真夜中に脱け出して

佐倉伸哉

本編

 天文てんぶん二十二年(西暦一五五三年)二月、那古野なごや城。

 織田“上総介かずさのすけ”信長は、深夜に目を覚ましてしまった。

 再び眠ろうと布団にもぐるが、目がえてしまい眠気は一向にやってこない。

 このところ、ずっとこんな感じである。“またか”と半ば諦め、信長は身を起こす。

 隣の布団には、スゥスゥと寝息を立てている女性が。正室・帰蝶きちょうである。安らかな眠りを邪魔してはいかんと、信長は音を立てないようにソッと移動する。

 小袖のまま部屋をそっと出ると、宿直とのいをしていた二人の小姓が顔を上げた。

「殿、如何いかがされましたか?」

 今は、おおよそ亥の正刻(午後十時)。不寝番ねずのばんをしていなければ皆寝ているような時間である。

「……ちと、夜風に当たってくる」

 寝床に居ても眠れそうにないと思った信長は、少し歩いて気分転換を図ろうと考えた。

「では我等も――」

 信長が出掛けるとなれば小姓達も護衛に付き従わなければならない。立ち上がろうとした小姓達を、信長は手で制する。

「供は、不要。一人で考えたい。……俺はここで寝ている、いいな?」

「……かしこまりました」

 主君から命じられた以上、従わざるを得ない。小姓達はそのまま腰を下ろした。

 これが普通の主君なら『もし万一何かあったら大変です!』と護衛につくことを譲らないが、信長はそうではない。家督を継ぐ前から夜中にこっそり城を抜け出した事は幾度もあり、家臣達も慣れていた。それに、あまりしつこく主張すると主君の勘気かんきこうむる恐れがあるので、潔く引いておいた方が心象しんしょうは良い。

 偽装アリバイ工作は済ませた信長は、暗い中でもスルスルと進んで城の外へとけ出した。夜中に馬を使えば逆に目立つので、徒歩で城下の方へ歩いて行く。

 起きている者の方が少ない時間だけあって、辺りは静寂に包まれている。自らが地面を踏む音だけが響く中、信長は白い息を吐きながら黙々と進んでいく。

 自分がなかなか寝付けない原因を、信長は理解していた。しかし、理由が分かっているからと言ってすぐに解決出来るとは限らない。

じい……)

 信長の脳裏に、一人の人物の顔が浮かぶ。

 平手ひらて五郎左衛門ごろうざえもん政秀まさひで。織田“弾正忠”家に仕える重臣で、信長の傅役もりやくを務める人物である。

 自分で言うのもアレだが、政秀にはとても苦労を掛けた。織田家の嫡男として相応しい人物になるよう腐心ふしんするのとは裏腹に、幼い頃から信長はに角“ちゃんとする”のを嫌がった。慣習や仕来しきたりの通りにすることを良しとせず、自分なりに勝手が良いように振舞った。良く言えば傾奇者かぶきもの、単刀直入に言えば“うつけ”と皆がそう評したくらい、信長の奇行は世に知れ渡った。教育係を主君・信秀から任された政秀は毎日頭を抱え、信長を捕まえては懇々こんこんと注意したものだ。家督を継いでからも「当主になられたのですからきちんとなさいませ」と諫言かんげんしていたのだが――。

(どうして、俺を置いていった……)

 口やかましく叱ってくれた政秀は、もう居ない。先月のうるう一月十三日、政秀は自刃してしまった。享年六十二。

 世間では「家督を継いでからも奇行を止めない信長を諫める為の死」と捉えられている。実際、信長も間者を使ってそういう風に広めさせた。だが、実際は違う。

(俺の力がないばかりに、爺を死なせてしまった)

 唇をギュッと噛む信長。絶対の味方である政秀を死に追いやったと自らを責めていた。

 信長の置かれた状況は、大変厳しいものだった。織田“弾正忠”家は、父・信秀の才覚で尾張一国を統一しただけでなく西三河にも勢力を伸ばす程の一大勢力を築いた。信秀が頭角を現したのは戦に強かったのもあるが、津島や熱田などの商業地を押さえて経済的に強固な地盤を確立したことが大きかった。

 だが、北の美濃には“美濃のまむし”こと斎藤道三、東の三河には“海道一の弓取り”こと今川義元と、二方面に稀代きだいの名将を抱えていたが為に、信秀は思うように版図はんとを広げることが出来なかった。度重なる戦に出ても金蔵は揺るぎなかったが、駆り出される兵は連戦のせいもありり減らされ、全盛期と比べて信秀もなかなか勝てなくなってしまったのが最大の要因だった。斎藤道三の娘である帰蝶を信長の正室に迎える事で北から侵攻される心配はなくなったが、東では西三河を失い、今川が尾張国に迫ろうとしていた。信秀の影響力にかげりが見え始めたことで、それまで従っていた尾張国内の勢力も反旗をひるがえし、建て直しが急務となっていた矢先……昨年、父・信秀は急死してしまった。享年四十二。死ぬにはまだ早い歳だった。

