終章(2/3)

 駛良は囚われの身だった。この一週間、一歩たりとも外に出ることが敵わなかった。


「……ったく、せっかく桜が見頃だというのに」


 唯一の心の慰めは、敷地内の中庭に大きな桜の木が植わっていることか。それさえもなければ、自分の不甲斐なさを呪って、腹を切りたくなる衝動に駆られたかもしれない。


 いや、生き抜く覚悟を決めた以上、思うだけで実行はしないが。


 何ということはない――駛良は現在、〈五稜郭〉内にある陸軍病院に入院中なのだった。


 甘粕の寄越した骸骨の兵士によって病院に担ぎ込まれて以来、行動の自由は院内にしか認められていない。というか最初の数日間は寝台から出ることさえ許されなかった。


 そうこうしている間に春も訪れてしまい、このまま花鶏と花見をする約束も反故にしてしまうことになったらどうしようと、割と真剣に悩んでいたのだが、院内にも見頃の桜があったことが不幸中の幸いだった。


 今日の昼間は、そこで花鶏と共に弁当を食べようと約束を交わしている。


 しかし――その時間を楽しむ前に、やってきたいことが、駛良にはあった。


 体が鈍らないよう院内を散歩がてら、駛良は自分の病室とは別の病棟――ほぼ真反対の場所に位置するその病室の前へと辿り着く。


 こんこんこん、と三度扉を叩く。返事はない。


 けれども構わず駛良は中に入った。中に人が居ることも、拒絶の意思がないことも、気配で読み取れていた。


 その部屋の主は、一人の少女だった。土橋綸子だ。


 綸子は来客を無視するかのように、窓の外に目を向けていた。彼女の瞳に写っているのは、朧雲の浮かぶ春空だろうか。


 よう、と駛良が声を掛けると、ややあって綸子は見るからに面倒そうな表情で駛良を振り返った。


「……今日は咥えてないのね、あのゲテモノの飴」


「たくあんをゲテモノ扱いするんじゃねえ。……病院の売店には売ってねえから舐めたくても舐められねえんだよ」


 ふうん、と綸子は特に関心もなさそうに頷く。そのまま目線だけで「何の用?」と尋ねてくる。


「…………」


 さて、どうしたものか。駛良は黙考するべく口を閉ざす。


 用がないわけではない。というのも、陸軍士官学校を去ることになった――書類上は自主退学扱いにされているらしい――綸子が、そのまま甘粕の監視下、もとい駛良の率いる特殊捜査班に正式に編入されることになったと聞かされて、改めて挨拶がてら顔を見に来たのだ。


 とはいえ、予想していなかったわけではないが、思った以上に綸子の傷は深そうだった。体の傷の話ではない、彼女の根本――心の傷にまつわる問題だ。


 それは、ある意味では駛良が付けたものだと言えなくもないため、彼が慰めの言葉を口にするのは筋違いだろう。尤も、安易な慰めなど施すつもりはないが。


 かといって他に言うべきことも見つからず、結局駛良の口から出て来たのは、月並みな問いかけだった。


「まぁ、何だ……調子はどうだ?」


 綸子は特に表情を変えることもなく、


「別に。悪くはないわよ」


「そこは良くないって素直に言えよ」


「捻くれ者の貴方にそう言われるのも心外だわ」


「うるせえ」


 駛良の叩く軽口に対しても、綸子の反応は鈍い。以前の喧しさが嘘のようだ。


 それも仕方がないことなのかもしれない――何せ駛良は、綸子の芯とでも言うべきものをぼきりと折ってしまったのだから。


 誰かを守るために死ぬ。それこそを貴族の責務だと考えていた綸子。


 しかし駛良は、過去の自分ごと、綸子の言を否定してしまった。


 はぁ、と綸子の口から溜息が漏れる。


「貴方はいいわよね。これから自分がどう生きるべきか――そんな答えを見つけたんでしょう?」


「そういう言い方をされると気恥ずかしいものがあるが、まぁ否定はしねえよ」


「私は違う。……私は、誰かを足蹴にできるほど、強くない。喜古ちゃんのようにはなれなかったし、貴方のようになれるとも思えない」


 らしくもなく、弱音を吐く綸子。その姿に、駛良もそろそろ限界を迎えつつあった。


 というのも、日頃の生意気な態度も癪に障るのだが、こうして自信なさげに振る舞われるのも、それはそれで気味が悪いものがある。どう転んでもこの女には調子を狂わされる。


 けれど――これからは期間限定でなく正式な部下として、綸子と付き合っていかなければならないのだ。だから今ここで逃げ出すわけにはいかない。問題を先送りにしたところで何の解決にもならない。


 だから駛良は、脳裏によぎったその答えをあっさりと口から吐き出した。


「なら、全員で生き抜く方法を考えりゃいいだろ」


「…………は?」


 綸子が目を丸くするが、構わずに駛良は続ける。


「俺は自分が生き抜くことが優先だし、正義に反するなら味方にだって容赦はしねえ。それが憲兵としての責務でもある。……けど、お前にそれができねえなら、お前はお前のやり方を見つければいいじゃねえか。誰かのためじゃねえ、自分のためにそうしろ」


 一方的かつ口早に言って、駛良は踵を返す。綸子を相手に柄にもない助言をしたため、少し気恥ずかしいものがある。


 背中にぶすぶすと綸子の視線が突き刺さっているのを感じつつ、駛良は病室を出る間際に、最後にもう一言だけ言い置いていく。


「お前みてえな奴でも、死なれたらたぶん花鶏は泣く。そういうのは、ご免だからな」


 だからお前も生き抜け――言外に込めたその意は伝わっただろうか。

 いや、駛良自身の真意は伝わらずとも、花鶏の思いやりくらいは、綸子の胸に残ってくれれば、それで充分だ。後は綸子自身の問題だ。


「……どこまでも自分勝手な奴ね」


 そう言った綸子の声には、苦笑するような気配が滲んでいた。

 駛良がこの病室を訪れてから初めて漏らした、綸子の笑みだった。

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