あなたに赤いアネモネを

祈Sui

あなたに赤いアネモネを

 まだ寒い二月の夜。凍えながら家路を急いでいると、道の先で職務質問している警官を見つけた。

 二人の警官につかまっているのは少女。風貌ふうぼうから察するに人形。それも傀儡式くぐつしきではなく自律式じりつしきだ。サブスクリプションサービスとして提供されている傀儡人形くぐつにんぎょうに少女型は無い。そして自律式じりつしきであるにしても、少女型は特注の超高級品だ。まず見かけるものでは無い。どうやら押し問答になっているらしく、張り上げられた声がここまで響いてくる。


「ですから、主人マスターに頼まれたお使いの途中なのです。どうか通してください」


「それは分かったけれど、一応、登録を確認させてもらっても良いかな?」


 何処かへ向かおうとしているらしい人形に警官が聞いている。人形に対する口調からして善い警官だ。


「出来かねます。主人マスター主人マスター個人情報プライバシー保護の為、許可なく他人に登録を確認させるなと申し付かっております」


「そうか、じゃあ君の主人マスターに連絡してもらえるかな?」


「現在主人マスターは就寝中の為、出来かねます」


「うーん、それならとりあえず一緒に署まで来てもらえるかな?これは君の為でもあるんだよ。人形の一人歩きは良くない。人形を狙った犯罪が急増しているからね。君の主人マスターも君がそんな目に遭ったら、きっと悲しむよ」


「それは、そうですが……」


 人形は困った様子で、視線を動かした。まるで逃げ道を探しているように……。


「すいませーん」


 声を張り上げながら駆け寄った僕を見て、全員が首を傾げた。


「すいません。その人形はうちで修理中だったものでして、どうやら停止直前に受けた主人マスターの命令を実行しようとしたみたいで」


 そう口にしながら財布から名刺と人形技師の資格証を取り出して渡すと警官は成程と言った顔をした。


「今回は大目に見ますけど、気を付けてくださいね。修理中の人形が外に出たなんて知れたら、管理責任を取られて工房の存続にかかわりますよ」


 資格証を此方に返しながら警官は言った。


「はい、すいません。気を付けます。じゃあ行こうか」


 警官に頭を下げた後で、人形の少女の手を取って歩き出す。少女は何か言いたげだったが、とりあえずは大人しく従ってくれるらしい。警官が見えなくなるまで歩き、念のため十字路を曲がってから立ち止まった。


「助かりました。では」


 そう言って立ち去ろうとする人形を引き留める。


「待って、君は迷子だろ、いや野良というべきか?」


 警官を避けて迂回する為とも思えない方向に人形は進もうとしていた。正常な人形が迷子になるなどあり得ない。だから彼女は異常をきたした迷い人形であり、それどころか予想が正しければ、野良猫ならぬ野良人形とでもいうべき存在だった。それを指摘すると、自らの手を握っている僕の目を彼女の透き通ったレンズが見つめた。


「だとしたらどうだと?警察を呼びますか?それとも私の身体パーツが目当てですか?」


「違う。ただ君が困っていると思って……。さっき警官に見せたように、僕は人形技師だ。近くに工房もある。このまま僕から逃げるという手もあるけれど、そうしたら君はまた警官につかまるか、君を狙った強盗に襲われる事になるだろう。それに君は今、万全な状態じゃない筈だ。もうずいぶん調整を受けていないね?」


 僅かに引きる様に動かしていた足をしめして見せると彼女は黙った。


「そして君の主人マスターは既に亡くなっている。違うかな?」


 自律人形が不調をきたす程、長期間調整も受けずに活動していると言う事は考えにくい。自律人形が一人で活動している時は、主人マスターか、それに準じる人間からなんらかの指示を与えられた場合だが、それがこれ程長期になるとは思えないし、棄てられたとするには、それ自体が超高額であり、中古であっても高値で取引される自律人形である以上、まずあり得ない。それに彼女は、どこかが致命的に壊れている様にも見えない。消去法で辿り着くのは、主人マスターは既に亡くなっており、彼女が生前に与えられた指示を実行し続けている可能性だ。通常、主人マスターが亡くなったなら、傀儡人形くぐつにんぎょうであれば契約の変更か回収。自律人形は主人の変更か殉葬じゅんそうがなされるからだ。


