天狗先生、真夜中のお散歩

平本りこ

天狗先生、真夜中のお散歩

 義真ぎしんが家出した。


 常ならば、寝室の洋燈ランプの側で本の虫になる時刻。けれどもここは、帝都ではない。きぬの実家、楓木かえでぎ家である。


 今宵は滞在最終日。家族団欒の夕食後、いつもの通り客室で寝転がっているかと思いきや、義真の姿は消えていた。それはもう、忽然と。


 義真はきっと、家出した。原因はおそらく、きぬの両親の、よそよそしい態度だろう。


 両親にとってきぬは、季糸きいである。木蝋もくろう職人、矢渡やわたり聡一そういちの妻となり、崖崩れに巻き込まれて命を落とした娘。


 それが突然、元気溌剌とした姿で戻ってきた。寡黙に過ぎる天狗の夫を伴って。


 手紙では事前に、義真との経緯を両親に伝えていた。けれども実際、噂の天狗先生の姿を目にすると、どこか受け入れ難い気持ちがあるらしい。


 無論、両親には、娘の新たな夫を除け者にするつもりは毛頭ない。家族の輪に受け入れようと、気さくに声を掛けてくれた。けれども義真は極度の人嫌い。会話が苦手な天狗である。


 父や母の問いかけに、義真は一度たりともまともに答えない。これでも、義真としては普段となんら変わらぬ応答をしているに違いない。その証拠に、勝色かついろの翼のなんと感情豊かなことか。来客のため、母が腕によりをかけて用意してくれた夕餉を食し、翼が揺れる。父が酒を勧めれば恐縮したように翼を縮こまらせる。


 翼が読める者ならば、この日の義真はむしろ、普段よりを気を回して喜びと配慮を示そうとしていることが見て取れる。


 だがしかし、両親にかようなことが、わかるはずもないのである。


 暖簾のれんに腕押し、豆腐にかすがい。反応の薄過ぎる義真を前に、両親の心は折れたのだろう。結果、滞在最終日の本日、夕餉の席は沈黙に包まれた。


 いつもと変わらぬ無表情で川魚をつついた義真はなぜか、食後にどろんと姿を消してしまい、今に至るのである。


 きぬは考える。義真の出奔が大ごとになれば、寛大な両親といえど良い気はせぬだろう。


 何も告げず突然姿を消した奔放さに、怒りを覚えぬわけではない。けれどもそれ以上に、義真が誰かに批難されるのは胸が痛む。誰が何と言おうと、義真はきぬが愛した夫なのだから。


 となればここは。


「連れ戻さないと。誰にも内緒で」



Ψ



 物影すら見えない暗闇だ。文字通り、一寸先は闇である。


 義真は、指先から闇に溶けてしまいそうな夜色の中、置物のように微動だにせず、夜行性の獣の立てる騒めきに耳を傾けた。


 なぜこうなってしまったのか。ことの発端は、夕食時。きぬが何気なく漏らしたひと言である。


『抱き楓の巾着きんちゃく、お家に置いてきてしまったみたいなの』


 義真と出会う前、崖から落ちて記憶喪失になったきぬ。今でも記憶は断片的にしか戻っていない。そんな彼女の素性が判明した理由の一つが、肌身離さず持っていた抱き楓の家紋入りの巾着だ。きぬはその巾着を大層大事に扱っていた。帝都の自宅にいる時も、巾着を放り出すことなどない。


 きぬは夕餉の席で、『家に置いてきてしまった』と言ったのだが、あれはおそらく思い違いである。義真は滞在初日、きぬの首にかけられた巾着の紐を見たはずなのだ。巾着は、どこかで紛失してしまったのだろう。村でのきぬの活動範囲は決して広くない。風雨が巾着を森に埋もれさせてしまう前に、探し出してやろうと思った。


 天狗にとって、山は庭のようなものである。きぬと共に歩いた道は、明瞭に記憶に残っている。それゆえ義真は、失せ物探しを深刻に捉えることはせず、安易な気持ちで提灯ちょうちん片手に家を抜け出した。


