たまに馬鹿
@isako
たまに馬鹿
木場嗣治の手に包帯が巻かれていて、尾野菜穂はぎょっとする。ボクサーがするように、拳のところを覆うように白い包帯がある。膨らみからして、ギプスみたいな固いものが入っているのもわかる。
「これ? ああ、ちょっと骨折したんだよ」
「骨折って、だから、なんで?」
「昨日の朝電車でさ、スリがいたんだよ。60過ぎた汚ったないジジイ。そいつをぼこぼこに殴ってやったんだけど、慣れなくて、勢い余って地面を殴っちゃったんだ」
菜穂は嗣治のその口ぶりにまた驚く。彼女の知る限り、彼は普段から人を殴ったりするようなことができる性格ではない。彼は高校から大学までずっとチェロ弾いてただけで、格闘技経験もないはずだし、スポーツだってろくにできないはずだった。それに地面を殴ったって、それは、倒れているひとを殴らないとそういうことにはならないんじゃないの? 菜穂は嫌な臭いを感じた。
「え? 嗣治がスリを捕まえたってこと?」
「いや、おれっていうか、みんなで。スリに現場抑えたのは別の人で、でもそいつが逃げたからみんなで取り押さえて、それで逃げないように、みんなでぼこぼこにしたんだよ」
「そのひとどうなったの?」
「捕まったよ? 常習犯だったみたい。菜穂も気を付けなよ。そいつ鞄のチャックあけて財布に抜き取るくらい器用なやつでさ。意外と気づかないもんだよ。あれ」
「そうじゃなくて、みんなでぼこぼこって、それは、大怪我とかしたんじゃないの」
「え、そこ? まぁ、歯は折れてたね。しかも歩けなくなってたね、担架で運ばれてたし」
「ねぇ。あなた何してるの? 歯が折れてたって、それあなたがやったんでしょう?いくらスリだからって、そんな、もう捕まえてるなら殴らなくたっていいじゃない。何人でやったのよ。ほとんど抵抗もできなかったんじゃないの」
「いやいやいや、そこは大事でしょ。誰にもばれなかったし、誰にも殴られなかったから、そいつは60になっても人の財布盗んでその金で生きるような人生しか歩けなかったんだからさ。今度こそみんなで叩きのめして、もう二度のスリができないようにめちゃくちゃにしてやらなきゃダメじゃん。菜穂、間違ってるよ」
「ううん。絶対おかしい。怖い。なんで自分の財布が盗られたわけじゃないのにそんな風にできるの? あなたは怒ってすらないよね? 暴力を向ける先が都合よく現れたから、そこに衝動をぶつけただけでしょ。それじゃ、他の犯罪となにも変わらないよ。殴っても許される相手だから殴ったってことだもん。ばれずに済んで誰にも責められないから泥棒するのと同じだよ」
「菜穂ってたまに馬鹿だよね」
「は?」
「いいよ。おれは菜穂のそういう馬鹿なところが好きでもあるんだからさ。あのね、正しいことと善いことっていうのは違うんだよ。菜穂の今の言葉は正しいよ?倫理的にはそうかもしれない。心の中では、そういう気持ちを持つことは大事だね。でも実際にひとの物を盗む人間をさ、平気に放っておくのは、それはいいことじゃないんだよ。おれたちが必死に作ってる社会で、そういうルール違反をするやつはさ、徹底的に痛い目に遭わせなきゃなんだ。そうなって初めて、そいつは気づくんだよ。ああ、こんなことするべきじゃなかったなって。周りもそうだよ。ああ、物を盗ったりするとこんな目にあうんだなって」
もう菜穂には彼の言葉が聞こえていない。彼女には、目の前の人間になんの興味も持てない。あんなに好きだった彼が、薄汚い猿にしか見えない。彼女は彼に何も言わずにその場を立ち去る。休みの日なのに六時に起きて、シャワーを浴びて、毛を剃って、髪にアイロンをかけて、メイクをしたのに。今日はすごく楽しい日になるはずだったのに。まだ十分も経ってないのに、もうめちゃくちゃになった。嗣治には二度と会わないだろう。そう心に決める。
そして思う。私は絶対に、どんな目に遭っても人を殴ったりリンチすることはないだろう。そしてどんな理由であろうと、過剰な暴力を受けるひとがいればその人を助けるだろう。私は気高く生きよう。暴力や合理性に囚われない生き方するのだ。
***
数日後、痴漢が現行犯で市民に取り押さえられる動画がネット上で話題になる。複数の男たちが、痴漢の疑いをかけられた青年に覆いかぶさり、彼の身体を踏んだり、頭を蹴ったりしている。
ただ注目されたのは、市民の暴力でもなく、痴漢の醜態でもない。被害者とは別の、ただそこに居合わせただけの女が、しきりに男たちに向かって叫ぶのである。
「やめてください! 殴らないで! お願い、やめてください!やめてください!」動画の撮影者は、より面白いのはその女だということに気づくと、カメラをその女だけに集中させる。女は涙を流している。男たちが彼女の要請に応じることはない。
ウケる。と誰かが笑った音声が、動画には残っている。
たまに馬鹿 @isako
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