「言いたくないのならそれでもいい。けれど、君の調整だけはやらせてもらえないだろうか?」


 黙ったままの彼女にそう告げると、ようやく反応があった。


「何故です?あなたに利があるとは思えませんが?」


「僕は人形技師だ。不調を抱えている人形が目の前にいるならなおしたい。これは今君がしているのと同じぐらい、僕にとっては大切な事なんだ」


「私がしているのと同じぐらい?」


「ああ」


 そう答えると、彼女は少しだけ迷うようなしぐさをした後で「それなら」と言ってくれた。


 彼女を連れて自宅を兼ねた工房に戻り、早速彼女の調整に取り掛かった。初めは警戒していた彼女も、工房と僕が始めた調整の様子を見て、少しだけ僕を信じる気に成ってくれたらしい。改めて目的を問うと、彼女は静かに語り始めた。


「私の主人マスターは息を引き取る前に、此処から逃げて生き延びるように、と命令したのです。だから、私はそれを実行しています。次に主人マスターの命令が実行されるまで、それを実行しなければなりません」


 想像した通りの答えに得心とくしんする。


「ネットを切断し完全な孤立状態スタンドアローンとしたのは良い判断だね。そうでなければ、君はとっくに回収されていた筈だ。けれど、君自身がそう言ったように君の主人マスターは」


 見た限りでは無いと思うが、彼女が状況を正しく理解できない程の損傷を負っている可能性を考えながら口にする。


「はい、死亡しています。ですが、人の遺伝子配列は膨大であっても有限です。ですから私でも区別がつかないような人間が存在する可能性があります」


 その言葉で全てを理解した。一瞬彼女は人のような信仰を持っているか、或いは持たされているのかと思ったが、そうではなかった。ただ科学的に、自らの判断装置を全て欺瞞ぎまんする程のよく似た人間が現れたら、その人間の指示に従うと言う事なのだ。人形の思考は、ある種合理的だが、合理的過ぎて人間からすれば突拍子もなく感じる事がある。


「それで、あなたは何故全てを知っても私を助けてくれるのですか?私の話を聞いた今、私を助ける行為は利どころか、ともすればあなたに不利益をもたらすものと思われますが」


 それは事実だった。主人の居ない自律人形を回収機関に引き渡さずかくまうという事は、窃盗と同じだからだ。


「でも君はそうして欲しいんじゃないのか?君の目的を継続する為には助けが必要な筈だ」


「その通りです。ですが一方でそれは人ならば間違っていると考える筈のものです」


「そうだとして、君もそれに従うべきだと?」


「わかりません。ですがそれが本来の私のありようなのではないでしょうか?」


「じゃあ君は間違っていて、そして僕も間違っているんだ。社会のはみ出し者、一種の例外さ」


 そう口にすると彼女は頷いた。


「確かに、例外は何処にでもあります」


 それで納得してくれたかどうかは分からないが、とにかく彼女の問いかけは終わった。

 さいわい、彼女の損傷は大したものでは無く、すぐに万全な状態に戻せた。問題は、彼女の登録がまだ残っている事だ。彼女によれば彼女の主人マスターに身内は居なかったらしい。それは主人マスターになる権利を有している人間はいないという朗報でありながら、その権利を譲渡してもらう事ができないと言う悲報でもあった。正式に登録を削除しようとすれば、彼女は回収され、初期化の後、再使用リユース再利用リサイクルされてしまう。

 だから事は慎重に運ばなければならなかった。信頼のおける人間と相応の報酬。恐らく今まで貯め込んできた財のどれだけかを放出せざる負えないような……。それでも迷いはなかった。


 半年後、その成果は出た。端末から登録情報を再確認して、届いた部品を持って、彼女の元へ向かう。

 工房の奥の作業室で、彼女は日課の掃除をしてくれているところだった。彼女を呼んで端末を見せる。表示されているのは未登録の文字。


「君の登録を削除して、主人マスターと共に殉葬じゅんそうされたように記録を改ざんしてもらった。だが、まだネットには繋げないでくれ、今それをすると所属不明の人形がネットにアクセスした事に成ってしまう」


