心のピント

常陸乃ひかる

こみゅにてぃ

 過渡期かときで停滞する某スマートシティ。再開発地区に住めるのは、プロジェクトの関係者か、抽選で当たったモニターだけである。

 一般地区の市民が、晩秋を彩る紅葉に浮かれる一方で、今日も再開発地区では工事の音が響いている。

 町の住込すみこみ労働者――ゴトウは、一画の建設現場で、溶接作業に勤しむブルーカラーだ。昨今の建設現場にもロボットが多用されるようになり、溶接もまた同じように効率化が進んでいる。

 ロボットが大部分を担う反面で、ゴトウは細かい作業を受け持っていた。まるでロボットの助手のようだが、都市開発のイニシエーションと考えたほうが精神衛生上は良さそうだ。

 ゴトウは一息つき、鉄骨の上から自動運転専用レーンを見下ろした。この施設が完成する春頃には、一切ハンドルを握らずに、地方に住む両親に会いに行けるのだろうか、なんて期待と不安を抱いてみた。

 ゴトウの仕事は体力資本なので、日々健康な体を保ちつつ、学生時代に習慣化した筋トレにも励んでいる。給与は悪くなく、現時点では不満のない生活だった。

 が、それゆえに物足りなさを感じているのも事実である。

 目で追えないスピードで移り変わる浮世だからこそ、また二十五歳という若さだからこそ、ゴトウは新しい挑戦を描いていたのだ。


 その日の休憩時間。

 ゴトウが神妙な面持ちで決意したのは、『ニガテを克服する』だった。その中でも、苦味にがみ活字かつじにニガテ意識を持っている彼は、

『シュガーフリーのコーヒーを飲む』

『本を読む』

 という二行を、端末のやることリストにぶち込んだ。とはいえ、コーヒーと本を買ってくれば済む、なんて単純な話ではない。

 例えば体を鍛えたい女性が、闇雲に筋トレをしても効果は出にくい。その女性に必要なのはトレーナーである。同じように、コーヒーおよび本に対する知識がゼロのゴトウには、いわばメンターが不可欠なのである。

 あと、そもそもこの町には本屋がない。

 そうして、『コーヒー』と『本』について検索しているうちに、一軒の喫茶店を見つけ、ゴトウは静かに笑みを浮かべた。

「ここの店なら俺も……?」

 何年も前から喉に引っかかっている小骨も、一気に飲みこめそうな気がして。


 翌週末。昼前。

 ゴトウはタンクトップの上にパーカーを引っかけ、地図アプリを片手に、暖色をまとった街路を歩いた。そこは再開発が行き届いていない日本の風景で、地図アプリが示した民家には、〖 喫 茶 E C 〗の小さな看板が掛けられていた。

 そうして、得体の知れない引力に導かれるまま、民家の玄関、廊下を抜けて、喫茶スペースに足を踏み入れていた。

「いらっしゃいませ」

 店内は二人掛の席が五つあり、厨房へ続く通路以外が本棚に囲まれていた。

 先客は三人。まず入って左手――窓辺の席には、体の小さな女が座っていた。黒目がちの両眼でチラっとゴトウを見たあと一笑し、会釈とともにボブを揺らした。

 その横では、赤フレームをかけた若い男が、ラップトップのキーボードをとんでもない速さで叩いている。仕事中だろうか?

 真ん中の席には、ふたりよりさらに若い少女が座っており、本を読むわけでも、スマートフォンを操作するわけでもなく、虚ろな目で本棚を眺めている。

 全員のテーブルには、飲み終えたコーヒーが置いてあるので、来店からそれなりの時間が経過しているようだ。

 ひとつ言えることがある。ここに居る客――なんだか怖い。

「あちらの席へどうぞ」

 ほどなく、マスクをしたマスターが笑顔で近寄ってくると、少女からひとつ離れた最奥の席へ案内してくれた。


 筋骨隆々の青年は、体を縮こまらせて小さく座り、借りてきたネコのように、

〖 喫 茶 EC メニュー 〗

 を凝視した。

「お決まりですか?」

 穏やかな声は、無性に急かしてくるようだった。場の空気に呑まれまいと、ゴトウは自慢の上腕二頭筋に力を込めながら、一番上に載っていたエニグマティック・ブレンドをホットで注文した。

