彼の好きなやわらかさ
野森ちえこ
彼の好みと筋肉痛
「ぐっ、い、いた、いたい……」
朝、ベッドから身体を起こそうとした瞬間、腕と足に激痛が走った。
——やだ、なにこれ、え、ちょっと待って、うそ、まさか、筋肉痛?
四苦八苦しながらどうにか起きあがって着替えをすませる。
ヨタヨタと寝室を出ると、ひと足先に起きていた彼がちょうど洗面所から出てきた。
「なに、どうしたよ」
「き、筋肉痛」
「筋肉痛? 筋肉なんてどこについてんのよ」
怪訝な顔をした彼はあたしの手首を軽くつかむと、上に持ちあげてぷらぷらゆする。失礼なやつだ。
「つーか、筋肉痛になるようなことあったか?」
そんなのあたしが聞きたい。
きのうはといえば、友人の結婚式に出席するという姉に頼まれて、五歳になる甥っ子を一日あずかっただけだ。
なかなかのわんぱく坊主だったけれど、同棲中であるこのすこしばかり失礼な彼がずっと遊び相手になってくれていたし、あたしは公園で一緒にボール遊びをしたくらいである。
……え? いやまさか、あれで筋肉痛になったってこと? ちょっと、あたしヤバくない?
ᕗᕗᕗ
立つにも座るにも、ふだんの倍の時間がかかる。今日が休みでよかった。しかし痛い。どんだけ運動不足なのあたし。
見かねた彼が湿布を貼ってくれる。ひどい痛みが落ちついてきたら、お風呂でぬるめのお湯につかって血行を促進するといいらしい。
「筋トレでもしようかな」リビングのローテーブルで、ミルクたっぷりのコーヒーを飲みながら半分本気でつぶやくと、即座に「やめろ」という彼の声が飛んできた。
「なんでよ」
「筋トレなんかしてムキムキになったらどうすんだ」
「いいじゃん、ムキムキ」
「やだ。ふわっとむにっとしてんのがいいんだから。オレのたのしみ奪わないで」
「……なんの話してんの」
「抱き心地にきまってんだろ」
きまっているのか。どん引きである。でもちょっとうれしい。じゃない! それでいいのか、わが彼氏よ。仮にもあなた、スポーツインストラクターでしょうが。
「でもリョウちゃん、まえに質のいい筋肉はやわらかいっていってなかった?」
本来の筋肉というものは、力を抜いている時はやわらかく、力をいれたときに硬くなる。リラックスしているときでも硬い筋肉は、凝り固まってしまっている状態だとかなんとか。
実際、脱力しているときの彼の筋肉はプニプニしていて気持ちがいい。
「いったな。けど力いれると硬くなるからな。やっぱり却下」
「ええぇ、そこは彼女の健康のために専用メニューを考えてくれるとこじゃないの?」
「あ、そうか。オレが考えればいいのか」
ムキムキタイプではない、細マッチョタイプであるわが彼氏は時々アホだ。
「いや、でもな、やっぱ筋肉のやわらかさと脂肪のやわらかさは別物だからな……」
そしてやっぱり失礼な男だ。
「もう! リョウちゃんは彼女の健康と抱き心地どっちが大切なの!」
「え、えー……うう~ん、どっちも?」
だめだこりゃ。処置なしである。いや、そもそも運動不足すぎるあたしが悪いんだけども。
外はいい天気だ。窓から差しこむ春のすこしぼやけた光が部屋を明るくしている。
ほんとうなら散歩にでも行きたいところだけれど……
「ぐうっ、い、ったい、うぅ……」
「ああ、いいよ。洗いものはオレがやるから、今日はひとまず安静にしときな」
「そうする……」
立ちあがるのはあきらめ、四つん這いで窓ぎわに移動する。
痛い。つらい。彼のいうとおり今日は部屋でごろごろしているのが吉だろう。
ᕗᕗᕗ
いつのまにかウトウトしてしまったらしい。目をあけると、彼がとなりに寝そべっていた。そして、むにむにと人のほっぺたをつまんでいる。
「……なにひへんの」
「んー、やっぱ気持ちいいなあと思って」
お返しに彼のお腹をつついてみる。服の上からだと感触がよくわからない。ちょっと悔しい。
「くすぐったいよ」
彼の手があたしの手をすっぽりと包んでしまう。
窓からそそぐ日差しも、彼の手も、なにもかもがぬくぬくとあたたかくて、なんだかとてもしあわせだ。
「いっ……」
夢見心地のまま、なんの気なしに身体を動かそうとして走った激痛でいっきに目がさめる。
「大丈夫かよ」
「いたい……」
やっぱり筋肉痛が治ったらもうすこし運動をしよう。
彼がなんといおうとそうしよう。
(おしまい)
彼の好きなやわらかさ 野森ちえこ @nono_chie
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