夜を歩く。最後の夜を。【KAC20234 お題「深夜の散歩で起きた出来事」】

蓮乗十互

夜を歩く。最後の夜を。

 明日、この街を離れる。夕食の時に、おばあちゃんは笑いながら泣いた。


「四年も一緒におっくれごいただけで、おばあちゃんは嬉しいからけんね。さっちゃんはこから、自分の人生を歩くんだよだで


 松映まつばえの言葉の響きは、とうに耳に馴染んでいた。


 眠れず、夜中にそっと家を出た。独りスニーカーで歩き出す。


 寄宿したおばあちゃんの家は漁汲あさくみ川のほとりだ。対岸の明るい学園通りを避け、住宅街を辿る。


 神奈川出身の金﨑かねさきさちが遠く澄舞すまいに進学したのは、母の故郷の縁だ。祖父母の家が大学至近にあった。子供の頃は家族で毎年来ていたので、田舎なのは分かっていた。


 暗い川筋からバイパスの交差点を越え、山の麓を歩いて、橋を渡る。経梁川きょうばしがわ支流に入り、住宅街を辿る。この街のランドスケープと、人の暮らしの息づかい。


 おじいちゃんが心筋梗塞で亡くなったのは大学一年生の冬。幸が倒れているおじいちゃんを見つけ、救急車を呼んだ。


 四十九日の時に母さんがいった。


「幸がおばあちゃんの側にいてくれて、本当に良かった」


 細い水路を辿ると、住宅地、オフィス街から歴史地区へ続く。松映まつばえ城の石垣を堀の向こうに眺めながら、武家屋敷、蕎麦屋、明治の文豪の旧居と辿る。日本文学専攻の幸は、この作家を研究した。ギリシアに生まれ、アイルランドで育ち、アメリカを拠点に放浪し日本に辿り着いた幻視者。竹下先生には随分絞られたけれど、おかげで良い卒論になったと思う。


 旧居前に、見覚えのない古びた木造の建物。「古書肆こしょし泥蓮洞でいれんどう」の額がかかる。闇の中でぼんやりと店内が光る。誘われるように幸は引き戸を開けて中に入る。狭い空間、木造書架。電球色、古紙の香り。


 店の奥に店主がいた。よく識る作家の顔をしていた。


「この街で経験したことは、あなたを生涯支えるよ」


 翌朝。松映駅ホームに作家と同じ名の特急が到着した。乗り込む前に、おばあちゃんを抱きしめた。ぎゅっ、と腕に力を込めて。

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