筋肉だけあればいい

λμ

筋肉ですべてを解決させられている

 長谷川はせがわは枕元で鳴り響くスマートフォンのアラームで目覚めた。部屋が妙に明るい。なぜだろう。そしてうるさい。

 とにかくアラームを止めようと枕元に手を伸ばし、スマホを見ると、


『スヌーズを止める』


 と表示されていた。


「スヌーズ……? スヌーズ!?」


 アラームを止めると、時計は午前十一時を回っていた。


「完全に遅刻じゃねぇか!」

 

 長谷川は慌てて飛び起きた。

 昨晩、恋人の真知まちから『大事な話がある』と言われ、会う約束をしてあった。たしか十一時半だ。場所はいつもの喫茶店。


「大丈夫、大丈夫、走れば十分でつくって……!」


 長谷川はそう自分に言い聞かせながら身支度を整え、部屋を飛びだす。十一時二十分になっていた。


「……無理だな」


 呟き、長谷川は真知にメッセージを送った。


『いま起きたわ。ちょっと遅れる』


 長谷川は思う。走っていくような必死な姿を見せるより、待たせてやったほうがいいだろう。男と女とはそういうものだ。特に真知みたいな女は。

 大事な話というのも、働けとか、別れたいとか、そんなのだろう。

 いつものように、向こうが言い出す前にこちらから別れようかとチラつかせれば丸く収まるはずだ。

 長谷川はポケットに手を突っ込んで、悠々と歩きだし、違和感に眉を寄せた。


「……なんか、なんだ?」


 雑踏がおかしい。行き交う人々が、なにか、こう。


「……マッチョ多くね?」


 長谷川はそれとなくあたりを見回す。

 男も、女も、老人までも、みんな服がパツパツで体が分厚い。

 健康志向も筋トレブームもずいぶん前の流行りのはずだが、今ごろになって成果がでてきたということだろうか。


「いや、まさか」


 苦笑し、長谷川はコンビニに入った。


「どうせ遅刻するならもっと余裕っぽく見せねぇとな」


 手にドリンクでも持っておけばそれっぽい。長谷川はカフェオレのミニボトルを手にレジヘと向かい、また固まった。

 

「店員、マッチョすぎね?」


 そこそこ可愛い女の子だが、腕が太く、首と肩は筋肉で盛り上がっていた。まるで女子プロレスラーだ。

 長谷川は困惑しながらボトルをカウンターに置いた。

 店員がバーコードを読み取り、言った。

 


「お支払いは筋肉でよろしかったですかー?」

「……は?」


 思わず、長谷川は聞き返していた。

 店員が気怠そうに目を瞬かせた。


「支払い。筋肉ですか?」

「え……と……え?」

 

 支払いは筋肉で。意味がわからない。

 

「筋肉でいいですかって」

「え、あ、はい」


 女に圧されるのは久しぶりだった。

 固まっている長谷川に、店員が苛立たしげに言った。


「何やってんすか?」

「は?」

「いやだから、筋肉」

 

 ずい、と店員が電子マネーの読み取り機を押しだした。長谷川が店員の顔と見比べていると、店員は言った。


「だから、筋肉。手ぇ乗せてください」

「あ、えと、はい」


 長谷川が手を乗せると、読み取り機から、


マッソゥ♪


 と陽気な声がした。


「えっと……」


 いまだ状況が理解できない。

 店員がため息まじりに「ありあしたー」と言って背を向けた。


「え、あ、うん……?」


 長谷川は急に喉が乾いてきたような気がし、コンビニを出ると同時にカフェオレに口をつけた。妙な味だった。思わず顔をしかめてボトルを見る。


「なんだこれ……って、プロテイン入り?」


 ホエイプロテイン二十グラム配合! と書いてあった。

 妙な寒気を覚えつつ、待ち合わせの場所に行くと、マッチョで溢れかえっていた。


「は? いや、なに……? てか、真知は?」


 呟く。見慣れた姿がない。小柄だが抱き心地の良い真知の姿が。

 真知のやつ、イジめたろうか、と長谷川が首を振っていると、


「遅いよ!」

 

 と聞き慣れた声がした。

 長谷川はホッと息をつき顔を上げる。


「うるせぇよ。遅いかどうかは俺が……決め……る……?」


 真知は小柄なマッチョになっていた。顔はいつもの真知のままだ。美人とは言えないが愛嬌のある顔。しかし、体つきが違った。

 さわり心地のよかった胸はさらに大きくなっていたが、それは大胸筋で押し上げられていた。いつもデカ尻と呼んで叩いていた尻は、引き締まっていたが、陸上の短距離選手を思わせる形になっていた。二の腕も、通常つきにくいとされている腕の裏側、三頭筋までもパンプアップされている。


 は真知でありながら真知ではなかった。


 ――筋肉。

 

 見慣れたゆるふわコーデの下に巨大なバルクを隠す、筋肉だった。


「ま、真知……? ど、どしたん?」

 

