終章
終章(1/3)
龍敦憲兵分隊屯所、分隊長執務室にて――。
風が窓を叩く音に、ふと甘粕は顔を上げる。陽光の降り注ぐ窓の外では、ひらり、はらり、と桜色の薄片が舞っていた。
四月上旬――先の士族叛乱事件からは既に一週間以上が経っていた。あの夜は雪が舞っていたというのに、今や桜の花びらがそれに取って代わっているところに、時が経つのは早いものだと感慨を抱かされる。
ふっ、と微苦笑を零して、甘粕が再び手許の書類――今度の事件に関する報告書に筆を走らせようとしたところで、
「いよぅ、マッさん! 色々と大変だったんだってなぁ?」
突如として響いた声に、甘粕は思わず万年筆を握り潰しそうになったが、すんでのところで堪えた。
何の前触れもなく、さも当然のようにやってきたその派手な衣装の男を、甘粕の隻眼が冷たく射抜く。
「……またあんたかい、大杉」
闖入者の名は、大杉栄。甘粕のまだあまり長くない自分史の中において燦然と輝く汚点だった
はぁ、と甘粕は頭痛が痛いと言わんばかりに顔を顰める。
「大変なのは今もだよ。だからとっとと帰んな」
「つれねえこと言うなよ。おれとマッさんの仲じゃねえか」
そう臆面もなく口にする大杉との付き合いは、非常に不本意ながら、確かに決して短いものではない。陸軍幼年学校の同期なので、かれこれ二十年来になるのか。改めて自覚して、甘粕の脳がずきずきと痛みを訴えた。
この厚顔無恥な旧友――もとい腐れ縁――には、食ってかかるだけ時間の無駄だ。甘粕はそう判断すると、顎をしゃくる。
「で、今日は何の用があるってんだい」
素早く追い払うには、結局のところ相手の要求を満たすしかないのだ。これは決して破壊活動家に屈しているわけではないと自分に言い聞かせながら、甘粕は大杉に話を促す。
「応。このところ色々あった
ふん、と甘粕は鼻を鳴らす。らしい、などと大杉は白々しく伝聞調を用いているが、この男もしっかりと今度の一件に関わっていたことは甘粕も把握している。面倒なのですぐには指摘しないが。
「そうだね……結論から言えば、まんまとしてやられたよ。全て真崎少将の思惑通りさ」
ほう、と大杉は興味深げに口許を窄める。甘粕は苦虫を噛み潰したような表情で、
「後になって少将閣下の遺書が発見されてね、あの人の〝悪役〟っぷりは全て芝居――だから巻き込んだ部下にも寛大な処分をとの嘆願書にもなってたよ」
「つーと、真崎のおっさんの目的は……実は叛乱を潰すことだった?」
ああ、と甘粕は首肯する。理解が早くて助かる一方、そんな相手が〝敵〟であるということが同時に空恐ろしくもある。
「真崎が事を起こしてくれたおかげで、全国の憲兵隊が不平士族の一斉摘発に乗り出した。一方、真崎がし損じてくれたおかげで、叛乱分子どもの出鼻も挫かれた。……嫌なものだねぇ、あの方の自己犠牲の所為で、この
なおかつ不平士族たちが阻止せんとしていた平民の積極的登用についても、むしろこれを機に更に加速していく運びとなった。何もかもが巧くいっていた。
ただ――それらを肝心の真崎が見届けられないというところに、甘粕としてはどうしても不快感を覚えてしまうが。
そういう意味では、事が明るみに出る発端だった但馬陽の事件も、発想の本質は真崎の企みと同じようなものだ。自身が敢えて悪役を演じることで、その背景を探らせる――。
「
「間違いは誰にでもあるってもんさ。んでもって、死ななきゃそれが解らねえ奴も世の中に居ちまう。ただそれだけの話よ」
「あんたも随分と突き放したことを言うじゃないか」
「おれは自由大好き人間だからな、そいつが納得してるならそいつがどういう風に生きようがそいつの自由って思ってるだけさ。もちろん、それに対しておれらが何を思うのも自由だぜ」
結局のところ、それは誰にも身勝手な生き方をさせようとしているのではないか――という意地悪い解釈が思い浮かんだが、禅問答をする趣味はないので、敢えて呑み込んだ。
代わりに、「ところで――」と甘粕は何気ない様子を取り繕いながら口を開く。
「匿名の通報者さんが捕らえたって言ってた二室戸中尉だけどねぇ」
「ニムロドぉ? ああ、あの狐みてえな顔したあんちゃんか」
しれっととぼける大杉に、甘粕は軽く口端を吊り上げながら、
「急行した部隊によれば、現場はもう蛻の殻だったそうだよ」
「…………………………え?マジで?」
「今度の事件では主犯格に近いと目されているのに、未だに消息不明さ。まったく、捕まえたつもりで逃げられたとか、まさに狐につままれたような話だと思わないかい?」
「あの性悪狐ッ……い、いや! おれは無関係ですよ? ひゅーひゅー」
現実問題、二室戸の捜索と拘束は急務であるが、下手くそな口笛を吹く大杉を見ていると、甘粕は溜飲の下がる思いができるのであった。
「あー……それよか、他の連中はどうなんだ?聞けば憲兵隊ん中にも密偵が入り込んでたみてえじゃねえか。ほら、あの士官候補生の嬢ちゃんだよ」
「部外者にしてはよく知ってるねぇ? ……まぁ、それは良いとして、あの娘も
微笑の中に凄絶さを滲み出させる甘粕に、大杉は「悪い顔しちゃってまぁ」と、渋面を浮かべる。
「こういうの、おれが言えた義理じゃねえけどよ……未来のあるガキに、これ以上悪事の片棒は掴ませるんじゃねえぞ」
「解っているさ。『悪の敵』を演じるのは
自分は日陰者としてその手助けができれば、と甘粕は相好を崩した。釣られて、大杉もまた穏やかな笑みを滲ませる。
憲兵と破壊活動家。対照的で相容れない男たちの間にも、この瞬間ばかりは、自然と和やかな空気が醸し出されていた。
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