第5章(6/6)

 駛良はた。瘴気が爆発するのを。

 

 熱い。暑い。篤い。身を焦がすほどの毒気。見るもの触れるものありとあらゆるものを焼き融かし腐り果てさせる汚穢の猛毒。


 咄嗟に後方へと飛び退くことができたのは、ひとえに相性の問題だ。体内を解毒する呼吸法 ――封神流剣法の中にそういう技法が含まれていたために過ぎない。


 しかし、その呼吸に集中力の大半を費やさなければならないほど、世界は軋んでいた。気を抜けばすぐにでも心身を冒されてしまうだろう。


 霞みそうになる目を凝らしながら、駛良は自分の一刀が貫いたはずのモノを見据える。


 真崎の形をした闇が、嗤っていた。

 もとい、そこで蠢いているのは、人の形をした人ではない何か。変身、とは少し違う。もっと異質で、――もっと次元の高い何か。


「……異界化現象、か?」


 自身の身体そのものを全く別の世界に置き換えてしまっているのだ。言ってしまえば自分自身を〝魔法〟と化させてしまっているようなもの。概念自体は聞き覚えがあるが、それを実現できる魔導師にはこれまで遭遇したことがなかった。


 正直、机上の空論だと思っていた。が、これからは認識を改めなければならないようだ。


 ぶん、と真崎が大矛を振るう。ただそれだけで病毒が振り撒かれた。口を覆うのが一瞬でも遅れれば、確実に肺を病まされていたことだろう。


 だが、ただ相手を眺め回しているだけでは状況は動かない。


 駛良は解毒の呼吸法を維持したまま、、刀を右脇に構えながら疾走。右下から左上への斬り上げを狙う。


 真崎は防御しなかった。駛良の剣は狙い過たずその巨躯へ一閃を走らせる。

 しかし――全くと言って良いほど手応えもなかった。


「……ッ!?」


 理解が追い着く頃にはもう遅い。この巨漢に物理攻撃は通用しない・・・・・・・・・・・・・・・。真崎の体は既に汚穢としか表現しようのない別の何かに置き換わってしまっているため、攻撃を透過してしまえるのだ。どれほどの名刀であっても、火や水を斬れないのと同様に。


 かといって、魔法的な現象で攻撃を仕掛けることはできない。単純に、駛良はその手の攻撃魔法を習得していないからだ。だが、仮に使えたとして――この汚毒の壁を貫けるとは思い難かった。


 苦悶の表情を浮かべる駛良を前に、真崎は堂々たる態度で蠅声さばえを紡ぎ出す。


『これは儂の罪と穢れだ、若造。そう容易くは浄化できんよ』


 駛良の顔が怪訝に歪むのを見て取ってか、真崎の口許にも微苦笑が零れ落ちた。


『自慢ではないが、儂はこれでも踏んだ場数が多くてな……ああ、つまりそれだけ儂の手は血に汚れ、この身には憎悪が浴びせられたということだ』


 戦場で被ってきた血と憎悪――それに形を与えたのが、この魔法なのだと言う。


 栄光や称賛など見る影もない。そこにあるのは、ただの醜い汚泥だ。


 ぎりっ、と駛良は奥歯を噛み締める。その存在を認識するだけで込み上げる嘔吐感を抑え込みながら、言葉だけを吐き出す。


「ふざけるのも大概にして下さい……これのどこに、士族の誇りがあると言うんです!」


 もちろん戦場に咲く花が所詮は血染めに過ぎないことは否定できない。が、それでも武家士族は泥中に咲く蓮でなければならないのだ。


 そうでなければ――花さえ咲かすことなく散った命たちも浮かばれないではないか。


 駛良は刀を構えると、天狗の遊ぶが如く、軽やかに真崎の周囲を舞う。繰り出される剣撃は、時にその頭を割り、時にその首を刎ねる。――それでも真崎の余裕は崩れない。


 人の形を保っているということは、逆に言えば人体の弱点を突くことで、実際の効果はどうあれ、精神面に揺さぶりを掛けられるのではないかと思ったのだが――全くの無意味だったようだ。それを人間離れした勇気と敬うべきか、もはや人間ですらない狂気と恐れるべきか。