 長谷川は真知の筋肉に圧されていた。

 真知はいつもの拗ねたような上目で言った。


「どうしたのじゃないよ。大事な話があるって言ったよね?」

「お、おう……」


 態度はいつもの真知だった。


「とりあえず、行こ」

「お、おう……」


 そう返すことしかできなかった。

 真知と一緒に行きつけの喫茶店に入ると、いつもちょっかいをかけるバイトの女の子も、迷惑そうだが止めてはこない中年の店主も、客も、誰もが筋肉の鎧を纏っていた。

 それが当たり前のようにしている真知に促され、長谷川はいつもの席についた。


「そ、そんで? 大事な話ってなんだよ?」


 可能な限り平静を装いながら、長谷川は主導権イニチアシブを取るべく先んじて言った。

 真知はさっそく目を潤ませ、決意したような雰囲気で言った。


「私、いつまで待てばいいの?」


 きた。早く定職につけという話だろう。

 真知は結婚願望が強いが、長谷川にはまだその気はなかった。もう少しダラダラやっていたい。いや、むしろ真知のヒモでいたかった。

 長谷川はとりあえずの言い訳をしようと口を開いた。


「わーってるって。いま探してるとこ」

「探すって……ジムならどこにでもあるじゃん」

「おま、俺に事務職とか――」

「そんな話いましてない!」

「――は?」


 そんな話だろ? と呆ける長谷川に真知は涙目で言った。


「ジムならどこにでもあるじゃん……! 黄金ジムじゃなくてもいいじゃん……! なんで? なんで筋肉つけてくれないの……!?」

「え。あ、は?」

「『は?』じゃないよ! そんなヒョロガリでさ! 私……私、恥ずかしいよ! そんなんじゃ結婚できない! なんで!? なんで筋肉つけてくれないの!?」

「え、あ、ちょ、ちょっと待って。筋肉?」

「そうだよ! 筋肉! ほかに何があるの!?」


 ――いっぱいあるだろ!?


 内心で叫びつつ、長谷川は店内を見回す。

 客のマッチョが顔を背け、バイトのマッチョ女子がサイッテーとばかりに鍛え上げられた前腕に筋を浮かし、店長のマッチョが太い首を掻いていた。

 真知は泣きながら言った。

 

「私、ハセガワのこと好きだよ? 大好きだよ? でも、ガリすぎるよ……」

「え……っと……」


 長谷川は喉を鳴らした。対応方法が分からない――いや、何が起きているのかすら理解できない。

 

 すべてが――すべてが筋肉で動いている。


 長谷川は激しく脈打つ心筋を押さえ、いつものやり方に出る。


「じゃ、じゃあ、別れるか? 俺は別にいいよ?」

「なんで? なんですぐそんなこというの? 別れるとか言ってないじゃん!」

「い、いや、だって、俺、ほら、筋トレ? とか、無理だし?」

「無理じゃないよ! ハセガワのバカ!」


 叫ぶように言って、真知がハンドバッグを振り上げた。剣幕に客のマッチョが振り向く。フロントバイセップスの練習をしていたマッチョ店長がポーズを解く。バイトのマッチョ女子が慌てて止めに入ろうと動いた。

 しかし、遅かった。


 ――ゴッッッッッ!


 と、鈍い音が響き、長谷川の頭蓋に衝突、痩せた首がねじ曲がり、勢い、椅子から転げ落ちた。手をつき、立ち上がろうとするも力が入らない。床が回る。天井が回る。すべてがぐにゃぐにゃとうねっていた。

 

 ――脳が……揺れ……ッ!?


 長谷川は手足をガクガクと震えさせながら顔をあげた。真知が手に持っていたバッグを床に落とした。ゴス、と鈍い音を立てた。何キロあるというのだろう。

 真知は泣きながら言った。


「無理じゃないよ……! ハセガワなら無理じゃない……! 私、分かってるもん。知ってるもん。ハセガワがホントはマッチョだってこと、私が一番しってる!」


 いや俺が一番しらねぇよ!?

 と長谷川は抗議を試みるもうめき声にしかならない。

 真知は腰をかがめ長谷川の顔を覗き込んだ。

 

「ジムが恥ずかしいなら、自重トレからでもいいよ。少しずつでも筋肉つけようよ。筋肉がつけば就職だって決まるし、筋肉さえあれば結婚できる。筋肉があればなんだってできるんだよ? 筋肉だよ。筋肉がぜんぶよくしてくれるんだよ」

「お、おれ……筋トレなんて……」


 ようやく舌が回りだし、長谷川は拒否しようとした。

 しかし。


「ハセガワ!」

 

 と真知が超重量の可愛いらしいハンドバッグを拾うのを見て、慌てて言い直した。


「おおおおお、俺! 筋トレ頑張るよ! ほ、ほら!」


 長谷川はその場で腕立て伏せ――ノーマルプッシュアップを始めた。これまで筋トレなどロクにしたことがないため、ほとんどナロープッシュアップだった。


「ハセガワ……!」


 真知が――いや、真知に似た筋肉の塊が感極まった声を発し、長谷川の前にしゃがみ込んだ。嬉しそうに泣き笑いしていた。


「――バカ……! ハセガワ、そんなフォームじゃ肘を痛めちゃうし、どこに効かせたいのかわかんないじゃない……!」


 言って、真知が長谷川のフォームを修正していく。両手を大きく横に広げるやり方――ワイドプッシュアップだ。


「私、ハセガワのこと手伝うから。大胸筋ちょっとずつ育てよ? 一緒に広背筋でっかくしよ? 二人で大腿四頭筋を太くすれば、絶対に大丈夫だよ!」


 ぐっ、と真知に体重をかけられ、長谷川は一度も上げられずに潰れた。

 店内に穏やかな笑い声が広がった。見れば客のマッチョが白い歯を輝かせてサイドチェストし、バイトのマッチョ女子が呆れたとばかりにアブドミナルサイを決め、いつもは迷惑そうにしていた店長までも良かったね真知ちゃんとフロントラットスプレッドしていた。

 真知に軽々と引き起こされ、長谷川は震える声で言った。


「お、俺、がんばるよ……」


 そう言うしかなかった。


「うん!」

 

 と嬉しそうに振り向きバックダブルバイセップスをする真知の、ゆるふわ改めパツパツコーデになった背中の鬼に、


「俺、筋トレするよ……」


 そう答えるしかなかった。

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筋肉だけあればいい λμ @ramdomyu

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