「はい、少々お待ちください」

 聞き慣れない横文字がくっついていたが、コーヒーの産地かなにかだろう。エニグマ地方? といった、外国の地域なのだ。たぶん。


「――そういや、大型商業施設ができるみたいだね。ほら、再開発地区で工事してるやつさ。どうせまた、ESG絡みだろう?」

「ま、町がそういうコンセプトですから……に、認証されないと建設さえ無理なんですよねえ。こ、こうなるとESG警察みたいな自警団も出てきそうですねえ」

「環境配慮はデフォで強いられる、か。加えてダイバーシティを目指し、また障がいのある人でも住みやすく。情弱じょうじゃくが食いつきそうなうたい文句だねえ、ふふっ」

 少女を隔てた向こうで、男女が談笑している。ゴトウには内容がまったくわからなかったが、自分が携わっている建設現場ということだけは理解した。

「――けれど、ESG経営を大声で拡散している一部企業がグリーンウォッシュやっていたフリだったのも事実ですよ。SNSで叩かれるだけならマシですが、海外では罰金を命じられてる企業もあります。それゆえ、最近はESG投資離れが顕著けんちょになっていますし」

 どこで聞いていたのか、マスターがふたりの会話に割りこんだかと思うと、

「お待たせいたしました」

 ゴトウの席に、コーヒーと茶請ちゃうけをそっと置いた。三人の話は興味深かったが、

「今日はどちらから?」

 話題の矛先はゴトウに向いた。

「あ、俺は……近くのアパートっすね。住込みで、この町で働いてて。建設現場なんすけど……あっちのふたりが話してた、その商業施設? が、職場っつーか」

「道理で良い体をしていらっしゃる。体が資本ですからね」

「でも今の話を聞いてると、なんか作らないほうが良いみたいな感じで――」

「あなたが悪いわけではありませんよ」

 マスターの言葉に、ゴトウの思考がわずかに停止した。

 月並みの慰めだったからではない。言葉自体が胡散臭かったからでもない。

 ――まるで封印していた言葉のようで。

「むしろ、建物を作ってくれていることに感謝です。僕は、建設現場で働いている方々は、芸能人やスポーツ選手なんかより何倍も価値があると思ってます」

「そ、そんな大げさ――いや、どうもっす」

 ゴトウはマスターの言葉で良い気分になり、途中でカップに口をつけた。

 反射的に身構えてしまったが、その力みは杞憂に終わった。舌に広がった瞬間の苦味は当然あったのだが、『ただ苦い』のではなく、コクの奥底で一瞬フルーツの香りが脳へと突き抜けたのだ。

 果実の種類はまるでわからないが、酸味は強すぎず、むしろ喉の奥へと落ちてゆくブーストとさえ感じた。それは、決して単調ではないブレンデッド。

 なによりゴトウが感動したのは温度だった。熱すぎず、温すぎず――適温によって、より秘められた旨味を感じられた。

 一方、テーブルの隅では、

『オレたちを入れちまえよ! おめえにげぇのキライだろうがよ! あぁ?』

 砂糖とミルクが甘くささやいてくるが、そんな虚誕きょたんを無視できるほどに――

「の、飲める……? いや、マジで美味いぞ」

 それはゴトウから出た、偽りのない言葉だった。

「ありがとうございます。もしかしてコーヒーが苦手なのですか?」

 そうしてマスターが、やわらかい口調で雑談を始めた。

「あ、そうなんす。実は俺、昔ちょっと、喫茶店のコーヒーがニガテに……あれ?」

 ふと、ゴトウの頭が混乱した。彼にとってのニガテは、苦味と本だったはずだ。

 コーヒー、本棚、窓辺の紅葉、頬杖を突く女の子――今ある風景に、おぼろげな映像が流れこんできた。

 純喫茶、文学少女、晩秋の町、うつむく女の子――臭い物にフタをしてしまったように、五感がそれを思い出すのを拒んでいる。


『ゴトウくんは悪くないよ』


 自分の弱さを認めたくなくて、ゴトウは新たな強さを求めた。

 日々、体を鍛えることで黒歴史を忘れることができた。なぜ?

