牡丹餅の置いていない餅屋

凪司工房

 その年の春は暖冬だった所為せいか、鴨川沿いのソメイヨシノも月の半ばくらいには開いた花がぽつぽつと見られた。春といえば誰もがまず桜を思い浮かべるだろう。次は梅や薔薇ばら、あとはチューリップなどだろうか。

 京都はよく碁盤の目のように道路が走っていると云われるが、一旦脇の路地に入れば確かに同じような住居が並ぶ通りが多い。その上、その家と家の間にも更に狭くて細い裏路地があり、その先には奇妙な店が暖簾のれんを出していたりするものだ。

 

 その店もそんな裏路地を進んだ突き当りにあった。暖簾には『牡丹餅ぼたもち承〼』とある。時期が違えばこれが御萩になったりするのだろうか。

 その暖簾を潜ったのは髪の長い、ピーナツ色をしたロングコートを羽織った女性だ。

 店は狭くて薄暗く、小さなカウンターと何も入っていないガラスケース、それに小さな丸机と椅子が置かれているだけだ。その机の上には葉書程度のサイズのメモ用紙と一本のペンが転がっていた。

 彼女は「こんにちは」ともそもそとした声で挨拶をしたが、真っ黒な背表紙の本を開いてしかつらをしている不機嫌そうな店主は目線を僅かに動かしただけで会釈すら返さない。女性は戸惑いがちに空っぽのケースを覗き、そこに何もないことを確認すると、用意されていた椅子に腰を下ろす。コートを脱ぐこともせずにそこに転がる一本のペンを手にすると、置かれていたメモ用紙に何やら漢字を書いた。細く、留め跳ねの綺麗な字だ。四つ並んだ文字はおそらく人の名前を表しているのだろうが、彼女はそれを二つに折り畳んでから席を立つと、カウンターの店主の前に差し出し、隣に一万円札を置いた。


「本当に、いいんだね?」

「はい」


 店主の問いかけに迷いなく頷くと「宜しくお願いします」と頭を下げ、女性は店を出ていった。

 

 建付けの少し悪い曇ガラスの引き戸が勢い良く閉まると、店主は小さなため息と共に立ち上がり、奥へと向かう。そこには狭くて随分ずいぶんと年代物のキッチンがあった。ガスコンロにはこびりついたあんが黒ずんでしまっている小型の鍋がある。ふたを開けると小豆が水に浸かっていた。

 店主はそこに女性が書いたあの紙を沈める。慣れた様子でコンロのコックを捻ると、柄の長いライターで火を灯した。火加減を中火から弱火にし、背のないパイプ椅子を引っ張ってきてそれに座る。

 

 牡丹餅を漢字で書くと牡丹の餅と書くが、これは春の花の牡丹に小豆を見立てたものだからだそうだ。同じようなものに「おはぎ」があるが、これは秋の花として萩の花と小豆が似ていることからそう呼んだらしい。実は他にも夏と冬の牡丹餅がある。夏のものは「夜船」、それから冬のものには「北窓」という呼び名がある。それぞれ臼で搗かずに米を潰すことから音がしないのでいつ到着したのか分からないから夜に着く船になぞらえたり、北の窓から月が見えない、つまりくことをしないことから月知らずとなり、それから転じたものだ。

 そんな風流な名前の牡丹餅は、実は魔除けの為に食べられていたものだそうだ。昔から赤という色には魔除けの力があるとされてきた。めでたい時に赤飯を食べるというのも、それがあるからだ。

 

 静かに泡立ってきた鍋の水が、小豆の色に染まっていく。だがそのほとんどはアクだ。一度は捨ててしまう。人によっては二度、三度とこのアク抜きの煮溢しの工程を行うらしい。しかしこの店の店主は十分、十五分と経とうと、何もする節はない。ただ隣に置いた薬缶から何度か水を注ぎ足しているだけだ。

 煮ている間にもどんどん色が濃く、赤くなっていき、小豆の頭が完全に見えなくなってしまった。

 

 牡丹餅は地方によって奇妙な呼び方をしているところもある。「半殺し」という名を耳にしたことはあるだろうか。これはご飯をどの程度潰すのかというその状態について言っているもので、粒が残らないように完全に殺してしまったものについては「皆殺し」と呼ぶそうだ。

 

 赤い色はいつだって血を思わせる。

 

 鍋には赤が溢れていた。ぶくぶくと泡を吹き、それが小さな豆をかき回す。と、その一つが弾けた。中からどろり、と真っ赤な液体が飛び出し、鍋の外に小さな赤い点を作る。だが店主は気にしない。ぐつぐつと煮えるそれをただ見つめているだけだ。もう既に女が書いた紙などどこにも見えない。それどころか、真っ赤な液体が煮えたぎっていて、まるで地獄の窯のようにも見える。

 

 一体どれくらいの時間、鍋はそれを煮ていたのだろうか。

 店主がコンロの火を消した時には小さな鍋の中いっぱいにどろりとした、液体とは呼べない赤い何かが、そこを満たしていた。まだ湯気の立ち上るそれを脇目で見ながら、店主は大きな電子ジャーの蓋を開け、ボウルにご飯を取る。真っ白な湯気を上らせるそれを小さな木の棒の先で小刻みに潰し、中身を作るようだ。

 一見すると何の変哲もないように見える米は、徐々にその粒を失っていき、やがて完全に一つの種となった。いわゆる“皆殺し”というやつだろう。それを器用に掴み、ひと握り程度のサイズに丸めると、まだ冷めやらぬ真っ赤な鍋の中身を杓文字しゃもじすくい、その上に載せた。どろり、と垂れる。だが構わずにまた載せる。餅の白い肌はすっかり赤く染まり、綺麗な牡丹の花をそこに咲かせた。

 店主は一つ、また一つとその牡丹を作っては漆塗りの盆に並べていく。全部で十二はあるだろうか。

 すっかり空になった鍋の中を覗くと、そこに小豆ではない、何か小さなものが転がっていた。一センチ程度のやや細長いものだ。つるりとしていて、一部に何かが貼り付いている。まるで爪のようだ。

 店主はそれを見ると「残っちまったか」小さく呟き、箸で摘んで自分の口へと放り込んでしまった。噛み締めた唇を歪め、低く笑う。

 

 戻ってきた女性は出来上がった牡丹餅を嬉しそうに受け取ると、まるで大切な人の赤子を抱いているかのように愛おしそうに笑み、それからこう言った――あの人の味は、どんな味でしょうか。(了)

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