肉を超えて、その先に

lager

筋肉

 目の前に星が散った。


 ちかちかと、赤い光、金色の光が明滅し、俺の意識を光の中に溶かそうとする。

 頭に一発、いいのをもらっちまったみたいだ。

 鼻の先から、頭蓋骨を貫通するみたいに鋭い痛みの束が走る。


 右の踵が地面を踏みしめている。

 吹き飛ばされそうになる体を支え、腹の肉がぎちぎちと唸りを挙げて、反り返った上半身を押し戻す。

 意識してとった動きじゃない。

 体が勝手にそう動くのだ。


 空は晴天。

 浮かぶ雲の一つ一つがキレイに見える。

 たとえ顔面を殴られようとも俺の瞼は反射で閉じることがない。

 そう、教え込ませたのだ。

 何回も、何百回も、何万回も、繰り返し体を痛めつけ、細胞の一つ一つを躾けているのだ。


 後頭部に熱を感じるほど首の肉に力が籠められ、顎を引く。

 目線を正面に。

 俺の鼻面を殴りつけたが、逆の拳を振りかぶっている。

 おおきな拳。

 血に濡れた凶器。


 俺が何を考える間もなく、俺の体が右側に沈み込んだ。

 左のこめかみを、拳が擦りつけていくと同時。

 俺の左拳が真っ直ぐに駆け上り、ぐちゃりと音を立てての鼻面を殴り抜いた。


 コンマ数秒遅れて、俺の意識がそれに追いつき、自分の体の取った行動を自覚する。

 カウンター気味に入ったアッパーカット。

 だが、避けるほうに力を割いた分、腰が入っていなかった。


 今度は意識して拳を握りしめる。

 熱い。

 火の玉でも握り込んでいるように、両手が熱い。


 たたらを踏み、二歩後退したの全身を睨みつける。

 膨れ上がった筋肉。

 赤い肌。

 かつて共に戦い、決裂した、友の姿を。


 鼻から血が噴き出している。

 耳まで裂けた口から、ぽろりと牙がこぼれた。

 白濁した眼。

 腐臭のする吐息。

 そして、絶叫。


 俺の喉が震えを通り越して轟き、正面から咆哮を返す。


 踏み出す。

 左足。

 鏡合わせのように。


 振りかざされた友の拳よりも速く、俺の正拳が真っ直ぐに突き込まれる。

 肉にめり込む。

 あばら骨の感触。砕くには至らない。


 反動を得て僅かに重心を後ろに傾ける。

 右足が地面を強く踏み、跳ね上がる。

 上段足刀。

 弧を描く爪先が顎に届く。

 確かな感触。

 だが、揺れていない。

 野牛のように太く膨れ上がった首の筋肉が、衝撃を吸収しているのだ。


 左半身に悪寒。

 目の前に映る分厚い肉がぎちぎちと捻られている。

 手刀。

 首狩り鎌のようなその一撃を、俺は寸でのところで下に避けた。

 うなじが粟立つ。

 死が横切る。


 体が深く沈み込む。

 踵に、膝に、腿に、地面からの反動が蓄えられる。

 それを全て解放するように、俺は目の前の肉の壁に拳を打ち込んだ。

 三発。

 頭に飛沫がかかる。

 唾なのか、吐血なのか分からない。


 すかさず、先ほどとは逆の軌道を描いて裏拳が迫りくる。

 再びダッキングで躱す。

 その瞬間、右の肩に衝撃。

 相手の左掌に捕まれている。

 心臓が冷える。

 右腕全体を回して振りほどく。


 バランスが崩れる。

 空隙が生まれる。

 それを踏み潰すように、巨大な足裏が眼前に迫った。

 両腕を交差させる。

 