「どうされました?」

「あ、いや……なんでも、ないっす……」

 ゴトウは漏れ出しそうな過去を必死に抑えているうちに、居ても立ってもいられなくなり、急いでコーヒーを飲み干してしまった。途中から、その風味をまるで味わわず、証明のしようがない謎めいた感情に意識を引っ張られ、

「あ、スイマセン……ちょっと用事思い出したんで、帰るっすわ」

 いそいそとお代を払うと、先客に小さく一礼して席を立った。

 マスターは嫌な顔を一切せずに、「またいつでもいらっしゃってください」と、丁寧に見送ってくれた。それが余計に申し訳なかった。

 ゴトウは帰宅してから、布団の上でバタ足をした。たぶん500mくらい。

 今夜は嫌な予感がする。疲れている日は高確率で金縛りに遭うように、断片的な過去が見えた日は、決まって悪夢を見るのだ。


 ――薄れゆく意識の中で、彼は地元の町に居た。絶妙な隙間を空け、隣ではメガネをかけた文学少女が、じっと見据えてくる。学生時代に付き合っていた、ひとつ年上の恋人、サツキだった。

『知ってる? 来年の春、駅前に大きな商業施設できるんだよ』

『マジけ? できたら行ってみようぜ。新しい服が欲しいっつってたろ?』

『行く行く! てかなに? それってゴトウくん買ってくれるの?』

 変わり映えのない田舎町を歩くだけの、むず痒いティーンエイジャー。会話に大した意味なんてなかった。あるとさえ思っていなかった。学校で会話する時よりも、少し刺激が強い程度の認識だった。

『あ、いや……サツキに似合う服あんなら、か……買ってやんなくもねえけど』

『ふふっ、ウソウソ! ゴトウくんお金ないもん! そうだなあ、あたし読みたい本があるから、それ買ってくれたら許してあげようかな』

 彼女はよく、本の話をしてくれた。近代の本、流行りの本――

 ゴトウ少年は、授業で『羅生門』を読んだ程度の知識で、必死に話を合わせた。あれは婆さんが怖かった――と言ったら大笑いされた。

 ふたりは休憩がてら、目に留まった純喫茶に入店した。が、その判断がすべてを狂わせた。店に入った瞬間、鼻をついたのは充満したタバコの臭い。耳をつんざいたのは、カフェばた会議をするオバ様たちの嬌声。挙句、舌を破壊してきたのは、熱々で出された薄味コーヒー。

 良い意味でも悪い意味でも、昭和のまま時間が止まった純喫茶は、ティーンに衝撃を与えた。彼女は紫煙がニガテだというのに、我慢して付き合ってくれていた。

 帰り道。具合が悪くなってしまった彼女を、近くの公園で介抱した。ベンチに座り、彼女はゴトウ少年の膝に頭を乗せ、上体を横にしているうちに日が暮れてきた。

 彼女の体調が良くなり、公園を出ようとしたところ、三人の不良に絡まれた。当時は体も鍛えていなかったが、ゴトウ少年は負けん気で喧嘩を買うも、人数で押しきられてしまった。

 屈辱に染まった初デートの夜。彼女から一通のメッセージが届いた。


『ゴトウくんは悪くないよ』


 フィジカルよりもメンタルが痛んだ。

 ゴトウ少年はその日から、彼女に合わせる顔がないと思いこみ、距離を置くようになった。独りよがりに気づかず、強くなった自分を認めさせたくて、ひたすら体を鍛え続けた。

 料金の安い公営ジムにも通い、数ヶ月、半年――と時が流れ、鍛え上げたボディを鏡に映し、ようやく自信を持てるようになった。心は確実に強くなっていたのだ。

 新学期が始まる頃、駅前には大型商業施設が完成した。ゴトウ少年はデートの下見を兼ねて、またプレゼント選びを兼ねてモールに赴いた。

 人の多さに圧倒されながら、ふいと目に飛びこんできたのは彼女の姿だった。歯牙にもかけない民衆の中で、ひときわ輝いているのだから、気づかないわけがなかった。これ奇遇と、ゴトウ少年が声を掛けようとした。

 ところが、彼の足は雑踏の中で止まってしまった。

 彼女と一緒に歩いていたのは、クラスメイトの文学少年だったのだ。心の中で、『本ばかり読んでるひょろい奴』と見下していた人物が、彼女とブティックに入ってゆくのである。