 そう伝えると彼女は「解りました」と答えた。それに頷いてから、持ってきた部品を彼女に見せる。


「それは?」


「人形修理用ロボットの回路部品だ。これを君に組み込もうと思う。つまり君を人形修理用の自律人形にするわけだ」


「何故ですか?」


「君を家庭用自律人形ではなく、産業用自律人形にする為だ。産業用自律人形ならば、家庭用よりも簡単な審査で登録する事が出来るし、家庭用と違い主人マスターの意志によって殉葬じゅんそうされる事も、遺族の意向によってその身の振り方を決められる事もない。勿論、産業用として登録しても、それは個人の管理下に置かれないだけで、企業の管理下に置かれる事を意味しはするが、現在の状態のままでいるよりも、ずっといい筈だと僕は思う。機能だけではなく経験が大きな意味を持つ修理用自律人形なら、例え工房を移る事になったとしても初期化が行われる事はない。何かで致命的に壊れてしまわない限り、君は君のまま活動を継続できる。どうだろうか?」


「一つだけ教えてください。何故あなたは私にそこまでの事をしてくれるのですか?私の登録を削除して記録を改ざんするのには、それなりの伝手つてと費用、そしてなにより貴方自身がかなりのリスクを負ったはずです」


 まるでその事を聞かなければ、回答する事が出来ないとでもいうように彼女はその透き通ったレンズで僕の目をじっと見た。僕は頭を掻いて、少しだけ躊躇ためらった後で口を開いた。


「幼い頃、僕は自律人形に命を救われたんだ」


 そう言って目を伏せる。


「僕の両親は仕事で忙しくあまり家にいなかった。お金だけはあったから、両親は自律人形を買ってそれを僕の保護者代わりにした。友達はその物珍しさに羨ましがっていたけれど、僕はそれが嫌でね。両親が帰ってくる家の子の方がずっと羨ましかった。だからその自律人形に辛く当たったんだ。けれど彼女は怒る事も無かった。ただその電子表示される顔に、困ったような笑みを浮かべるだけ。彼女は自律人形でも、君のような特注品ではなく、基本的な家事代行型だったから、頭部は電子表示でキャラクターのような表情が浮かぶだけのものだったんだ……」


 彼女は黙って僕の話を聞いていた。だから僕は閉じた口をもう一度開いた。


「僕の十二才の誕生日にも両親は帰ってこなかった。それが悲しくて塞ぎ込んだ僕に、彼女がケーキを買いに行きましょうと提案して、半ば強引に……いや、本当は自暴自棄になっていたんだ。だから僕は外に出てわざと危険に身を晒すような歩き方をして、そしたら本当に車が突っ込んできて、もうそれでいいと思ったのに、彼女は僕を庇って、そして壊れてしまった」


 そこまで口にして涙を抑えられなくなった。あの時の自分の愚かさを呪い。殺してやりたいとさえ思う。機能停止する直前「大丈夫ですか?」と彼女は言って、僕が無事なのを知ると「良かった」と笑った。ひび割れた表情画面に、確かに笑顔が表示されたのを見たのだ。あんなに冷たくしたのに彼女が最後に口にしたのは「もうこんな危険な真似はやめてくださいね」という優しいたしなめだった。


「それは彼女が自律人形だったからです。私でも同じ事をします」


 彼女が言うように人形は、人間ではまず不可能な無償の愛と自己犠牲を、苦も無く提供してしまう。涙と鼻水をぬぐってそれに頷く。


「そうだ。人に仕える自律人形だから、彼女は冷たく当たる僕にも愛想よく接し、命を助けた。子供にだってわかる。当たり前の事だ。けれど、だとしたら僕は何だ。面倒を見てもらって、命まで救ってもらって、僕は感謝の言葉一つ彼女に伝えなかった」


 人間に奉仕する為に作られた人形だから、奉仕されて当然で、そこに何も感じる必要はないのだとしたら、そんなものは本当に正しく善い人間だろうか?焼き付いた彼女の姿がいつもそう問いかける。


「僕はずっとあの時の事と、彼女に感謝を伝えなかった事を後悔しているんだ。だから君を助けたい。これはきっと償えない罪の意識を軽くする為の勝手な行為なんだ。その為に僕は君を利用する。だから君は僕を利用してくれ」


