イマジナリーフレンド

橘つばさ

第1話 はじまりは、雨、ときどき彼女

 ざあざあ、ざあざあと、閉めきったカーテンの向こうから、重たい雨音が響いてくる。

「わたし、気づいたことがあるの。耐えてるだけじゃ、現実は変わらないんじゃないかなって」

 その雨音を背負って、親友は言った。冷たささえ感じさせる、真剣なまなざしで。

「終わらないなら、終わらせるしかないよ……自分の手でね。だからね──いっそ、……を殺しちゃおうよ」

「そんな、こと……」

 信じられない思いで、親友を見つめ返す。その一瞬……本当に一瞬だけだったが、恐ろしい言葉を口にした直後だというのに、親友は、うっすらと笑っているように見えた。


   *


 もしもあのとき、違うほうを選んでいたら。

 もしもあの日、あんなことを言わなければ。

 日常には、そんな些細な「たら」「れば」がごまんとあって、その「たら」「れば」に気づいたとき、多くの人が「あのとき違う選択をしていたら、どうなっていたんだろう」と夢想する。しばしば、後悔の気持ちをつれて。

 ──あの日、あのとき、もしも雨が降らなければ。

 中越(なかごし)ミラにとっての後悔は、その一点にまでさかのぼる。


 あの日、一日の授業が終わる直前、重たそうな灰色の雲をたっぷり抱えた空が教室の窓から見えた瞬間に、イヤな予感がした。やがて、ミラの予感を肯定するかのように雨が降り始め、帰り支度をすませて昇降口を出るころには、本降りに変わっていた。

 運が悪かったのは、うっかり折りたたみ傘を忘れてしまったことだ。天気予報でも「夕方からにわか雨が降るかも」と言っていたのに。

 予報どおりのにわか雨ならすぐにやむかな、と思って昇降口でぼんやり待ってみたが、空をおおう雨雲は相変わらず重たそうで、落ちてくる雨の勢いも弱まらない。

「ぜんぜん、にわかじゃないし」

 こうなったら、雨の中を走って帰ろう。冬はまだ少し先だし、帰ってすぐお風呂に入れば、風邪をひくことはないだろう。そう結論づけ、ミラが、通学カバンを胸に抱えて昇降口の軒先から飛び出そうとしたときだった。

「ちょっと待って!」

 背後から突然の制止が飛んできたせいで、スタートダッシュを決め損ねた。誰だと思いながら振り返ったところに立っていたのは、一人の男子生徒だ。見覚えのない顔なので、クラスメイトではない。ネクタイの色から同じ二年生だとはわかったが、去年も同じクラスではなかったはずだ。

 そんな、顔も名前も知らない男子生徒は、ミラに、紺色のシンプルな折りたたみ傘を差し出して言った。

「傘、持ってないんでしょ? よかったら、これ使って。ぬれて帰ったら、風邪ひくかもしれないから」

「え? や、そんなの悪いよ。ちょっとぬれるくらい平気だし……わたしが傘借りたら、そっちがぬれることになるでしょ?」

 両手を胸の前でブンブンと振るミラに、しかし男子生徒は、変わらない笑顔のまま続けた。

「ちょっとぬれるくらい平気だけど……それなら、途中まで送るっていうので、どう?」

 それってつまり相合傘じゃん、と思ったらますます気が引けて、ミラはどうにか断ろうと、あれこれ言葉を選んだ。しかし、かたくなな笑顔の男子に「途中まで送られるか、傘を押しつけられるかのどっちかだよ」と言われて、根負けした。

 紺色の傘は折りたたみ式なのに、広げるとかなり余裕のあるつくりになっていて、二人で入ってもさほど窮屈に感じなかった。そして、ごくごく自然に車道側を歩いてくれていた男子生徒は、ごくごく自然に「俺、木崎颯斗(きざき はやと)」と名乗り、ミラに話しかけてきた。

「俺、一年のときに中越さんのこと見かけたよ。五組じゃなかった? 俺、四組だったんだけど」

「あ、うん。五組だったけど……でも、木崎くんのことは……」

「あ、いーよいーよ。人数多いと、そんなもんだよね。今年は何組? とか、聞いてもいい?」

「今年は、二組」

「あー、じゃあ遠いなー。俺、六組。六組って購買も遠いからさ、四限が終わったあと、いっつもダッシュなんだよね。でも結局、購買に近い教室のヤツらに先越されちゃってさ。不公平だよねー」

 木崎颯斗はそう言って、左の頰だけにえくぼのできる、人なつっこい笑顔を見せた。当たり障りのない話題を選びながら、身長差のあるミラに歩調を合わせることも忘れていない。そうとう気をつかってくれているのだろう。でなければ、たぶん、こんなに雑談は続かない。