 眉宇を寄せる駛良に、真崎は平然と告げる。


『士族の誇り、と言ったな?そんなものは欺瞞だよ。この国において〝戦争〟という市場を我ら武家士族が独占していることを覆い隠すための、ただの鍍金に過ぎんさ』


「その権益を守るために、こうして叛乱を起こしたと?」


『そう受け取ってもらって構わんよ』


 悪びれる様子もなく、真崎は凄絶に微笑した。瘴気がより一層色濃くなった。


 このままでは分が悪い。距離を取るべく、たん、と駛良は後方に跳ぶ。

 と、それを追って真崎の大矛も、びゅん、と翻る。かろうじてその巨刃からは逃れたものの――放たれた瘴気が衣服に纏わりつき、まるで蜘蛛の巣のように駛良の体を絡め取る。


 判断は一瞬。軍服の上着を脱ぎ捨てて、穢らわしき蜘蛛の魔手を逃れる。


 もちろん代償も小さくない。詰襟に施されていた防御魔法の加護が及ばなくなった分、真崎を中心に立ち籠める瘴気が一挙に駛良を侵蝕する。


「――がああああああっ!?」


 思わず駛良は絶叫した。体内を焼けるような猛熱が駆け巡る。ただただ相手を滅ぼすことそれのみに染まった呪詛が駛良を融解させんとしているのだ。


 そのような状況下においても、駛良は乱れた呼吸を整え、すんでのところで対抗する。生き抜く――というその意思と覚悟の為せる業。


 ほう、と真崎は口角を吊り上げた。その双眸に烈しくも柔らかな光が宿る。好敵手を見る瞳だった。


『まだ堪えるか。貴様には未だに勝機が見えているのか?』


「まぁ一か八か……いや、万に一つ、という程度ですが」


 人の形をした魔法と化した真崎に、並大抵の手は通用しない。


 だが――それが魔法であるというならば、封神流剣法で斬ることができるのでは。


 確証はない。ただの希望的観測かもしれない。――それでも、試さない手はない。


 問題があるとすれば――真崎ほどの武人を相手に、確実な一撃を入れることができるかどうか。元より今の駛良に小刻みに相手の体力を奪っていく余裕などないのだから。


 瘴気は真崎に近づくほどその濃さを増す。栗を拾うためには火中に手を突っ込まなければならない。おそらく、撃てて、あと一回が限度だろう。

 その一撃で、仕留めなければならない。


 駛良の気配が変質したことに気づいたのか、真崎もまた迂闊に踏み込んでこようとはしない。


 互いに睨み合ったまま一歩も動かない、膠着状態。


 打刀を正眼に構えながら、駛良はひたすら相手の出方を窺う。真崎だけでない、空模様や風の流れ、地面の凹凸――等々、自分を取り巻くありとあらゆる環境に感覚を研ぎ澄まさせる。