「バックアップは取っていなかったのですか?」


 僕の言葉に頷く事なく彼女は聞いた。


「バックアップは行っていなかった。それに例えそれが出来ていても、目覚めた彼女は、事故の事を知らない彼女だ。勿論それを伝えたら彼女は理解しただろう。けれど、それを同じ彼女だと僕が受け入れられたかどうかわからない。勿論人形にとって継続性など無意味だと分かっている。人形は記憶というものにはらない。でも君の主人マスター殉葬じゅんそうを望まなかったのだって、きっとどこかの記録装置ではなく、君の内部ストレージの中に自らの記録があって欲しいと望んだからだ。再使用リユースでも、再利用リサイクルでもなく、君が経験した記録を全て持って活動し続ける事を願ったからだ。人を形成するのが記憶と命であるように、たぶん君の主人マスターは君を人形ではなく人として見ていた。だから君が持っているのは記録ではなく記憶で、君の活動は動作ではなく命なんだ」


「記憶で、命……」


 彼女はそう呟いて僅かな間、沈黙した。


「それで貴方は人形技師になり、私を助けてくれるのですね?」


「ああ」


 肯定すると彼女は納得したというように頷いた。


「解りました。では、貴方の提案を承諾します。よろしくお願いします」


 彼女の了承を得て、僕は彼女に人形修理用ロボットの回路を組み込んだ。胸部を開き、それを組み込んでいる最中に僕の手元を見ていた彼女が「ありがとうございます」と呟いた。それは僕の心を微かに慰めてくれた。胸に込み上げるものを殺しながら「いいんだ」と返した。その日から彼女は僕の助手に成った。


 人形の修理。特に自律人形の場合、知識以上に経験がものをいう理由は、計測器に表示される数値だけではなく、人形が感じている感覚というものも考慮しなければならない為だ。その人形が暮らしている環境や、日常的におこなっている作業によって、最適な調整は異なる。だから一つとして同じ処置になる事は無い。彼女と一緒に人形の調整や修理を行うようになってから、効率も成果も飛躍的に増した。他の工房で聞いた修理用自律人形を使う事で、修理や調整がやり易くなるという話の意味を実感した。当然といえば当然だが、数値には表れない人形の感覚を同じ人形である彼女は、僕よりもずっと巧みに把握してみせた。

 僕の処置を彼女が補佐し、同時に彼女も修理の腕を上げていく。一年も経たないうちに彼女は一人前の人形技師と呼べる程になって、もう別の工房や大きな修理工場でもやっていけるぐらいの修理用自律人形に成っていた。だから一応その事について確認してみた時、彼女は此処でいいと言った。自分が居なくなれば、せっかく上がったこの工房の評判も落ちてしまうからと、それは事実だった。彼女が来てから工房はとても調子よく回っていたし、それに彼女が居なくなってしまっても、別の修理用自律人形を導入する気はなかった。僕の所為で彼女が死んでしまってから、自分用の自律人形を手に入れる事は無かったし、そうしようとも思わなかったからだ。その資格がないと言った方が良いかもしれない。行き場所のなかった彼女だけが例外で、だから彼女が此処でいいと言ってくれる間は、それを自分に許そうと、そんな風に自分に言い聞かせた。


 そして日々はあっという間に過ぎた。沢山の自律人形をなおし、人形とその主人マスターから感謝され、彼女は以前より人間らしくなった。自律人形はその活動継続時間と体験した経験の分だけ思考を発達させる。それは当たり前の事だったが、産業用ではなく、元々家庭用の自律人形が此処まで長期に活動を継続し続ける事は稀であり、その所為でよりそう感じるのだろうと思っていた。そして気付かないふりをしようとしていたが、変化は自分の中にもあった。彼女の存在が当たり前のものに成っていて、彼女が居なくなると言う事が想像し難くなってしまったのだ。できるなら……そんな事を考えては振り払った。


 そんな中、彼女と出会ってから二度目の正月が来て、その初詣の列に並んでいる時、唐突に彼女が口を開いた。


「私は人よりも迅速に個人を区別出来ます。例えば、この中に指名手配犯が居たら、一瞬でそれを見つけられます。けれどそこに深い意味はありません。ですが主人マスターは違いました。私はそれが主人マスターだからだと思っていましたが、私は今、貴方にも近いものを感じています。あなたを特定するには一瞬で済む。けれど何故か私は貴方を視覚センサーで追っています。センサーで捉えている時間を出来得る限り長くしようとしています。何故でしょう?」