 ゴトウ少年は拳を握り、怒鳴りこもうとしたのだが、ふたりが楽しそうに服を選んでいるのを見て虚しさを覚えた。今の自分は、他人に嫉妬しているヤカラなのだと。

 ゴトウ少年は帰宅し、『ただの上級生』となった少女の連絡先を消去した。


 ――ゴトウは、ダイジェストのような過去から目覚めた。

 あの時は、自分が弱いせいで愛想をつかされたのだと思っていた。けれど本当の原因は、日々の筋トレにかまけて、彼女との連絡を疎かにしていたからである。

 ジムで仲間を作り、共に筋肉を育て、自分を取り巻くソーシャル、コミュニティが入れ替わっていたのだ。

「そう、悪いのは俺だったんだ……」

 翌週。

 ゴトウは『喫茶EC』に顔を出し、

「こないだは……急に帰ってすみませんでした」

 謝罪とともにブレンドを注文した。先客は先週とほぼ同じで、ボブの女とメガネの男だった。

「いえいえ、謝るようなことではありませんよ」

「実は、ふと過去の出来事を思い出したんす。コーヒーや本がニガテになった理由。体を鍛えることが免罪符だと思うようになったキッカケ……色々と」

 ゴトウは独白のように、過去の失敗を語っていった。避けていたのは、コーヒーでも本でもなく過去の自分だったのだと。有難いことに、ふたりの客は相槌を打ちながら、最後まで聞いてくれた。

「誰が悪いとかじゃあないさ。だって初恋は実らないモンだからね、ふふっ」

「ゴ、ゴトウさんは、ちゃんと弱さを認めて、現在にピント合わせようと……し、してるんですよねえ。じ、自己省察できてると……思うんですよねえ」

 このふたり、見た目は随分と若いが、一言一言がゴトウの胸に響いてきた。

「俺、読書も苦手なんすよ……同じ行とか読んじまって。それで調べてたらここがヒットして。漢字あんま読めねえっすけど……なんとかなりますかね?」

「忘れたい過去を掘り返してしまったのは、この喫茶店が原因。ですが、ゴトウさんは克服しようとしています。どうでしょう、せっかくこんなに本が揃っているのですから、くじ引き感覚で読んでみるというのは。人も本も合縁奇縁あいえんきえん、ですよ」

 マスターの一言一言が、ゴトウの読書欲を掻き立てていった。

 励ましのようで、どこか温かい。甘やかすわけでもなく、突き放すわけでもない。

 不思議な声である。

「マスターは商売上手だねえ。でもま、この店は当然ながら禁煙だし、大声で話す奴も居ない。なにより、コーヒーがじゃないしな」

「お、女の子が……ち、ち、チンチンとか言わないほうが……良いんですよねえ!」

「意味が違うぞ?」

 このふたり。仲は良さそうなのに、まるで恋人には見えない。恋愛下手のゴトウにさえわかった。

 常連客を尻目に、ゴトウは恐る恐る立ち上がり、圧しかかってきそうな本棚へと近づいた。作家名の順に並んだ本の中からランダムで一冊を手に取る。

 表紙には、『この町の恋』と妙にシンパシーを覚える題名と、若い男女がアニメ風に描かれていた。

「そちらは恋愛小説です。女性作家の短編集で、とても読みやすいと思いますよ」

 マスターがそう言うなら――!

 盲信を孕みつつ、ゴトウはそれを持ってテーブルへ戻った。久々に文章を見るので、一瞬ピントが合わなかったが、すぐに文字の具合にも慣れてきた。確かに難しい言葉や表現はなく、むしろ女主人公の感情が、丁寧に繊細に表現されていた。

 しばらくすると、窓側のふたりは会話の音量を落としてくれた。心の中でお礼を言いながら、ゴトウはじっくりと物語へ没頭していった。


 ゴトウはこれからもジムへ通い、トレーニングに励むだろう。けれど、たまにはその回数を減らし、新たな居場所コミュニティに通ってみるのも悪くないと思えた。

 ここには、ジムで汗を流した時とは異なる心地良さがあるのだから。 

 今は住込みで働いているが、紅葉が落ち、冬を越し、春風に吹かれた頃、このスマートシティへ移住するのも、また――


                                   了

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