終章(3/3)

 中庭に出た駛良を、唐突な桜吹雪が出迎えた。それでもなお庭の中央に聳え立つ桜の大樹は 未だに多くの花々を蓄えているのだから、なかなかどうして侮れない。


 見応えのある満開の桜。しかしそれを見物する客の姿が少ないのは、やはりここが病院の中だからであろう。思いのほか穴場かもしれない。怪我の功名だ。


 花鶏は既に大きな弁当箱――三段重ねの重箱を携えて待っていてくれた。駛良の姿を見るなり、ぱっと花にも負け劣らぬ笑顔を咲き誇らせて駆け寄ってくる。


「シロくんっ、今日も元気?」


「問題ねえ。それより、お前の方こそ良かったのか?店が大変なところだろうに」


 洋風茶屋〈でろり庵〉は、図らずも駛良と綸子の衝突の場となってしまったことで、半壊状態に陥っていた。半ば不可抗力だったとはいえ、責任を感じないわけではない。


「大丈夫だよ。軍から補償金ももらえてるし、お父さんだって『気にするな』って言ってたじゃない」


「まぁ、それはそうなんだが……」


 豊田おやはかく言うが、駛良としては、自分に頭を下げる以外に能がないところが、少しもどかしくもあるのだ。


 退院したら、〈でろり庵〉で豪遊しよう。それに不本意ながら綸子の歓迎会的なものも開かなければならないだろうし。――と、そうやって未来に想いを馳せつつ、


「ところで……その弁当箱の中身は?」


 手近なところにある長椅子ベンチに二人で並んで腰掛けながら、駛良は心なし声を弾ませる。

 花鶏もまたにんまりと笑みを浮かべると、


「これ?へへっ、じゃ~ん!」


 効果音をと共に重箱が開かれる。姿を現したのは、見目麗しい行楽弁当だ。

 鶏の唐揚げ、出汁巻き玉子、菜の花の和え物、そして握り飯という、定番の品揃え。しかし一際駛良の目を惹いたのは、黄金色に輝く一角。


「ああ、花鶏の漬けたたくあんだ……病院食ではたくあんどころかろくなお新香さえ出てないからな」


「……他にも見所はたくさんあるんだけど、今日だけは特別に許してあげる」


 花鶏は微かに笑顔を引きつらせたが、駛良としては死活問題だったのだ。せめてもの慰み物としてたくあん味の飴を舐めようと思ったが、それさえ病院の売店では取り扱っていなかったのだから。


 優に一週間ぶりのたくあんである。嗚呼、素晴らしき哉、たくあん漬け。


 と、そこで駛良ははたと気づく。いや、忘れていたつもりはなかったのだが、まだ口に出してはいなかった。


「こうして花鶏の手料理に与れるのも久々だな。……やっぱ旨えわ」


「ふふっ、ありがと。あの日、結局シロくん、帰ってこられなかったものね――」


 花鶏は柔らかな笑みを浮かべるが、駛良は密かにたくあんを喉に詰まらせそうになった。


 真崎と一騎討ちを演じた翌朝のことだ。駛良は花鶏に朝食を共にする約束をして別れたにもかかわらず、結局それは反故にせざるを得なかった。後日、見舞いに来た鷹寛から「怒って二人分を自棄食いしてたよ」と聞かされているのは、本人には内緒だ。