 不意に、真崎が口を開く。


「先ほど、〝正義〟という言葉を口にしたな」


「ええ。俺はそれを全うするために、この剣を振るっていますから」


 くくっ、とくぐもった笑い声を漏らす真崎。


「旅順を知っているか? たかが尼港如きを生き残った程度で、偉そうに吼えるものではないぞ」


「まだしも大義があった旅順と、それさえなかった尼港を同じにしないで頂きたいですね。過去の栄光に縋るなんざみっともないですよ、老害」


 言葉の刃による応酬。互いの信念が鎬を削り合う。


 そして再びの沈黙。雪の止んだ空から静寂が降り積もる。 ――と、微かに大矛の鋒が揺れた。それが合図だった。


 だん、と駛良は勢い良く踏み込む。大矛もまたそれを狙っていたかのように翻る。


 迫るは横薙ぎの一閃。一抱えほどもある巨大な刃が、駛良の胴体を易々と上下に分断する― ―かと思われた、その時だった。


 とん、と駛良は軽やかに跳び上がった。ばかりか、その足下に広がる虚空を走り抜ける大矛の腹に着地してさえ見せた。


 ここに来て、初めて真崎の目が驚愕に見開かれた。


 駛良はなおも飛び跳ねて、剣を上段に構えながら、真崎の頭上に到達する。


「封神流剣法、一の型一番――」


 少年の体躯が、鉄槌の如く真崎を目掛けて落下する。


「――――《雷蹄らいてい》」


 さながら雷が落ちたかのような轟音。それと共に、巌のような真崎の巨躯は、左右真っ二つに割れて、崩れ落ちた。



 この世には得てして理屈では計り知れない出来事が起こり得る。戦場帰りの駛良も、そういうものだとは理解しているつもりだった。


 しかし、それでもなお、想像を絶する展開というものは訪れてしまうものであり。


 例えば、顔どころか全身が真っ二つに割かれてなお、喋る人間だとか。


『――見事』


 既に事切れたとばかり思っていた相手が急に話し出したことに、駛良は有り体に言って驚きを隠せなかったが、その末期の言葉に耳を傾ける。


『貴様の〝正義〟に殉じよう。――八神駛良』


 その言葉を最期に、命の灯火がふっと消え去るのを、駛良は見届けた。


 勝った。そう自覚した途端、ふっ、と体から力が抜けた。糸が切れた操り人形のように、駛良はその場に崩折れる。


 まだだ、まだ終わってはいない。自分にそう言い聞かせるも、手足は痙攣したように震えるだけで、全く言うことを聞いてくれない。


 首魁が打倒されたことで〈叛乱軍〉は遅かれ早かれ瓦解するだろう。しかし真崎が既に亡いことを知っているのは駛良だけだ。その事実が周知されるまで、〈叛乱軍〉は止まらない――止まれない。


 だから、今はまだ、凱歌を上げることはできない。


 かろうじて仰向けになった駛良は、天空の高みから駛良の足掻きを嘲笑う三日月に見下ろされる。


 と、その忌々しげな空の口許が翳った。よぎったのは、空を翔る黒い機影。


 はっとして駛良は瞠目する。


 あれは――飛行船か。先の大戦でも猛威を振るった近代兵器の一つだ。


 飛行船は〈五稜郭〉の上空に留まると、今度は数多の人影らしきものが蜘蛛の子よろしく吐き出されてくる。


 莫迦な、と駛良は唸った。かく言う自分も高いところから落ちることについては一家言を持てそうだと思い始めたところだったが、さすがに飛行船からの飛び降りは常識外だとしか思えなかった。


 だが徐々にその輪郭がはっきりしてくるに連れて、駛良は今度は別の意味で呻いた。


 落下傘を広げながら、駛良を目掛けて降下してくるそれは――有り体に言って髑髏だった。

 鎧を纏った骸骨の群れだった。言うまでもなく、それは人型ではあっても人間ではない。


 今年最後だろう雪が降った日の服装にしては随分と涼しげだ、などと仕様がないことを思う

 駛良の許に、降り立った骸骨の何体かが駆け寄ってくる。これだけ近くで目の当たりにすれば、もはやその正体は歴然としていた。


「随分とお早いお帰りですね……甘粕大尉」


 骸骨の兵士たちに通信機能があるのかどうかは知る由もなかったが、狙い澄ましたかのような瞬間で現れた援軍に、駛良は憮然とした表情を浮かべずにはいられなかった。


 そう、これは甘粕正彦による魔法だ。


 確かその名は――《八雷ヤクサノイカズチノ黄泉ヨモツイクサ》といったか。


 単騎にして千五百騎もの戦力を内包する男――甘粕が先の大戦で英雄と讃えられるほどに活躍できた所以だ。


 果たして骸骨の兵士は無言のまま駛良の様子を窺うと、どこからか骨と皮で作られたとしか思えない担架を用意するなり、駛良をその上に載せた。


 ゆさゆさと揺られながら、駛良は自然と瞼が重くなるのを感じる。

 大方、このまま病院にでも担ぎ込まれるのだろう。ならばもう休んでもいいはずだ。実際、限界だった。


 とはいえ、だ。


「まずいな。このまま入院したら花鶏との約束を破っちまう」


 その呟きは誰に耳に留まることなく、夜の闇に融けていった――。

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