 偉大な当主を失った織田“弾正忠”家は、生前からの取り決めで嫡男の信長が家督を継いだのだが……家中は一枚岩とは言い切れなかった。

 尾張国内どころか周辺諸国にも“うつけ”で有名な信長の器量を、家臣の大半は疑問視していた。奇行ばかり目立つ信長とは対照的に、その弟である“勘十郎”信行のぶゆきは品行方正で神輿みこしとして担ぐにはうってつけの人物だったのもあり、家中には危なっかしい信長を廃して信行を当主に据えようと考える者も少なくなかった。家臣が『仕えるに値しない』と判断すれば、家臣同士で結託して主君の首をげ替える例は決して珍しくない。「嫌じゃー」「どうすればいいー」とわめくだけの盆暗ボンクラ主君なんかに誰も忠誠は尽くさないのである。乱世では主君も家臣から見定められていた。

 家の外も、内も、敵だらけ。信長が真に頼めるのは傅役である政秀くらいだけだが……信行の傅役を務めた柴田勝家や信長の家老をしているが内心は“信行側に付きたい”思いを抱く佐久間信盛・林秀貞と、政秀は四面楚歌の状況に置かれていた。信行方の家臣達に詰め腹を切らされた――それが今回の真相である。

 自分がもっとしっかりしていれば、家中ににらみを利かせておけば、政秀は死なずに済んだ。信長は悔やんでも悔やみきれなかった。

 暗闇の中を、手提灯ちょうちんの明かりだけでズンズンと突き進んでいく信長。今は歩く事に集中したかった。そうしないと、不安に押し潰されそうだったから。

 夜道を一人で歩いても、襲われる不安はなかった。信長の領内は、極めて治安が良かったからだ。経済的に余裕のあった織田家では、領内の道や橋などの普請ふしんが盛んに行われており、農家の次男三男など行き場のない輩が犯罪に手を染めなくても生活していけるだけの仕組みが出来上がっていたからだ。加えて、信長は若い頃から城下へ頻繁に出て交流を重ねており、庶民からの人気は極めて高かったのもある。

 無心で歩いた信長は、城下を出て郊外に辿り着いてやっと足を止めた。辺りは田園地帯で、空を見上げれば満天の星が散らばっている。路端ろばたに腰を下ろし、星空をじっと眺める。

 寒空の下にも関わらず、信長の体は熱くて熱くてたまらなかった。竹筒の水で喉を潤し、暫しの間星空を眺める。

 星を眺めていたからといって、妙案が浮かぶ訳でも問題が解決する訳でもない。けれど、信長は頭を空っぽにしたかった。他人の声を気にせず、一人で考えたかった。

(俺は、どうすればいいのだ……)

 周囲から期待されてない事は分かっている。父も政秀も居ない今、信長の後ろ盾となってくれる人は居ない。一番の解決策は弟に家督を譲ることだが、それは一番の愚行ぐこうだと断言出来る。溺愛できあいする母や家臣達の顔色ばかりうかがうだけの信行に、この乱世を渡り抜けるだけの胆力と器量があるとは到底思えない。虎視眈々こしたんたんと豊かな尾張国を狙っている今川義元に喰われるのがオチだ。

 内憂外患ないゆうがいかんの状況を切り抜けられるのは俺くらいしか居ないと自負しているものの、悲しいかな人望は致命的にない。何も手を打たなければ家中は二つに割れるのは目に見えている。今川義元もいつ西上するか分からない。時間は、なかった。

「まぁ、そんな怖い顔をされて。良いお顔が台無しですよ?」

 突然声を掛けられ、ビックリする信長。直後、頬を指でツンとされ、さらに驚く。

 反射的にそちらへ顔を向けると、そこには妻の帰蝶の姿が。

「ど、どうして此処ここにいるのだ?」

 驚きのあまり声がやや裏返ってしまった信長。それもそうだ、帰蝶はついさっき那古野城の寝所で眠っているのをこの目で見ている。居るはずのない人間が隣に居ると、誰だって心臓が飛び出るくらいに驚愕するだろう。

 それに対して、帰蝶は「ふふふっ」と笑みを漏らしてから言った。

「殿がこっそり出て行くので、つい後をつけてしまいました。あ、ご心配なさらず。犬殿が護衛についてきてくれました」

 帰蝶が言う“犬殿”とは、本当の犬ではない。信長が傾奇かぶいている時によく一緒に連れて歩いていた者の中に“犬千代”という若者が居る。本名は前田利家と言い、現在は信長付の小姓をしている。因みに、不寝番をしていた二人の内の一人でもある。