 だから、その埋め合わせも兼ねて、この花見の約束の方は絶対に破るわけにはいかなかった。


 その点、こうして病院内に見事な桜が植わっている辺り、神様とやらは駛良が思っている以上には彼のことを気に掛けてくれているのかもしれない。


「シロくん。桜、綺麗だね」


「そうだな。花は綺麗で、飯も旨い。言うことなしだ」


 ひらり、と一枚の花びらが駛良の頭の上に落ちてきた。と、そこで花鶏の繊手が伸ばされて、白魚のような指先が薄紅を摘まみ上げる。


 どきり、と心臓が一際大きく鼓動した。けれども不思議と不快感はない。むしろ春風が全身を駆け巡るかのような、そんな心地好い力強さだった。


 それは、生きている証。――生き抜いてここに居るからこそ、感じられるもの。

 花鶏が気づかせてくれた、かけがえのない、平穏の一時。


 しゃり、とたくあんの味がする素朴な幸せを噛み締めながら、駛良は意を決する。


 伝えよう。ここ数日、寝床で横になりながら、ずっと考えていたことを。


「なあ、花鶏――」


「んー?」


 鶏の唐揚げを頬張りながら、花鶏がきょとんと小首を傾げる。色気より食い気かよ、と思わないでもないが、不思議とそういうところに惹かれてしまうものであったり。


「その、さ。まぁ、何だ。今すぐってわけじゃねえけど……いつか俺と一緒に暮らさないか?」


 結婚しよう、と素直に言えれば良かったのだろう。けれども、昔からよく知っている女を相手に今更そういうことを言うのも、何というか、妙に気恥ずかしいものがある。


 花鶏は、目を丸くして駛良を見た。聞けば、彼女は既に何度か結婚を申し込まれた経験があるそうだが、よもや駛良から言われることは予想していなかったのだろうか。


 果たして少女の答えは、


「その内も何も、いちおう今だって一緒に暮らしてるじゃない」


「…………」


 花鶏の言葉の意味を掴むのに、一拍ほどの時間を要した。


 嗚呼、成る程。確かに駛良は花鶏の家に下宿している。〝一緒に暮らしている〟と言える。


「いや、そういう意味じゃなくてだな――」


「じゃあ、どういう意味?」


 何の疑いも持っていない目で、花鶏は駛良を見つめてくる。恋を知らない幼子のように純粋な瞳だった。

 ここではっきりと駛良の意思を伝えられれば、良かったのかもしれない。だが、それができるならば、最初から遠回しな言い方などしていないのだ。


 葛藤する。


 結婚。けっこん。けっ、こ、ん。音にしてしまえば、たった三音。


 瞬き一つの間に唱えられる短い呪文。一切の魔力を用いることなく、人を幸せにする魔法。


 果たして、


「だから、けっこ…………………………旨いな、このたくあん」

 

 途中で話題を変えたのは誰の目にも明らかで、案の定、花鶏は怪訝そうに眉宇を寄せた。


 しかし駛良としても、やはり気恥ずかしさの方が優ってしまったことは否定できない。


 先の戦いを通じて、生き抜く覚悟は得られた。が、まだ家族を養う覚悟までは持てていなかったのかもしれない。


 花鶏の方が聡く気づいてくれれば、土壇場でその覚悟を固めるということもできたかもしれないが、この鈍感な少女を相手にそれを期待するのも無理な話だろう。


 はぁ、と駛良は溜息をついた。


「ま、その内言うよ」


「そう? シロくんがそれでいいなら、わたしも無理には訊かないけど」


 この場合、無理に訊いてくれても良いような気もしたが、いや、と駛良は内心で首を横に振った。いつかきちんと、改めて自分から口にしよう。それが男の意地というものだ。


 駛良は決めたのだ。何があっても、必ず花鶏の許へ生きて還ると。

 だからこれから先、思いの丈を打ち明けられる機会は、また何度も訪れるだろう。


 そう思えるようになったのも、これまたやはり、花鶏のお陰であるわけで。


 せめて、この一言だけは、今のうちに伝えておかなければならないだろう。


「ありがとうな………………バカ鶏」


 最後に余計なものが付属してしまった。

 花鶏もまた、条件反射でそこに飛びついてしまう。


「バカ鶏言うなっ!」


 賑やかな声が、病院内に明るい春風を吹き込ませる。

 こうして見ると、怒った顔もなかなかどうして可愛いものだな、と駛良は柔らかに相好を崩した。

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THE JUSTICE -龍敦憲兵分隊特別捜査班- かいでぃーん @kaideen_novelist

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