れもん 🍋

上月くるを

れもん 🍋

 



 雑談に興じていた前の席のふたりが「じゃあ、また」と言いながら立ち上がった。

 ひとりは人気のお笑い芸人に似た中年男性で、ひとりはピンクの上着の高齢男性。


 と思ったが、レジへ向かうピンクのコーデュロイが足首まで……思わず目を瞠る。

 カタギに見えるけど何屋さん? あの歳の男性でピンクのスーツ、初めて見たわ。


 出かける前に姿見の前に立った男は、おのがファッションをどう眺めるのだろう。

 まったくもって余計なお世話の想像を巡らせる(笑)これだからカフェは楽しい。




      ☕




 メガネにバターが跳ねないように気をつけながらモーニングの半トーストを食べ、ゆで卵の皮を剥き(朝の担当によって出来不出来あり(笑))、ブレンドを味わう。


 歳時記とともにバッグから取り出すのは、昨日、古書店で求めた文庫本の一冊で、このころにはピンクのコーデュロイスーツの衝撃は、すっかり雲散霧消していた。



 ――梶井基次郎『檸檬れもん』。



 1967(昭和42)年の発行(初版は1950年)にしては活字が大きくて読みやすそうだし、表紙カバーの檸檬が信じられないほどあざやかで酸っぱそう。(笑)


 いつものくせで、巻末の解説から読み始めると「母は基次郎を愛していた。静かな大きい愛情をもって……」のフレーズに、いきなり、どっかんと胸を撃ち抜かれた。


 読書好きにして聞き上手な賢婦人だったという母親は、夫の血を引いてデカダンスに傾斜してゆく息子の将来を案じながらも、遠くから見守るしかなかったのだろう。


 


      📚




 金に困る暮らしのなかで、通りすがりの果物店で求めた一個の檸檬の質感や量感、匂いを五感で愉しみつつ、青年はそのままぶらりと丸善に入って書籍売場に向かう。


 画集を眺めているうちに突飛な空想を思いつき、つと手を伸ばして書棚の本を次々に積み上げると、気に入った色彩の本で城郭を築き、その尖端にそっと檸檬を置く。


 そのまま店を出た青年は、檸檬の形状の黄金色の爆弾が大爆発して大騒ぎになっているようすを空想しながら、活動写真の看板が傾いて見える坂をくだってゆく……。


 たしか再読のはずが、たったそれだけの内容を覚えていなかったことに呆れつつ、ヨウコさんの意識はふたたび先刻のピンクのコーデュロイスーツに引きもどされた。




      👖




 あの破天荒な格好でいまごろどこを歩いているのだろう、人びとの視線をうるさいと感じるのか、それとも愉しむのか、あるいは長年の習慣で、気にも留めないのか。


 もし現在の駅前の丸善に現代版デカダンスのピンクのコーデュロイが現われたら、若い店長は檸檬を警戒するかな……ヨウコさんは完全に妄想癖に取りこまれている。




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