「私石焼ビビンバって嫌いなんだよね」
七国山
「私石焼ビビンバって嫌いなんだよね」
「それならどうして注文したの? 石焼ビビンバ」
彼女は首を傾げ、私の手元にあるトレーを覗きこんだ。
木箱の上に載せられた、でんと構えた石の器。その上で焼かれるあつあつのご飯。小松菜、大根、もやしの三色のナムル。香ばしいタレで焼かれた牛肉に、黄色も鮮やかな玉子。そして真っ赤なコチュジャンがかかっているとなれば……それはもう、石焼ビビンバとしか言いようがなかった。
紛れもなく。それである。
私の嫌いな、石焼ビビンバである。
「てっきり好きなのかと思っていた。石焼ビビンバ。いつも美味しそうに食べてるし。石焼ビビンバ。まさか嫌いだったなんて知らなかったよ。石焼ビビンバ」
連呼してる内に楽しくなったのだろう。石焼ビビンバ。
そういう彼女は、テーブルの向かいでチーズバーガーを手にしていた。もひもひと、小動物のように少しずつ齧っている。
好きなモノを好きなように食べる彼女からすれば、私はさぞ奇妙に映るのだろう。このフードコートにはラーメンもフライドチキンもカレーもハンバーグもある。他の選択肢はいくらでもあるのに、私はわざわざ嫌いな石焼ビビンバを選んで食べてる。
好き好んで……いいや。『嫌い』好んでというべきか。
「なにそれ?」
結論から言うなら、私は石焼ビビンバの味は好きなのだ。食感も好きだし、香りも好きだ。ただし、石焼ビビンバを食べること。それ自体が……あまり好きではないのだ。
もう一度。私は石の器の中を見る。
中央に黄色い玉子が鎮座し、コチュジャンの赤がそれを支えている。三種のナムルと牛肉はそれにひれ伏し、黄色と赤の交わりを祝福している。
そう。これは曼荼羅なのだ。この混沌とした世界を救うために、理想の世界の秩序が描かれているのだ。
なのに。なのに。である。
私は。私の空腹を満たすためには。この秩序を破壊しなければならない。
手にしたステンレスのスプーンを無遠慮に突っ込んで、右に左に、上に下に、ぐちゃぐちゃに、かき混ぜなければならないのだ。
「……混ぜないで食べたら?」
それではダメだ。
カレーライスならいい。ルーの消費とライスの消費を合わせ、カレーとしての秩序を保ったまま完食する。カレーライスなら可能だろう。
だがビビンバは違う。石焼ビビンバは違う。ナムルだけ食べてもナムルでしかなく、牛肉だけ食べても牛肉でしかない。何より玉子を混ぜなければ。コチュジャンを混ぜなければ。それは到底ビビンバという食体験とは呼べないのだ。
私は。ビビンバは好きだ。味も香りも、食感も。そして見た目も。
だが食べるためには。そのビビンバの完成された、曼荼羅のような完璧な秩序を破壊しなければならない。そうでなければ、私はビビンバに辿り着けない。
だから。私は。
好き好んでではなく。嫌い好んで。
フードコートの数あるお店の中から、ビビンバを選んでここに来たのだ。
「なんでもいいけど、早くしないと冷めちゃうよ?」
スプーンを持ったまま動かない私に対し、彼女が呆れていた。
その通りではある。石の器の保温性が高いにしても、永遠ではない。ご飯のあつあつが失われてしまえば、冷たいナムルを熱くかき混ぜることなどできはしない。
賽は投げられた。
私はルビコン川を渡ってしまった。
ならば、混ぜるしかない。秩序を破壊し、蹂躙するしかない。
意を決して、私は石焼ビビンバにスプーンを突っ込ませる。ご飯を十字にも米の字にも切って、ひっくり返す。玉子の黄身を潰し、コチュジャンの赤と混ぜ合わせる。
ナムルも牛肉も逃さず。混沌の坩堝へ巻き込ませる。
まぜこぜに。ぐちゃぐちゃに。
そうして。全ては均一になった。
黄色が黄色に。赤が赤に。そんな秩序だった世界はもうどこにもなく、赤でも黄色でもない平等な世界がただ広がっていた。
なんてことをしてしまったのだろう。私は。
しかしそれをしでかした私は、心のどこかで歓喜していた。
あの美しい、完璧な秩序を、私のステンレスのスプーンが破壊した。その、歓喜。
ああ。もう止まらない。
私は理性を捨て、知恵を捨て、黙示録の獣となって世界を蹂躙した。牛肉もナムルも関係なく。色が黄色か赤など知ったことではなく。ご飯のお焦げも逃すことなく、ただただ、石焼ビビンバの鮮烈な香りを。石焼ビビンバの痛烈な食感を。石焼ビビンバの痛烈な味を。その歯でその舌でその喉で、味わいに味わい尽くしていた。
なんとあさましいことか。
でも。それが何よりも。おいしくて。たまらない。
「ねえ。一口いいかな?」
そんな私が、彼女も気になったのだろうか。
少し身を乗り出し、石の器の中身を覗きこんでいる。
まだチーズバーガーは半分ほど残っていたが、包み紙ごとトレーの上に放って置かれていた。
私は了承する。
一口くらい分け与えることは、なんでもない。
だが次に彼女がとった行動に、私は面食らってしまった。
「あー……」
あろうことか。はしたなくも。
彼女は私に向かって身を乗り出し、小さな口を精一杯に開けて、その喉の奥まで開いて見せたのだ。
目は閉じているが、それが何だというのか。
何やってんの。
そう言うのは簡単だった。彼女のいつもの冗談だ。もしくは悪ふざけ。軽くツッコミでも入れて、器とスプーンを貸してしまえばいい。
でも。私は。
震える手で。石焼ビビンバの一口分を救いとって。
恐る恐る。息もしないままに。彼女の口にスプーンを差し出したのだ。
「……んっ」
私のスプーンが、彼女の唇に挟まれる。
そのやわらかさとあたたかさが、スプーンごしに私の手に伝わってくる。あるいはひょっとしたら、歯も当たっているのかもしれない。
ああ。
私が『それ』を味わうためには。こんな美しい世界をぐちゃぐちゃにかき混ぜなくてはいけなくて。
けれども私は、美しいこの世界こそを愛していて。
なのに。どうして。
心臓の左の、ぽたぽたと何かが落ちて溜まり続けている部分が、スプーンを動かせと命じている。
ぐちゃぐちゃにかき混ぜてしまえと、私に。
「うん」
それは三秒にも満たない時間だった。
いつの間にか彼女が私のスプーンから離れ、もひもひと口の中で石焼ビビンバを味わっていた。
ひとしきり咀嚼して、味わって、嚥下する。
「ありがとう。おいしいね。次来るときは私も食べようかな。石焼ビビンバ」
そう言ってふにゃりと、スプーンでも潰せそうなやわらかさで彼女は笑う。
私は。彼女に向かってスプーンを差し出したまま。
そうだね。
と、答えるので、精一杯だった。
「私石焼ビビンバって嫌いなんだよね」 七国山 @sichikoku
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