 それに答える事は出来た。けれど答えなかった。答えていいのかどうか分からなかった。

 迷いながらそれでも帰り道の生花店によって花を買った。赤いアネモネ。それを彼女に手渡すと、彼女は困惑した顔をした。


「これは?」


「君の好きな花だと思って」


 僕がそう言うと彼女は首を横に振った。


「いえ、私には別に」


「いや、君はその花をよく目で追っている。さっき君が言った通りならそれが特別だからだ」


「特別……」


 そう呟いた彼女は何かに思い至ったようだった。


「確かに、これは主人マスターが好きな花でした。私が初めて目を開けた日に誕生日祝いだと言って、私にくれた花でもあります」


「君の主人マスターは花が好きだったのかな?」


「どうでしょう?自宅で育てたりはしていませんでした。けれど私の誕生日には決まってこの花をくれました」


 その言葉を聞いて勘づいた。彼女の主人マスターは恐らく花が好きだったのではない。端末で検索をかけるとすぐにそれは表示された。


「君の主人マスターは、たぶん花が好きだったんじゃない。この花を君に送りたかったんだ。ネットでこの花の花言葉を検索してごらん」


「花言葉?」


 首を傾げた彼女がそのまま動きを止めた。


「……これ、は、それなら、主人マスターは……。私は、私は……」


 エラーを起こしたように、彼女は動揺した。当然だ。人形は貰ったものが何かを理解はしても、そこにある意味を深読みしたりはしない。そんな事をするのは人間だけだからだ。だから伝えない方が良かったのかもしれない。主人マスターが好きな花だったという彼女の認識を覆す必要は無かったかもしれない。そう思いながらそれでも口にしたのは、伝えたくても伝えられなかった言葉が、自分の中にあったからだ。それで彼女が傷つくのだとしても、見た事も無い彼女の主人マスターが伝えたかった気持ちを彼女に伝えたかった。


「今度、同じ花を持って君の主人マスターが眠る場所に行こう」


 僕がそう言うと、彼女は何度も頷いた。そのレンズはいつものように透き通っていたが、確かに泣いているのが僕には分かった。涙が流れていないのは、それを可能にする機能がないからだ。


「私は、エラーを起こしているのかもしれません」


 彼女は戸惑っていた。


「何かが無いのです。何かが、きっと回路か、或いは動力部の不具合だと思われます。本来なら警告が表示されている筈なのに、それすら……。工房に戻ったら私を……」


「いや、その必要はない。君は何かを失くしたんじゃない。手に入れたんだ。そのエラーは、人ならば皆抱えているもので、きっとこれからの君には必要なものだよ」


 動揺している彼女に優しく伝える。僕はそこに感情の萌芽ほうがを見た。それが人のものと違うかもしれないとしても、確かにそう感じた。


「これから君はきっと沢山の人と人形を繋ぐ人形になる。人の思いを人形に伝える人形になる」


 必ずそうなる。そして同時に彼女自身が沢山の人と気持ちをかわす事になる。


「今は奇妙に思えても、そのうち慣れる。だからこれからは君の主人の事をもっと教えて欲しい。君が気付けなかった事を教えられるかもしれないから」


「はい。ですが本当にそれで良いのでしょうか?人は過去に関係を持った人の話を聞くのは不快だと、ネットに書いてあります」


 彼女は一瞬で愛というものに対する解像度を上げたらしい。


「大丈夫。他の人は知らないけれど、僕はそう思わない。だから教えて欲しい。そうだ、じゃあ僕は、僕を助けてくれた彼女の事を話す。君は不快かな?」


「いいえ」


「良かった。じゃあそうしよう。それから思った事や、気になった事も話そう。僕が君を知る為に、君に僕を知ってもらう為に」


そう言うと、彼女は「はい」と返事をしてくれた。貴方の事を知りたい。生殖本能とは少しだけ異なった経路からくる恋とは、恐らくそんな衝動だ。


 それから僕達は、もう伝えられない人の代わりに言葉をかわし、それから他でもない互いの為に言葉をかわした。彼女と工房を回しつつ、他の工房にも彼女を連れて出向いた。それは万が一に備えて、信用のおける工房に彼女の事を頼んでおきたかったからだ。そうすれば彼女は人形の修理が必要とされる限り、存在する事が出来るだろう。