 授業のことや、そろそろ頭の中にちらつき始める大学受験のこと。最近ハマっているという動画の話なんかも聞いているうちに、ミラの自宅近くにあるコンビニが見えてきた。

「あ、もうここで大丈夫。そのコンビニの角を曲がったマンションだから。ちょっとコンビニで買いたいものもあるから、ここで」

 ミラがそう申し出ると、木崎颯斗はあっさり、「わかった。じゃあここで」と歩みを止めた。引き際もわきまえているが、ちゃんとコンビニの軒下までは送ってくれる。本当に気づかいの塊みたいな人だな、と、ミラは驚きと感心を等分に足し合わせた感想を抱いた。

「じゃあまた、機会があったら学校で」

 そう言って引き返していく木崎颯斗の背中を見るともなく見送っていたミラは、その左肩だけがぬれていることに気づいた。おそらく、ずっと右側を歩いていたミラに、傘を多めに差し出してくれていたのだろう。それがわからないほど、ミラは鈍くはない。

 コンビニでジュースでも買って、お礼に渡せばよかったと思ったが、だからといって次に学校で会う機会があるかどうかもわからないので、自分の用事をすませるだけで家に帰った。

 なんか、すごい、いい人だった。それが、木崎颯斗に対してミラが抱いた感想だった。


 予報よりも長引いた雨は、翌日にまでどんよりとした空気を持ち越した。冬はまだ先のはずなのに、秋雨の名残なのか、足もとからひんやりとする廊下を二年二組の教室へ向かう。そして、教室に入ったミラはその瞬間に、何かが体にチクリと刺さったような違和感を覚えた。

 数秒後、チクリと刺さったものが「視線」だったことに、ミラは気づいた。何人かの女子たちが、ミラをにらむような目つきで見つめてきたからだ。なかでも、尋常ではないほどに鋭い視線を放っていたのが、遠野環(とおの たまき)だった。

「あんた、なに考えてんの?」

 ミラが机につくのと同時にやってきた環が、イラ立ちを隠そうともしていない声で言い放つ。しかし、自分が何を質問されたのか、ミラには理解できなかった。

「えっと……ちょっと意味が──」

「昨日、颯斗と一緒に帰ってたでしょ。相合傘で。体育館から見たんだよ!」

 ミラの言葉をさえぎった環が、最後はミラの机を叩いて声を張り上げる。その勢いにのまれたミラの頭の中では、いくつもの「!」と「?」が点滅していたが、すぐに、昨日の下校時のことを言われているのだと思い至って我に返った。

「あ……木崎くんのこと? たしかに昨日──」

「ひとの彼氏に手ェ出すとか、どういうつもり?」

 またしてもミラの言葉をさえぎった環は、イラ立ちではすまない濃度の怒りを全身から立ち上らせていて──あぁ、これは面倒なやつだ、と頭の中でミラの防衛本能がつぶやいた。

「ちょっと待って、わたしもびっくりしてるんだけど……木崎くんって、遠野さんの彼氏だったの? わたし、知らなくて──」

「あーもー、いいから、そういうワザとらしいヤツ。マジでムカつく。そんなことより、あたしの彼氏となんで相合傘なんかして歩いてたのかって聞いてんだよ。へらへらへらへら颯斗にくっついてさ。ほんっと気分悪いんだけど」

「違う、違うよ。あれは、送ってもらってただけだから。わたしが昨日、傘を忘れて、走って帰ろうとしてたら木崎くんが声をかけてくれたの。それで、途中まで送ってくれただけ。それだけだよ」

「だからそういう颯斗の優しさにつけこんだんでしょ? マジで最っ低」

 吐き捨てるようにそう言って、環がミラの左肩を突き放すように押した。

 彼氏がほかの女子と並んで歩いていた。それだけで、環の怒りは頂点に達しているらしく、まるでミラの話を聞こうとしない。昨日の颯斗の丁寧すぎるほどに丁寧な気配りは、環という彼女がいたからだったんだなという納得はできたものの、正直、今となってはどうでもいい。

