動かした首が十五度ほど回ったところで、後頭部を重たい何かで殴りつけられた。ぬるい液体が首筋に垂れるのを感じながら、ウスダは意識を失う。
「あれ。なーんか。一瞬、気が遠くなった?」
ウスダは自宅の部屋にいる。シャッターを閉めた窓ガラスには、スポーツタンクトップとスパッツ姿の全身が映っている。足元にはヨガマット。日課の筋トレだ。
玉砕するために告白すると決めたあと、告白するならもう少し先輩好みのジブンになろうと考えた。先輩はお胸の大きい女子が好みらしい。残念ながら、ウスダのお胸はほぼ平らのエーマイナー。小学六年生の従姉妹に負けるくらい平らだ。従姉妹が、お胸の大きい家系なだけなんだとは負け惜しみで。
ともかく二ヶ月でお胸を大きくする方法を調査した結果、三つの方法に辿りついた。ひとつ、食事量を増やして全体を大きくする。ひとつ、リンパマッサージと筋膜外し。ひとつ、筋トレで胸筋からバストアップ。
運動系文化部とも呼ばれる劇部に所属しているから、小道具係とはいえ、毎日ランニングしているし、体を動かすのは嫌いじゃない。帰宅後一時間、ユーチューブの動画を観ながら、筋トレしているうちに、ジブンは気付いた。
「毎日少しずつ育っていく筋肉ちゃんたち……そもそもの目標だった大胸筋だけじゃなくて、腹直筋も、大臀筋も、大腿二頭筋も、腓腹筋も。ヒラメ筋なんて名前がキュートで。推せるッ」
そう。フラれたから、なんだっていうんだ。
ダマされた?ウラぎられた?
甘ちゃんのジブンが悪いのだ。情弱で、流されやすいジブンが。そんなことより筋肉よ。筋肉は、裏切らない。
ジブンは、推しとともに生きていく。
*
「うぅんん。重ったいねぇい」
振り下ろした勢いで地面に転がった生物の教科書——
女子高生——ウスダに推しを植え付けた。本日の業務完了。大成功。……のハズだが。
「なんか、違くねぃ〜?」
ジブンの筋肉を推す……それは、ナルシズムだと思った。
推しメーカー【筋肉】 沖綱真優 @Jaiko_3515
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