月夜の散歩道
神崎あきら
月夜の散歩道
誰もが寝静まった夜、男は息を潜めてドアノブを回す。冷えた外気が流れ込み、喉を刺激する。咳き込みそうになるのを堪えて唇を噛み締めた。夜間の外出は禁じられている。決して悟られてはならない。
重い扉を押し開け、足を踏み出す。膝への加重に思わず顔をしかめる。そっとドアを閉めて、ゆっくりと歩き出した。
見上げた紺青の空には星の光も霞むような金色の月が輝いている。月の光に照らされるレンガの敷かれた庭は夜露に濡れる甘い花の香りに満ちていた。鼻腔をくすぐる芳香に男は口元を緩める。
錆びた鉄柵の錠前を外し、男は庭園のある白い屋敷の敷地から外へ出た。
白い街灯の光が冷たいアスファルトを照らしている。男は杖を頼りに当てもなく歩き始めた。郵便局脇の裏路地を抜けて、薬局の角を曲がり、廃業したガソリンスタンドの敷地を抜ける。
懐かしい風景だ。子供が熱を出したとき、妻にけしかけられて薬局に解熱剤を買いに走ったものだ。大人用を買ってきて怒られたのは今となっては笑い話だ。
電飾が壊れて店名も読めない理髪店はかつての行きつけだった。旦那と奧さんの二人がハサミを握っていたが、奧さんの腕が悪く髭を剃ってもらうのに生傷をつけられることも多かった。
それでも旦那よりセンスのいい頭にしてやると意気込んでいた元気な奧さんだった。肺がんが見つかって、あっという間に亡くなった。後を追うように旦那も脳溢血で死んだ。ケンカばかりしていたが、今頃あの世で仲良くやっているのかもしれない。
こんな時間だ、誰ともすれ違うことはない。懐かしい道を辿れば過去の記憶が蘇ってくる。それが楽しくていつの間にかずいぶん遠くに来てしまった。田んぼの真ん中にある八幡神社の鳥居を見て、はたと気が付いた。そろそろ戻った方がいいだろうか。そう思い始めたとき。
四つ辻の角、古びた街灯の光に照らされたものにふと目が留まった。膝の丈ほどある石だ。
「おや、これは」
屈んでよく見ると顔がある。緩やかな笑みを浮かべた顔だ。地蔵ではない、これは道祖神だ。素朴な笑顔が愛らしく、男は道祖神に笑い返す。こんな場所に道祖神などあっただろうか、不思議に思いながら歩みを進める。
すると、その先にも同じような格好の道祖神がある。先程とは違い、目を左右に向け唇を突き出したとぼけた表情だ。
人間味のある顔に親しみが湧いてきた。その先にも等間隔で道祖神が立っている。次はどんな顔をしているのだろう、男は興味を惹かれて道を進む。いつしか膝の痛みも忘れていた。
林道へと続く道は街灯も無くなったが、水を張った田んぼを月が明るく照らしている。男は道祖神に導かれるように進んでいく。
緩やかなカーブを描いた上り坂の先に一軒の家があった。何故か懐かしい気がした。窓からは柔らかな橙色の光が漏れている。男は窓から家の中をこっそり覗き込んだ。
家族が食卓を囲んでいる。女の子と少し年嵩の男の子、そして彼らの母であろう女性。始終笑顔が絶えない、仲の良い家族だ。
「あら、あなた。帰っていらしたのね」
女性が窓越しに微笑む。子供たちは手を振っている。男は玄関の方へ回った。ドアの鍵は空いていた。
「おかえりなさい」
玄関では女性が出迎えてくれた。その背後には子供たちがはにかんだ表情で隠れている。炊きたてのご飯の香りに男の腹が鳴った。それを聞いた子供たちがくすくす笑った。
「ただいま」
ああ、久しぶりに口にした言葉だ。彼らと共に楽しい夕食を囲むことができる。自然と頬が緩んだ。
***
「中村さんがいない」
朝6時、介護老人ホーム幸寿園では入居者の男性が部屋にいないことで大騒ぎとなった。身寄りは無く、認知症の進行のため歩くのもおぼつかないような男性だった。通用口の鍵を開けて出て行ったのだ。
「これで今年に入って三人目だ」
施設長は愕然とする。彼には身よりは無いものの、本部から責任を問われることに頭を抱えた。
この辺りには川や田んぼが多く転落した可能性もあるが、どこを捜索しても行方不明者は未だ見つかっていない。彼らは一体どこへ消えたというのだろう。
90歳近い女性利用者からこんな話を聞いた。
この地方には「迷い家」の伝説がある。普段は見つけることができないが、月の輝く夜には迷い家への道しるべができるという。
迷い家はこの世のものではなく、そこへ導かれた者は温かいもてなしを受ける。現世に帰りたいと願えば帰ることができるが、迷い家に魅入られたものは帰ってくることはないのだと。天涯孤独だった彼は迷い家で何を見たのだろうか。
月夜の散歩道 神崎あきら @akatuki_kz
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