第5章(5/6)

 ばしゃり、と水気の多い雪が少年の体躯を受け止める。


 体が地面に叩き付けられた瞬間、駛良は思わずにいられなかった。このところ、高所から落下してばかりだと。


 軍服に施された防御魔法や駄目押しで取った受け身によって、ある程度までは衝撃が緩和されているとはいえ、二階から落ちたのだ、やはり全身が砕け散ってしまったかのように痛む。


 骨は折れていないだろうが、罅くらいは入っているかもしれない。体内を巡る魔力が鎮痛の効果を発揮していてこれなのだから、魔力が切れたら一瞬で意識を奪われてしまうかもしれない。


 そうなっては、真崎を――〈叛乱軍〉を止められなくなる。


 身を起こそうとするが、うまく力が入らない。歯を食い縛ってなお、身じろぎするのが精一杯だ。


 と、制止するような声を振り切って走り寄ってくる気配。軍靴の音ではない。この足音は、下駄か。駛良の脳裏に、何やら仔馬が懸命に尻尾を振りながら駆け寄ってくる様子が思い描かれる。


「シロくんっ」


 案の定だった。結わえ髪を揺らす花鶏は自分の着物が泥混じりの雪で汚れるのも構わず、駛良の背中に腕を差し入れて体を起こしてくれる。


 しかし駛良の口からは、感謝の言葉よりも先に悪態が漏れてしまう。


「どうして遠くまで逃げてないんだ……このバカ鶏が」


「あなたを置いて逃げられるわけがないでしょ!」


 花鶏もまた柳眉を逆立てて言ってくる。こういう場面で心配して泣いてくれるような可愛げがあればいいのに、と思わないでもない。普段は涙脆いくせして、肝が据わると急に逞しくなるのだ。昨夜がそうであったように。


 そんな彼女の強さが――嗚呼、いい加減認めざるを得ない――堪らなく愛しい。


 強さだけでない。声を荒げてまで駛良を救おうとしてくれるその優しさもまた。


 花鶏を守るためならば自分の命を投げ出しても構わないと思っていた――そう信じていた。

 それが正義だと思い込んで疑わなかった。


 今は違う。いや、本当はきっと、昔からこの想いは変わっていなかったのだ。


 生きたい。花鶏の隣で。

 譲りたくない。花鶏の瞳に映る世界を独り占めしたい。

 だから、帰る。花鶏の許へ。


 これは願望ではなく決意だ。どれほどの死闘が待ち受けていようとも、必ず生きて還る。大切な人を幸せにすることが、駛良の貫くべき正義だ。

 思えば、かの戦場を生き抜くことができたのも、その一心があったからこそ。

 

 ――ずさっ、と地面を踏み締める軍靴の音が耳朶を叩いたのは、その時だ。


 花鶏もまた顔を上げて、きっ、とその相手を睨み付ける。


「女に抱かれて夢心地か、小僧。貴様もなかなかどうして隅に置けんな」


 旅団司令部の主が、悠然と玄関から出て来たところだった。その口許に浮かぶ笑みは、厭味を感じさせるものではなく、むしろ本心から言っているのだろうことが窺える。


〝敵〟として出遭ってさえいなければ、真崎もまた好人物だったのかもしれない。だからこそ ――自分がその行く手を阻む者になりたいと思う。こんな美味しい役を、他の人間に譲りたくはない。


 駛良は打刀を逆手に握ると、それを杖代わりにして立ち上がる。全身を電撃が駆け巡るが、顔には出さない。これ以上、花鶏の前で弱気は見せられない。そんな見栄であり、痩せ我慢。


 花鶏が何かを言おうとしたが、それを遮って駛良が口を開く。


「下がってろ、花鶏。話があるなら、後で聞く」


「後、で……?」


 ああ、と駛良は頷く。花鶏が見ていると思うと、不思議と力を振り絞れた。


 少しずつ離れていく花鶏の気配に、そうだ、と駛良は彼女を振り返らずに声を掛ける。


「ついでと言っちゃ何だが、朝飯、用意しておいてくれると助かる。見ての通り、今夜中に帰るのは無理そうだからな」


 花鶏が返事するまでに、一拍ほどの時間を要しただろうか。


「――うんっ!」


 威勢が良く、それでいて、どこか湿り気のある声音だった。思わず振り返りたくなる誘惑に駆られるが、真崎の眼前でそのような隙を見せることはできない。


 とたとた、と走り去っていく足音が完全に消え失せたところで、真崎が相好を崩した。


「良い女だな。武家の生まれでないのが惜しい」


「生まれなんざ関係ありませんよ。花鶏が良い女なのは、花鶏だからです」


 駛良が刺突技の構えを取ると、真崎もまた大矛を振り上げる。


 恐れはない。今の駛良にあるのはただ、生き抜く覚悟、それのみだ。


 残される者たちを顧みずに命を落とすのは、ただの蛮勇に過ぎない。折れた剣や穴の空いた盾など、飾りにもなりはしない。


 生きる。生き抜く。――闘い抜く。


 かっ、と駛良は目を見開くと、真崎を目掛けて突進する。


 真崎もその瞳に煌々とした光を点らせる。或いはそれは、彼なりの好敵手を見る眼であるのか。


 駛良を待ち受ける真崎は、その場から一歩たりとも足を動かさず――しかし口を動かしていた。


伊那志許米志許米岐穢いなしこめしこめ ききたなくにいたりて祁理けり

 

唱えられるのは、祝詞か、或いは呪詛か。どちらとも受け取れる声音。愛憎の入り混じった詠唱。


 自然と駛良の足も速まる。真崎の周囲に渦巻く魔力の密度から見ても明らかだ。この魔法を具現させてはならない。


「――ゆえ御身みみ禊為みそぎせむ」

 

 少年の剣が巨漢の胸を真正面から貫いたのは、ほぼ同時。

 真崎は、駛良を見下ろしながら、顔を笑みの形に歪めた。


「――――――《アマツミ黄泉ヨモツグリ》」

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