骨の音が聞こえる

猿川西瓜

お題「深夜の散歩で起きた出来事」

 コロナウイルスが流行して、緊急事態宣言が出された週の金曜日の夜。

 僕はいつも通りの夜を過ごしていた。

 コンビニにタバコと寝酒を買いに行く。朝起きてもヒザが痛まないのはハイボールでもないし、ビールでもない。焼酎の氷割りだ。度数が高いから少量で酔いが回るし、寝付きも良い。パックで売られている『いいちこ』の麦焼酎を買うため、僕は外に出た。


 いまは団体職員として事務仕事をしているけれども、むかし、音響関係の仕事をやっていたので、スタジオの防音の感じがどうとか、誰もいない音楽ホールの静けさとか、よく知っていた。けれども、完全な無音というのはなかった。

 だが、今、外に出ると、完全な無音があった。

 僕が住んでいる所はわりと都会で、虫の声とかはあまり聞こえないようなところだ。そういう都会が、コロナ禍、どういう夜を迎えていたのか。

 その第一印象は『無音』だった。


 車すら走っていないのだ。みな、外出をやめて部屋にこもっていて、夜に車が走っていない。すぐ近くに高速道路があって、いつもそこから絶え間なく車の走行音が聞こえるのだが、今は何もない。


 夜中にハンズフリーで会話する、ふかふかのジャージみたいなのを着たピンク色の女もいない。

 どんな人間にもすれ違いざまにお辞儀して「すみません」と謝って去っていく、スキニージーンズのツーブロ男もいない。


 深夜特有の人間でさえ、緊急事態宣言の命令は聞くのだ。

 外なのに、防音室の中みたいだから、むしろ生活音のする部屋の中のほうがうるさいくらいだ。

 午前1時頃。夜桜だって楽しんでもいいくらいの、春の陽気の、一番過ごしやすい季節だった。音もなく、街全体が無音の底に沈んでいた。

 音のない世界が新鮮だった。人も歩いていない。コンビニについたが、誰も見当たらない。コンビニの音が大きく、自動ドアが開いたとき遠くまで店内の音楽が流れていった。店員の姿がまだ出てこない。軽めのハイボールを無人レジで購入して、散歩の続きをする。車を気にせずに道路の真ん中を歩いた。

 世界が終末に成り立ての時だ。


 このまま、人類はウイルスで滅びるのだろうと思った。いずれ僕も両親も、コロナに感染して死んでしまうのだろう。

 両親は、マスクを大量に持っていた。どこからかのツテで調達したらしい。父は人工大理石の製造工場の偉い人で、会社同士のつながりでマスクを何箱ももらっていた。マスクはどこにも売ってなかったが、コネやら何やらある人は、マスクに不自由しなかったので、安倍晋三の配ろうとするマスクとかを笑っていた。僕はかっこいいマスクが欲しかった。今まで、マスクというものは、白くてでかくて、いかにも病人のように見える、大丈夫か? と思えるものだった。しかし、これから新しく出てくるマスクは、顔がシャープに見える黒いデザインで、あこがれだった。ユニクロからエアリズムマスクが出るらしい。


 コロナ禍、父の手に入れたマスクで歩く。紙の臭いがする。紙を薬に浸したような感じで、髪や耳の臭いを嗅いでしまうように、鼻で息をしてしまう。くしゃみをすることすら憚られる時代だ。母は電車でちょっと咳き込んだ時、みんなからじっと見られて、怖い思いをしたと言っていた。


 少し遠い公園にたどり着いた。ハイボールを自販機横のゴミ箱に捨てた。ここは昔から幽霊が出るという。トイレには夜近づかないようにと、高校生の頃に教えられた。もちろん、幽霊も緊急事態宣言なので、たぶん出てこない。ベンチに座って、空を見上げると、マンションはどこも電気を消していて、いつもよりも公園が暗く感じられた。

「これからみんな死ぬのか……」

 トイレットペーパーがなくなっているらしい。

 悪くない気分だ……と思いたかった。実際にパンデミックが起こったらこんなもんかとも思えた。


 トイレに何か動くものが見えた。

 僕はじっと見つめた。黒い影があった。

 パンデミックでも幽霊は出るのか……。

 そう思いながら、ベンチに座っていると、影がこちらに向かってきた。

 僕は立ち上がってすぐに去るか、それとも座り続けてやり過ごすか迷った。

 黒い影は、とても大きい男性のようだった。

 ある程度距離が詰まった瞬間、本能的に、身体が動いた。僕はまっすぐ公園の出口に向かって走り出した。後ろから舌打ちするような音が聞こえた。

 動揺した気持ちを抱えたまま、コンビニに逃げ込んだ。コンビニには誰もおらず、さっきの男がこの中まで追ってくるんじゃないかとビクビクした。漫画を立ち読みしようと思ったが、全部シールが貼られていて、どれも読めなかった。

 世界がどうなっていくのかとか、誰かと語りたかった。


――世界、このまま、滅ぶんですかね。みんなコロナにかかって。

――そうですね。でも、暴動とか起きそう。汚職してる政治家とか、医者とか、ゴミ回収のおじさんとかも、みんな死んで、街がゴミだらけでパニックになって、略奪とか起きそう。

――生き残った男女が、次のアダムとイブになるんでしょうね。

――でも幽霊に殺されたら、どうしようもないね。世界の終わりを見届けるどころか、中途半端ですね。


 そんな軽薄な会話を誰かとしたいと思いつつ、コンビニでビクついている夜だ。無音の感触はとっくに消えていて、ちょっと怖い思いをした夜になった。コンビニ内では、帝京平成大学を激推しする放送が相変わらず流れていた。

 結局、ハイボールの濃いめを買った。公園のベンチでゆっくり飲むわけにもいかないので、まっすぐ家に帰ることにした。

 買うときに、店員の手を見ながら、この人も死ぬんだろうなと思った。それから、接客前にあんなに消毒ばかりして、手が荒れないだろうかと、心配になった。


 さよなら、トイレの幽霊。

 コンビニで大声で電話でしゃべりながらお菓子を買っていく大柄の男も、細いタバコだけを買っていく夜職帰りの女も、ストロングゼロを絵に描いたようにコンビニ袋にぎちぎちに詰めて歩くカップルも、今日はいないし、もう見かけることはないのかもしれない。

 道路の真ん中、無音の世界で伸びをした。うーんと、頭上に両手を伸ばす。身体のあちこちから小さな骨の音がパキパキと聞こえてきて、面白かった。手を下ろした直後、舌打ちが後ろから聞こえてきたような気がして、振り返る。車が一台、丁度こちらにゆっくりと向かってくる所だったので、あわてて歩道に戻った。

 それから、三年が経った。

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