 何をどう言えば、環にわかってもらえるだろうか。そうミラが考えていると、横から思わぬ声が差し込まれた。

「てゆーか、中越さんっていっつも『一人でいるのが好きです』って感じのキャラなのに、男子に興味とかあったんだ。いがーい」

「でも、ひとの彼氏をとろうとするとか、最低なんですけど」

「ナイわー、マジで。環、かわいそすぎ」

 いつの間にか環を取り囲んでいたほかの女子たちが、環と一緒になって、とげとげしい言葉と視線をミラに浴びせてきた。

「謝れよ」

 嫉妬と怒りに震える瞳をミラに向けて、環がすごむ。

「ひとの彼氏に手ェ出してごめんなさい、わたしが悪かったです、って言えよ。それで二度と颯斗に近づくな」

「えー。それだけで許すとか、環、やさしー」

「あたしだったら絶対に許せないんだけど」

「それな。常識なさすぎってゆーか、人としてあり得ないでしょ」

 環を取り囲む女子たちも次々とそんなことを言い合って、じろりとミラをにらみつける。環はクラスの女子の中心的存在だから、彼女を取り囲む女子たちは最初から「環は正しく、ミラは敵だ」と認識しているような雰囲気だ。つまり、そこに会話の余地はない。

「……木崎くんが遠野さんの彼氏だったことは知らなかったけど、不快にさせたんだとしたら、ごめん。でも、木崎くんにも事情を聞いてもらえれば、何もなかったってはっきりすると思う」

 いろいろなことをのみこみながら、ミラはそう伝えた。しかし、環の表情に、納得した気配はない。ばかりか、瞳の奥に燃える怒りの炎が大きくなったように、ミラには見えた。

「信じらんない……なにその態度。まだそんな言い訳すんの? マジで神経疑うんですけど」

「言い訳じゃなくて──」

「どうせ今みたいに『何もないですー』って顔して、颯斗に近づいたんでしょ! 性格悪すぎ。もう二度と颯斗に近づかないって素直に誓うなら許してやろうかなって思ったのに……そっちが反省するつもりないなら、もういいわ」

 突き放すように環の口にした「もういい」が、「もう謝る必要はない」という意味ではないことは、なんとなく理解できた。つまり、昨日の出来事を水に流してもらえたわけではないのだろう。

 しかし、ミラが何かを言うより先に環はまわりの女子たちに声をかけると、自分の席へ戻ってしまった。その背中からは、いまだ激しい怒りの炎が噴き出しているように見えた。


 翌日から、ミラの高校生活は激変した。

 ミラのいないところで、どういうやりとりがあったのかはわからない。ただ事実として、ミラはクラスの全員から無視されるようになった。「おはよう」と声をかけると返事がないどころか、みんな、さっと潮が引くように離れていく。教室を移動しての授業では、誰もミラの隣に座ろうとしない。簡単なことを尋ねたときも、目さえ合わせてくれないままどこかへ行ってしまうか、「ごめん、先生に呼ばれてて……」と逃げてしまうかのどちらかだ。

 集団無視の中心にいるのは、遠野環に違いない。「彼氏を誘惑した最低な女への復讐」を実行しているつもりなのだろう。完全な誤解だが、相変わらず環は常にイライラした空気をまとっていて、ミラと会話しようとしない。これはもう、無視することに飽きるのを待つしかないのだろうか。ミラがそう思い始めた矢先に、環のイヤガラセは冷めるばかりか、いっそう攻撃的なものへと変わった。

 ある日、ミラが担任に頼まれて教材を教室へ運んでいたとき、うしろから足早に近づいてきた誰かがドンッと肩にぶつかった。突然のことにバランスを崩したミラの腕から、教材がバサバサっと廊下に落ちる。しかし、ぶつかってきた誰かは謝るわけでも、落ちた教材を拾うわけでもなく、そのまま立ち去ってしまった。かすかな笑い声さえ残して。

 たしか、環の取り巻きの一人だ。環がやらせたのか、彼女が自主的に「友人の敵」を攻撃しただけなのかわからないまま、ミラは一人で、足もとに散らばった教材を黙々と拾い集めた。

 別の日には、クラスの女子全員がメンバーに入っているグループチャットとは別に、ミラを除いた残りの女子全員で、新たなグループが作られていたことを知った。いつもはにぎやかな女子のグループチャットが、最近ぜんぜん動いてないなと思っていたら、いつの間にか別のグループを作ってミラ一人をハブにしていたらしいということが、クラスメイトたちの会話から判明したのだ。

 自分のいないグループ内では、遠野環が中心となって、自分の悪口がささやかれているのだろうか。そんな想像をしてしまうと胃がキリリと痛んだが、耳に入ってきもしない悪口を気にし始めればキリがない。

 気にするな、気にしたら負けだ、彼女たちが飽きるまで待つんだ。ミラは懸命に、自分に言い聞かせた。しかし、無視されたり、廊下ですれ違いざまに足を引っかけられたり、腫れもの扱いするように遠巻きにされたりということが毎日のように続くなかで、ミラの心はすり減っていった。キリキリ、キリキリ、と胃だけではなく体のあちこちが針でつつかれるように痛み、そうなると授業にも、以前のように集中できなくなってしまう。