 音が消える。

 光が消える。

 一瞬遅れて、脳天を揺さぶる衝撃。

 ガードをぶち抜いて上半身が吹き飛ばされる。

 腹の肉が抗う間もなく踵が浮き、全身が転がされる。


 前蹴りを食らったのだ、とようやく理解が追いつく。

 受け身が間に合い、一回転して膝をつく。

 プレッシャーが迫る。

 目の前には踏みしめられた左足。

 放たれるは、右回し蹴り。


 再び、俺の意識が飛んだ。

 風を感じる。

 重力が消えている。

 俺の体はに飛び上がり、その蹴りを避けていた。


 首、背、腹の肉が締められ、空中で体を回転させる。

 視界が縦にかき混ぜられる。

 遠心力を、右足に。

 狙いは頭頂。

 ばきり、と音を立てて、俺の踵が固いものを砕いた。


 着地と同時に後退。

 間合いを空ける。

 半身に構え。

 引き延ばされていた時間が元に戻り、耳に音が戻る。


 友のこめかみに生えていた二本の角のうち、右側が折れていた。

 

 ふしゅる。

 ふしゅる。


 噛みしめられた口を透かして、獣のような呼気が漏れている。

 白濁した眼が、真っ直ぐに俺を見つめていた。

 

 気のせいだろうか。

 とうに心など失ったはずの友の口が、僅かに笑みを作ったような気がした。

 それはきっと、俺の口元にも。


 ああ。

 そうだな。

 分かってるさ。

 俺もさ。


 俺も、


 そう自覚した瞬間、俺の中から、色んなものが消えた気がした。

 背中に負っていたはずのものが、音も立てずに滑り落ち、足元の影に吸い込まれていったような気がした。


 戦う理由。

 守りたい人。

 使命。

 信念。

 因業。

 憎しみ。

 悲しみ。


 その全てが、俺の心の中から消えていた。

 俺の肉の中から消えていた。


 真っ白だ。

 踵を踏みしめる。

 腿の肉が燃えるよう。

 腹の肉が体を捻る。

 胸の肉が腕を振る。

 腕の肉が、拳に全てを託す。


 それを、交わし合う。


 弾ける。

 引き寄せる。

 ぶつかる。

 砕ける。

 飛び散る。

 ぶつかり合う。

 燃え上がる。

 どこまでも高く。

 どこまでも熱く。


 そうだ。

 このまま、どこまでも。


 どこまでも――。



 



「……ウさん。ゴロウさん!」


 瞼の裏に光を感じ、今まで自分が目を閉じていたことに気づいた。

 木陰の中で、木の葉を通して届いた光が、ちらちらと俺の顔にかかっていた。


 しまった。うたた寝しちまった。


「ゴロウさん? 大丈夫ですか?」

「ん。おお、悪いなマー坊。いやあ、今日はいい天気だ」

「あはは。そうですね。でも、こんなとこで寝てたら風邪ひきますよ?」

「んはは。馬鹿言うな。俺は生まれてこのかた風邪なんざ引いたことはない」

「絶対嘘」

「これから大学か? 随分のんびりだな」

「今日は講義午後からなんで。じゃあ、行ってきます」

「おう。気ぃつけてな」


 前途洋々たる若者が、自転車を漕いで走り去っていく。

 風が吹き、頭の上の木の葉を揺らした。

 まったく、随分懐かしい夢を見たもんだ。

 あれから四十年だったか、五十年だったか、ともあれ、ああやって若者が呑気な顔して普通の生活を送ってるんだ。きっと俺のやってきたことにも、意味はあったんだろうよ。


 こんな感傷に浸るなんて、自分でもらしくないと思う。

 なんとはなしに見上げた目の前のオンボロアパートが、俺を余計に感傷的な気分にさせるようだった。


『くわがた荘』ねえ。そういや、あいつの角もクワガタムシみたいだったっけな。

 

 ふと思い立って、俺は立ち上がって伸びをし、深く息を吸い込んだ。

 足は肩幅よりやや広く。

 体の芯に力を通し、手足は脱力。

 瞬間、腰を落とし、踵で地面を踏みしめる。

 その反動を膝から腰へ、腹から胸へ、胸から……。


 あああダメだ。ダメだダメだ。腰が逝っちまう。


 やだねえ。やだやだ。

 起き抜けに正拳突きなんぞかますもんじゃねえわな。


 なあ、親友。

 俺はもう少し、こっちでゆっくりしてくよ。

 まあ、その内会いにいくことになるだろうが、その時にだらしねえ体見せられねえからな。


 まずはストレッチが基本。

 ゆっくり体をほぐして、さあて、今日はどこの肉を鍛えようか。

 

 



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

肉を超えて、その先に lager @lager

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説