めんどくさいお隣さんと海

稲荷竜

第1話

「これは理性と欲望の狭間で揺れる人間性の物語である」


 僕の家の隣には迷惑な変人が住んでいて、その人はこんなような通話を唐突に仕掛けてくる。


 部屋の窓から見えるその人の部屋はまだ明かりがついていて、カーテン越しに立ち上がって歩き回りながらスマホを耳に当てている人のシルエットが見えた。


「なんですかいきなり」


 相手は五歳上の女性だ。

 小さいころにはよく遊んでもらった。すごくよく遊んでもらった。

 大学生になっていろんなことについて考えられるようになった僕が理解したのは、『この人、年下の男の子といつも遊んじゃうぐらい同級生の友達がいないんだな……』という、もの寂しい事実だった。


 悲しきぼっちの大人はカーテンの向こうで苦悩を表現しながら、わけのわからない話を続けた。


「君は目を閉じて横になった時に、ふと海が押し寄せてきて目を開いた経験はあるかな?」「ないですね」

「かぐわしき磯の香りが私の脳髄を物理的な重量さえともなって叩いた時、私は人生と節制との関係について思いをはせざるをえなかった。カオツ、昆布、あるいは煮干し。それらが塩辛さを伴った海の中を泳いでいる光景が頭をよぎった瞬間、この海の重量感に比して、私の体はなんと軽く渇いているのだろうと愕然としてしまったね。その時、私は己の使命を自覚した。だが、罪の意識もある。こんな時間に果たして、かぐわしき海をすするのは許されるのか? 私はね、共犯者を求めているんだよ。ともに罪を背負う同胞を」

「ようするに『こんな夜中なのにラーメン食べたい』っていう話ですよね」

「端的に換言すればそうなる」


 この人は本当に、いちいち話がまわりくどい。

 少しは短くわかりやすく人に伝える努力をしてほしいものだ。


 まあ……

 きっと、僕がこうやって付き合うから、この人も改善しようと思わないのだろうけれど。


 夜の散歩に行こう。

 目的地はもちろん、ラーメン屋だ。

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めんどくさいお隣さんと海 稲荷竜 @Ryu_Inari

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