「犬千代め……」

「怒らないであげてください。わらわが『どうしても』とお願いしましたので」

 そう言われると、信長も自然と怒りが収まる。どういう訳か、気難しい信長は帰蝶と気がとても合った。

 隣に座った帰蝶は、屈託のない笑みを浮かべながら言った。

「……綺麗な空ですね」

「……あぁ」

今宵こよい、殿の後をついてきたからこんな素敵な空を眺めることが出来ました。ありがとうございます」

 感謝の言葉を口にされ、むずがゆい気持ちになる信長。

 なんともおかしな光景ではある。真夜中に、夫婦二人で城の外に出て、星空を眺める。一体どうしてこうなったのか。

 もう、あれこれ考えるのも馬鹿らしくなってきた。信長も腹をくくって、思いの丈を打ち明ける。

「俺の味方をしてくれるのは、帰蝶だけになってしまった」

 星空に目をやりながら、ポツリを漏らす信長。帰蝶は何も言わない。信長はさらに続ける。

「誰も俺を当主と認めたくない。だが、俺がこの座を譲れば織田家は確実に滅ぶ。親父も爺も居ない今、俺はどうしたらいいのか」

 ありのままの自分をさらけ出した。さぁ、帰蝶は何と返す。期待半分不安半分の気持ちで、その答えを待つ。

 すると、帰蝶は事も無げにあっさりと告げた。

「殿は一人で何もかも抱え過ぎなのです。少しは他人を頼ってはいかがですか?」

「頼ると言って、誰を頼れ――」

 思わず反発しようとする信長を制するように、帰蝶は言った。

「父を頼りなさいませ」

 父、父……帰蝶の言葉に、思わず頭が真っ白になる信長。

 そして気付いた。俺にはまだ、頼るべき存在が居たのだ、と。

 帰蝶が言う父、帰蝶の実の父・斎藤道三。権謀術数けんぼうじゅつすうの限りを尽くして美濃を一代で制した、“下剋上”の申し子とも言うべき存在。稀代の梟雄きょうゆうは、意外にも義理の息子である信長に好意的だった。

「美濃の斎藤家の後ろ盾があると知れば、家中の者達も敵対する者達もおいそれと手出しはしないことでしょう。父の睨みがある内に、家中を固めてしまいませ」

 その言葉が、ズバッと信長の胸を貫いた。どうして俺はその手を思いつかなかったのか、と反省したいくらいだ。

 まだ二十歳はたちの信長が、政権基盤が脆弱ぜいじゃくだからと義父の斎藤道三に助力を頼んでも、何ら不思議ではない。むしろ、『道三が後ろに居る』ことを意識させれば、家中の者達も信長を排除しようとは思わなくなるだろう。敵対する勢力も信長を攻めれば道三から攻められることを恐れて、二の足を踏む。

 しかし……この案には一つ懸念がある。

「……義父殿は、味方してくれるだろうか?」

 信長が心配そうに漏らす。相手が弱っているとなれば吞み込んできたのが道三のやり方。例え娘婿だとしても、道三が“くみしやすい”と判断すれば、間違いなく蝮の牙はこちらにく。蝮の毒を利用する筈が呑み込まれた、なんて笑い話にもならない。

「ならば、父を騙してしまわれませ。それくらい出来ますよね?」

 あっさりとした口調で訊ねる帰蝶。無理難題を突き付けたかと思いきや……信長の目は爛々らんらんと輝いていた。

「……やってやる。虚勢きょせいを張るのは得意中の得意だ。義父殿を騙してみせてやる」

 力強く宣言する信長に、帰蝶は満足気に頷いた。

 方向性は定まった。あとは、義理の父である道三の信を得るだけ。それくらい出来ないと乱世を生き抜けない。それくらいの気概きがいを信長は持っていた。

「さて、帰るとするか」

「はい。犬殿も寒い思いをして待っておられますし」

 帰蝶に指摘されるまで、犬千代の存在はすっかり頭から抜け落ちていた。城に帰ったら熱燗あつかんで体を温めてやるか。信長は来た時とは打って変わって軽い気持ちで帰りについた。


 この年の四月、信長は道三と濃尾国境近くにある正徳寺しょうとくじで初めて対面する運びとなった。

 予め先に到着していた道三は、近くの家に隠れて信長の様子を観察した。その時の信長は噂通りに傾奇いた服装をしており、相手がこんな様子なら“略装でもいいな”と判断した。

 しかし――対面の座に現れた信長は、きちっとした正装。完全に一本取られた道三は、『我が子達はあの“うつけ”の門前に馬をつなぐ家臣になることだろう』と漏らしたとされる。

 道三の後ろ盾を得た信長は、尾張国内の敵対勢力の掃討に時間を費やすこととなる。後年、天下人としてその名を轟かせることになるキッカケは、あの日の夜の出来事があったからかも知れない――。

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