裏路地古書店の事件簿補記

此木晶(しょう)

乱丁落丁

リベル・イルストラッドはカウンターの奥で腰かけて、本を読んでいた。店内に客の姿はなく主人である彼女一人だけが、好きなようにふるまっている。

手にしているタイトルは『無常の騎士』。数年前に見つかった死を告げて大陸を巡ったという男の手記をもとに書かれた脚本だ。

リベルは文字を追い、薄い手袋をつけた手でページを捲っていく。静かな時間が流れる。ただ紙の擦れる事だけが響く。

光石の熱のない光に照らされる店内は、四方の壁を書棚に囲まれ、しかし高く取られた天井のお陰で息苦しさは感じない。そんな中ページを捲る以外の音が混じった。

ポタリ……。

リベルはページを捲る手を止める。

ポタリ……。

無造作にページを進めた。開かれたページに殆ど文字は残っていなかった。

再びページを進める。今度は移動をし始めていた文字列が慌てて別のページで体裁を整えた。

「おやおや、これじゃ落丁に乱丁だ。こういう悪戯は控えてくれないかな」

リベルはさして驚いた様子もなく、ただ肩口で切り揃えられた黒い髪が揺れる程度に首を振り、まるで諭すように口にした。

その間にも、チャプターパラグラフに、パラグラフセンテンスに、センテンスフレーズに、フレーズワードに、そしてワードレターとなって滴り落ちる。

小口から滲み表紙からカウンターへと落ちる。真っ黒なシミが広がっていく。蠢く黒だ。顔を近づけるか、レンズを通せばない交ぜになった文字の塊だと分かるだろう。

「だから、悪戯は困ると言っただろうっ」

すっかり白紙のノートになってしまった『無常の騎士』を手にリベルはやや語気を荒げた。

「さあ、戻ってくれないか」

指し示したその指に文字の黒が絡みつく。

「おっと」

それ以上取りつかれる前に手袋ごと文字を剝ぎ取った。宙で手袋は文字の塊へと解かれていく。恐らく飛び散った文字を集めれば手袋グローヴとでも読めるだろう。

「戻れ、と言ったんだよ?」

文字は従わなかった。机上から床へと零れ落ちていこうとする。

もはや無言でリベルは髪をかき上げる。黒髪がサラサラと流れ、ずっと隠れていた左眼が露になった。金色をしていた。何故か、なにもかもを見通されてしまうのではないかと不安にさせる輝きをしている。その瞳が蟠る文字を見た。

文字が震えた。あとは簡単だ。怯えるように、本へと文字は戻る。

後には『無常の騎士』と書かれた本が残った。

リベルは満足そうに本を手に取り、読みかけの個所を探してページを捲る。しばらくそうしていた後、本を放り出す。

「駄目だ。ぐちゃぐちゃだ」

文字はよほど怯えていたのか、慌てていたのか。元の場所には戻れず、ただ本へと帰っただけだったらしい。放り出された際に開いたページにはただ文字が並んでいるだけの何の意味も持たない何かが並んでいた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

裏路地古書店の事件簿補記 此木晶(しょう) @syou2022

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