KAC20236 「アンラッキー7」
小烏 つむぎ
KAC20236 幕末のついてないサムライ
さてさて、「7つの不幸」に見舞われた若者の話しをいたしましょう。
ここで語られる「不幸」のそのほとんどは、史実。当時の人々はなかなか大変な時代に生きたものでございます。
◇ ◇ ◇
幕末、日本がその存在をかけて大きく揺れ動いた時代、海外に目を向け外国の新しい知識を学ぼうともがいた若者たちが日本各地にいた。
薩摩では
そして、
請西藩勘定方の次男、中野七三郎は留学仲間を集めんと藩内の次男以下に留学の必要性を説いて回った。なぜ次男以下かというと、長男は家督を継ぐことが決まっているのに対して次男以下は部屋住みとして穀つぶし扱いをされがちだったからである。
我ら部屋住みでもなにかしらお国(藩)のために尽くしたい!なんとか起死回生を!次男以下にも生きる意味を!そう考えての留学なのであった。
あちこち説得してまわり、なんと7名もの同志が集まった。本人の納得とその家族の了承をとりつけ、勘定方の父親の根回しで藩からの資金援助ももらえることになった。
家族からはさほど期待もされぬまま、異国の船に便乗するため長崎に向かおうとした、安政5年(1858年)。
まず1つ目の不幸に見舞われた。
長崎から発したからコロリ(コレラ)という恐ろしい病が大流行したため藩から出ることがかなわず足止めになった(この時、歌川広重がコロリで亡くなった)。
2つ目の不幸は、4年後の文久2年(1862年)。
再度準備を滞りなく済ませ今度は折よく幕府の遣欧使節(オランダ)に同行出来るという時、またしてもコロリが今回は麻疹とともに横須賀から江戸市中を席巻した(新選組一の剣の使い手と名高い沖田総司も麻疹に罹患、生死の境をさまよった)
この時は
七三郎の義兄も、
それでも何とか幕府の遣欧使節(イギリス)に同行して横浜から出航できたのが慶応2年(1866年)10月。留学を希望してすでに8年が過ぎていた。中野七三郎はともに行くことの叶わなかった友の分まで学んで帰ると心に誓った。
しかしこの年、幕府は
これが5つ目の不幸。
使節団も一部を残して帰国するようにと連絡が届いた。。中野七三郎たちもほとんど学ぶこともなく帰国せざるを得なかった。
これが6つ目の不幸であった。
そして7つ目にして最大の不幸は、帰国後に判明した。
なんと請西藩の藩主当人が家臣の反対を押しきって脱藩。一部藩士とともに
ちなみに、請西藩は戊辰戦争によって改易となった唯一の藩である
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長州ファイブ
幕末期、国禁を破って命がけで英国へ渡った長州出身の5人の若者。
伊藤博文…初代内閣総理大臣(内閣の父)
井上 馨…初代外務大臣(外交の父)
山尾庸三…工部卿(工業の父)
遠藤謹助…造幣局長(造幣の父)
井上 勝…鉄道庁長官(鉄道の父)
富田鐵之助…のちの日銀総裁、東京府知事を務める
高橋是清…のちの日銀総裁、大蔵大臣、内閣総理大臣
幕府軍の部隊。
戊辰戦争では抗戦派の一派が榎本武揚艦隊の協力を得て江戸を脱出。
請西藩主・林忠崇と同盟を結んで決起した。
抗戦を続けたが戦死・降伏が相次ぎ、伊庭・人見ら90余名のみが榎本艦隊と共に蝦夷地へ渡り、箱館戦争に身を投じた。箱館では主に松前守備を担当した。
☆注意)
中野七三郎はオリジナルの人物です
記述されている(不幸な)出来事は史実です
KAC20236 「アンラッキー7」 小烏 つむぎ @9875hh564
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