やめればよかった

平 遊

今じゃないんだよなぁ…

 今日、同僚が早退した。

 地元で刃物を持った男が小学校に侵入し、生徒を守ろうとした教師の一人を切りつけてそのまま逃走したらしく、学校側から子供を迎えに来るよう連絡があったとのこと。

 それはそうだろう。

 どこに刃物男がいるかも分からない中、子供だけで帰宅させるなど危険すぎる。

 でも、その分の同僚の仕事はどうなるかと言えば、独身を謳歌しているこの俺の元にやってくる訳で。


 ちっ、刃物男め!


 その同僚とは最寄り駅が同じで割と仲はいい方だし、絶対に早退して子供を迎えにいくべきとも思う俺が、やり場のない怒りをぶつける相手は刃物男しかいないのだ。

 心の中で毒づきながら、俺は同僚の分の仕事もこなし、クタクタの体を終電間際の電車に押し込んで帰路に着いた。


 俺の名前は、のぞみ。

 漢字は、望だ。

 望みとは、叶うものだよなあ?

 強く望めばそれは叶うと、遠い昔に読んだ絵本に、確かに書いてあったぞ?

 だけど、人生はなかなか、望み通りには行かないらしい。

 おかしいな。

 名は体を表すんじゃなかったっけ?

 例えば、今日だって本当は、定時で帰りたかったのに、こんな深夜になってるし。


 なんだかなぁ、まったく。


 会社を出てから家につくまでの間、何度かスマホがブルブルと震えていたようだが、仕事関係の連絡だったら今は見たくないと、敢えてスルー。

 家に帰るなり、ソファにダイブして目を閉じた。


 が。


 眠れない。

 こんなに体は疲れているのに、どうやら頭の方は興奮気味らしい。

 ほらまた、俺の望みはこんなことすら叶わない。俺はただ、眠りたいだけなのに。

 このまま眠たくなるまでじっとしている、という選択肢もあったが、俺は別の選択をしてみた。


 少し、ぼんやりと夜風にでも当たって、頭を冷やそう。


 こんな時、スーツ着用の職場じゃなくて良かった、なんて思う。スーツ姿で散歩なんかしたって、なんの気晴らしにもなるまい。

 ソファから起き上がったままの格好で、俺はスマホと鍵だけを持って家を出た。本当に、近所をブラリと散歩する程度のつもりで。

 ふと夜空を見上げれば、丸に近い月が見えた。


 今夜は満月なのだろうか?


 それほど月や星に興味がある方では無かったが、なんとはなしに調べてみようとスマホを取り出す。


 と。


 何件ものアラートが目に飛び込んできた。


『…現在も犯人は逃走中です。不要不急の外出はお控えください…』


 しまった!

 すっかり忘れてた!

 つーか、まだ捕まってなかったのかよ、刃物男っ!


 慌てて踵を返した俺の目の前に、突然フードを目深に被った奴が現れた。

 しかも、メチャクチャ至近距離で。


 なんだこいつ?


 と思った瞬間。

 そいつの口元がニヤリと笑うのが見えたのと同時に、左脇腹に今まで感じたことの無い衝撃が走った。


 あつっ!

 いや…冷たい?

 ん?

 …痛い、のか?


 俺の意志には関わらず、腰から力が抜けて、膝から地面に崩れ落ちる。

 全体重が膝に掛かって、膝に激痛が走ったけれども。


 もしかしてこれ、かなりヤバい状況じゃね…?


 なんとか右側を下に横向きに倒れることに成功した俺は、恐る恐る左手で脇腹に触れてみた。すると、脇腹からは明らかに俺の体ではないものが突き出している。

 いや。

 俺の脇腹には、小ぶりの刃物が突き刺さっていたのだ。


 俺の脇腹に向かって伸ばされた誰かの手がビクリと震え、素早く引っ込んだと思ったら、足音が遠ざかって行った。

 ぼんやりとした視界の中で遠ざかる姿から察するに、手の主はどうやらあのフードの奴だったようで、おまけに奴は刃物男だったらしい。

 と同時に、微かに遠くからサイレンの音が近づいてきた。


 なぁ、頼むよ神様。

 俺、こんなとこでこんな死に方なんかしたくない。

 まだ、生きていたいんだよ。

 この、最低限の望みくらい、叶えてくれてもいいんじゃねぇか?


 …今までちっとも、叶えてくれなかったんだから、さ。


 朦朧とし始めた頭によぎるのは、ついさっきの誤った選択。


 あ~あ、やめればよかったなぁ、深夜の散歩なんて。なんで、眠たくなるまでじっとしていなかったんだろう、俺。

 昼間の散歩だって、滅多にしないってのに…あぁ、今頃眠たくなってきやがった。違うんだよ、今じゃない…んだよ…な…



【終】

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