まだ踏切にいる

いいの すけこ

いつかの夜に

 『お父さんとの離婚、成立しました』

 終電間際の電車に揺られていた時、送られてきた簡潔なメッセージ。

 とうとう、ようやく、この日が来たか。

 母からの言葉に硬直したのは一瞬。すぐに俺も、返事を返す。

『おつかれ』

『あんたももう大学生になったし、家を出たしね』

 おつかれ、の前から、文字を打ち続けていたのだろう。俺のメッセージとほぼ同時に画面に浮かび上がってきた母の言葉に返信しようとして、やめる。

 俺がいたから、我慢してたんだね。

 そんなこと言って、無駄に母を傷つけることもない。 

『一人暮らし、どう? 学校ちゃんと行ってますか』

『ぼちぼち。おかんこそ、一人で平気?』

 母はずっと、頑張ってきたのだし。

『あんたがいないのはちょっと寂しいけど、お父さんと一緒にいるよりはね』

 うん。気を使って暮らすの、疲れるよね。

 実家から大学に通えない距離でもなし、母を一人置いて家を出るのは薄情だと思ったけど。それでも、母が人生を再スタートさせたように。俺だって、新しい環境に身を置いてみたかったんだよな。

『近いんだから、たまには帰ってきてね』

『そのうちね』

 母とのやり取りを切り上げて、俺はため息を吐いた。

 友達と夕方から遊んでいたら、あっという間に時間が過ぎた。大学生になってまだ二か月、俺のつるむメンバーは、まだオールしようと言い出す根性のあるやつはいなくて。みんな別方向ばらばらに、慌てて終電近い電車に乗り込んだ。

 ああでも、今日は一人で帰らなきゃよかったな。

 オールしなくても良いから。誰かの家に泊めてもらうとか。

 しかし母がこんな時間に連絡してくるとは。気持ちが高ぶって、眠れないんだろうか。俺も眠れる気、しないけど。


 こんな気分の夜を、小さい頃から何度も繰り返してきた。

 一番鮮明に覚えているのは、小三か、四年の時の。

(そうだ)

 記憶を遡っていた俺は、唐突に思いついてスマホで路線検索を始める。

 もう時間が時間だから、無理だろうか。現在地の駅名を入力して、目的地を入力して。

「よし」

 まだぎりぎり、電車はある。

 アパートの最寄り駅より、もっと手前で降車して乗り換える。大学に進学する前から、ずっと馴染みのある路線。

 行先表示には、赤い字で終電と書かれていた。乗り込んで、五つ目の駅で下車。

 たまには帰ってきてね、と母の言葉が脳裏に蘇る。

 実家の最寄り駅で、俺は電車を降りた。

 駅前にあるのはコンビニ、スーパー。あと薬局とファストフード店。かろうじて遊べるのはカラオケボックスくらい。コンビニは二十四時間だけど、スーパーと薬局は閉まっている。

 全てを済ませるにはちょっと足りない、でも生活するには十分。 

 そういう場所で、俺は生まれて育った。

 実家までは歩いて十分かからないくらい。だけどさすがにこんな時間に行ったりはしない。

 実家の逆方向へと歩き出す。


 小学生の頃。

 深夜に両親が大喧嘩を始めた。

 子どもが起きちゃうじゃない、という母の声を当人の俺は聞いていて。

 リビングの扉越しの言い争いに、自分の存在が両親を縛っているのだと悟った。

 自分がいなくなれば。

 冷え切った家の中にいるのだって耐え難かった。

 真夜中に家を飛び出して、遠くに行ってしまうことにした。

 思いついたのは母方の祖父母の家で、駅までやってきたのはいいけれど。電車は終了していて、俺は歩いて目指すことにした。

「よく小学生の足で歩こうと思ったよなあ……」

 あの時のことを思い出しながら、同じ道を歩いていく。

 初夏だというのに、うすら寒い夜だ。

 電灯は等間隔に設置されていて、LEDの強力な明かりがまぶしかった。フェンス越しの線路をずっと先まで照らしている。真っ黒いレールが白く光っていた。

 駅を離れてしまえば、住宅地の間を縫って走る線路沿いは家ばかりだ。まだ幼かったあの頃、静まり返った深夜の街はただ心細かった。時々まだ明かりの灯っている家を見つければ、早く祖父母の家に到着したいと、その思いで歩き続けて。そこまでは三駅ほどの距離で、子どもの足にはあまりに遠かった。

 成長した今、歩くのはそれほどつらくない。心細さは、少し。

 あの夜、自分の目に映った景色の記憶は断片的で。抱えていた不安な気持ちばかりが蘇る。

 ぱちんと電灯がはじける音が、いやに大きく耳に響いた。


「……あれ?」

 不鮮明な記憶の中の風景。けれどそれでも、おかしいと思う景色に遭遇した。

「踏切?」

 明かりの中に、白くぽっかりと浮かぶ踏切があった。電車が終わった今、遮断桿は上がったまま、警告音もなく信号も消えている。

 ここは踏切、なくなったんじゃなかったっけ?

 自分が幼い頃は、確かに電車は地上を走っていた。だから踏切も設置されていたが、ここ数年で地下に潜って、踏切も廃止されたはずで。

 ああだけど、この踏切は。

 今、俺はどこを歩いてるんだっけ。

 歩いて歩いて、どこまで来てしまったんだろうか。

 LEDは、はじける音なんてしたっけな?

 いつだっけ、今は。

 いつを歩いて、いるんだろう。

 遮断機の根本に、小さな子どもがうずくまっていた。

 確かこの辺りで、もう歩けないって、なったんだったよな。

 足も心も、もう無理だって、叫んでたから。


「帰んなよ」

 声を掛けたら、子どもが顔を上げた。懐かしい、見慣れた造作。

「ばあちゃんちは、遠いよ。とても歩けっこないって、気づいちゃったんだろう」

 ここまでの距離じゃ、まだ一駅とちょっとしか稼げていない。電車だとあっという間に過ぎるこの踏切ですら、歩くとこんなに遠いなんて。自分の無謀さを思い知って、すっかり心が折れたんだった。

「少し戻ったら、駅があるから。うちの近くの駅じゃなくて、一個先のな。そこには交番もあって、まだお巡りさんが、いるからさ。きちんと事情を話して、助けてもらいなよ」

 うっすらと、思い出す。

 なにもかもに絶望しきったあの時、誰かが声をかけてくれたのを。一緒についてきてはくれなかったけれど。助言通りに交番に駆け込んで、両親に迎えに来てもらったんだったっけな。

 俺は立ち上がった子どもの背中を叩いて送り出す。ド深夜に短距離でも子どもを一人で行かせるのはどうかと思うけれど、どれだけ関わっていいのかも、わからないし。

「この後おかんに、めちゃくちゃ泣かれるんだよなあ……」

 ため息をひとつ、踵を返して来た道を戻る。

 幼い自分は無事に家に帰るだろうけど、果たしてこの俺は無事いつもの朝を迎えられるんだろうか。まあ、歩いているうちになんとかなりそうな、気はする。

 駅に戻ったところで終電はないし、とりあえずカラオケボックスで一夜を明かすこととしよう。

 踏切を後にする。後ろは振り返らないで。

 このレールは一体どこに続いているのか。

 そんなことを考えながら、俺は線路に沿って歩いていく。






 

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