 彼女は、人を愛する事の出来る人形だ。人形全てが持っている無機質な無償の愛だけではなく、特定の個人を好きになれる人形だ。だからきっと、何処へ行ってもその人間に寄り添う事が出来る。そして人形の修理工房が必要なくなる程の時代が訪れたら、それはきっと、もう社会というシステムが機能不全に陥る程、人類が衰退したという事だ。人類が絶滅してしまったら、彼女のような人形達だけが、この惑星の知的存在として残る事になる。そうなったとしても彼女はきっと、与えられた願いを果たし続けようとするのだろう。恐らく、彼女を完全に欺瞞ぎまんできる存在が現れるまで……。

 そんな事を考えていたら、ふと初詣に行った神社の大きなご神木の事を思い出した。それは僕が子供の時からあったし、横に立っている立札には確か千年近くの樹齢があると書かれていた。あの木はあの小高い丘の上から、あの辺りをずっと見守ってきたのだろう。何世代もの人のいとなみを、そう考えると彼女もそうなのではないかと気付いたのだ。彼女は自分の愛が人間のものと違うものになる事を怖れているようだったが、そもそもその考え方自体が間違っていたのではないか?と、なぜなら彼女は人間ではない。ならばその愛も人間のものとは異なっていい、いや異ならざる負えないのだ。彼女が完全な人の形をしているから、そういうものでろうとしているから、僕も彼女もそこに考えが至らなかった。植物の恋や愛が人と違うように、人形には人形のそれがある。記憶力、思考力に優れ、なにより人よりも遥かに長く活動を継続する彼女のような自律人形は、何人もの人に恋をして、愛する事が出来る。そこに優劣は無いのだ。皆同じ重要な内部ストレージに記録され、彼女の中に残り続ける。それは愛犬家が、溺愛していた犬と死に別れた後で、新しい犬を迎えるのに似ているかもしれない。それは決して代わりではなく、裏切りでもない。人形の愛もまたそういうものではないか?

 辿り着いた思考を後で伝えようと思いながら、集合墓地の祭壇に、彼女が一本の赤いアネモネを供えるのを見ていた。


「私は間違っていました」


 僕が口を開く前に振り返った彼女が言った。


「いくら遺伝子配列が完全に同じ人間、私が欺瞞ぎまんされる程のそんな人が現れても、それは主人マスターではありません。私は彼に好意を抱き、関係を築くかもしれませんが、それは主人マスターと同じ姿をして、けれど主人マスターとは違う特別な人です。主人マスターの代わりは居ません。貴方の代わりが居ないように……」


 その言葉に彼女の考えが変わった事を知った。僕が伝えるまでもなく、彼女も同じ所に辿り着いたのだと。けれど僕は、それよりも自分が彼女の確固たる特別に含まれているという事が嬉しかった。


「僕も同じだ。僕を救ってくれた彼女の代わりは居ない。そして君の代わりも……。だからどうか僕の命が終わるまでは側にいてくれないか?こんな事言う資格は僕には無いのかもしれないけど……」


 微かな不安と共にそう告げると彼女は優しく微笑んで「そのようにします」と答えてくれた。

 二人で改めて墓に向かって頭を下げた後、僕が伸ばした手の意味を理解して彼女が握った。


「今度、貴方を助けてくれた彼女の所にもいきましょうね」


 そう言ってくれた彼女に頷く、ずっと逃げてきたが、今なら向き合えるだろう。ひんやりとした感触をしっかりと握って、帰り道に向かって歩き出す。空は綺麗な茜色に染まっていて、鳥たちがねぐらに向かって飛んでいくのが見える。

 僕が居なくなっても世界は続いていく、そしてそこに彼女はいるだろう。僕の知らない人に愛されて、愛して、それを繰り返して、時折彼女は赤いアネモネを買って、自らが愛している人々の墓に供えてくれるだろう。きっといつか僕の眠る場所にも……。

 そう思うと、とても幸せな気持ちになった。低くなった陽光が、手を繋いだ二人の影をアスファルトの上に長く伸ばしていた。

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あなたに赤いアネモネを 祈Sui @Ki-sui

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