 山道を歩み始めたまでは良かった。けれども義真、大事なことを失念していたのである。天狗は総じて夜目が利かぬのだ。


 これが帝都ならば、瓦斯燈ガスとうがぼんやりとした明かりを投げてくれるので、足元が危険過ぎるということもない。だがここは、山村である。文明の利器とは縁遠い。山暮らしが長かったくせに、山を軽んじた帝都かぶれの義真はやがて、足を滑らせ斜面から滑落し、提灯を失った。


 そうなれば万事休す。暗闇にひっそり佇み、夜明けを待つ他ないのである。


 森と同化することしばし。いくら樹木のようになったとて、人は思考し続ける存在だ。頭の中は、混沌とした言葉で満たされる。


 楓木の家では、突如姿を消した義真に対し、罵倒の嵐が吹き荒れているのではなかろうか。ただでさえ己は、背中に翼を背負う天狗。人間であるきぬの両親からすれば、娘の夫が天狗だなんて、まさに青天の霹靂で、失望すら抱いたかもしれない。


 実家に帰り、人間の山村で数日過ごしたきぬも、人間の暮らしに戻りたくなったのではないか。その証拠に今晩の夕餉の席は、いつになく静かであった。


 もしかすると、このまま永遠に帰らぬ方が良いのでは……。


「……ん、義真さん!」


 きぬの声がする。続いて急斜面の頂上から、ぼんやりと提灯の朱色が覗いた。灯火に照らされた森が薄っすらと、黒い影を茂らせている。


「きぬ」

「義真さん! 大丈夫? 今から行くね」


 言うや否や、朱色が向こう側へと消えていく。しばらくして、どういう訳か、きぬは下からやってきた。


「怪我はない?」


 義真は、ああと頷く。


「義真さん、探していたんだよ。心配したの。お父さんとお母さんがごめんね。きっと嫌な気分にさせてしまったよね。悪気はないんだよ。でも、気づかなくてごめんなさい。まさか家出するほど辛かったなんて」


 義真は、小さく首を傾けて、朱色の中に浮かび上がるきぬの顔をまじまじと見つめた。


「家出?」

「違うの?」

「俺はただ、巾着を」

「巾着……」

 

 目を瞬かせ、きぬは義真の顔を見る。夜目が利かないながら、義真もきぬを見つめ返す。しばらくして、きぬは不意に、小さな笑い声を上げた。


「もう、義真さんって、本当に……」


 きぬは言葉と区切り、それから柔らかく微笑んだ。


「巾着は明日一緒に探してくれる? さあ、夜も遅いし今は帰ろう」

「どうやって」

「見えないかもしれないけれど、あの辺りに階段があるの」


 きぬが提灯で指し示した先はやはり闇。階段なんて見当たらない。だが、きぬの言葉を信じるならば、義真は階段横の斜面を滑り落ち、ただの通路で木立と同化するように直立していたということか。なんとも滑稽である。赤面ものだ。


 むっつりと、いっそう静かになる義真の心中を知ってか知らずか、きぬは義真の手を取った。


「私が道を教えてあげるから、無理しないで歩いて。……お父さんたちとも、ゆっくり仲良くなってね」


 淡い光の中、きぬの横顔が照らし出されている。夜目が利かない天狗には、朱色に揺れる滑らかな頬が、唯一の頼りである。


 不器用で愛想のない天狗の義真。それでもきぬは、いつも柔和な光で導いてくれる。夜道だけではない。天狗と人間、異色な夫婦に待ち受ける困難な未来でさえも、彼女が照らし切り拓いてくれるのだろう。


 心からの愛おしさを感じ、繋いだ手に指を絡める。きぬは応え、寄り添うようにして一歩距離を縮めた。


「真夜中のお散歩も悪くないね」


 そうだな、と義真は翼を揺らした。


 



 

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