 食欲は落ち、睡眠のサイクルも狂い始めていた。ベッドに入ってから眠りにつくまでの時間が長くなり、ようやく寝つけたとしても夜中に目が覚めてしまう。そうなると、今度は眠れなくなって、気づけばカーテンの隙間から朝陽が射し始めるのだ。食欲不振と睡眠不足は明らかに体調に影響していて、日中は体が思うように動かなくなっていた。

 世界は、こうもたやすく変わってしまうのか。あの日に降った雨をきっかけに、ミラの日常はあっさりと崩れ去ってしまった。その崩れ去る音が、今度はミラの心を押し崩してゆく。

 そんなミラとは対照的に、環は毎日、よく眠ってよく食べているらしい。

「こないだ、気づいたらお昼でさー。十二時間くらい寝ちゃってたの、ヤバくない? しかも、寝てただけなのにめっちゃおなかすいてるし、笑ったわー」

 昼休み、そんなことを声高にクラスメイトに話しながら、環は購買で買ってきたらしいサンドイッチと菓子パンとスナック菓子を頰張っていた。しかし、食べ終えた直後に気分屋を発揮して、「てか、ちょっと太ったんだけど、マジ最悪」と、不機嫌そうに眉をゆがめていた。

 それでも、夜はまたぐっすり眠って、明日の朝食ももりもり食べてから登校するのだろう。ミラとは正反対だ。ミラはどんどん、眠れなく、食べられなくなっているのに、環は──まるでミラの睡眠欲と食欲を吸い取っているかのように──悠々自適なのだから。

 そして、そんな重だるい高校生活が続くなか、そのウワサは広まり始めた。

 ──中越ミラは、小遣い欲しさに「パパ活」をしている。

 どこからともなく流れてきたそのウワサを、ミラ自身、信じられない思いで愕然と聞いた。

 もちろん、根も葉もないウワサだ。しかし、高校生にとって、同じ学校の生徒がパパ活をしているというウワサは、話題にするには十分なほどセンセーショナルだったのだろう。

 ──中越さんって、そーゆーことする人だったんだ。

 ──あたし無理。オジサンとデートするとか、ちょっと考えらんないわ……。

 ──そういうのって、デートだけじゃすまないんじゃないの? マジ怖いんですけど。

 ──俺、狙われちゃったらどうしよう!

 ──バカ、金がない男には興味ないってことだろ。

 ──もっと自分を大事にしないと……。

 学校にいる間は好奇のまなざしを受け、ヒソヒソとただよう嫌悪や嘲笑のささやきにさらされる。一度は、担任と生活指導から呼び出され、面と向かって「ウワサは本当なのか?」と問い詰められた。もちろん、嘘だと言ってやったが、担任も生活指導もしょっぱい顔をしたままだった。

 ウワサを流したのは十中八九、遠野環だろう。まさか、自分の彼氏と一緒に歩いていたという嫉妬が、ここまで激化するとはミラも思わなかった。何日か前、環が、彼氏とうまくいっていないふうなことをイラ立たしそうにクラスメイトにこぼしているのを小耳にはさんだことがある。そのときに、イヤな予感はした。おそらく、彼氏とギクシャクしてしまった原因がミラだと決めつけ、逆恨みがエスカレートしたに違いない。

 しかし、パパ活のウワサを流したのが環だという証拠はないので、担任から環に注意してもらったところで、素知らぬ顔をされるのがオチだろう。イヤガラセがますますひどくなる可能性とも天秤にかけて、教師への「密告」はあきらめた。

 心が、どんどん殺される気分だ。一日の授業が終わって家路につくとほっとするが、また明日も学校に行かなければならないのだと思うと、あぁ、また自分は殺されるのかと、気が滅入ってしまう。誰かに相談できれば、とは思うが、ウワサの内容が内容なだけに親には言い出しづらい。味方になってくれそうなクラスメイトも、ミラにはいない。

 ──こんなとき、わたしのことを信じてくれる友だちが一人でもいたら、こんなに苦しまなくてすんだのかな……。

 それは、ないものねだりというものだ。重たい体を引きずるようにして帰宅したミラは、今すぐベッドにもぐりこんでしまいたい衝動を抱えながら自分の部屋の扉を開けて、軽く息をのんだ。

「あっ、おかえりー、ミラ。久しぶり!」

「…………ナオ?」

 その名前がミラの口から出てくるまで、ずいぶんと時間がかかった。うっかり忘れかけていた名前だ。しかし、一度思い出してしまえば、水風船を割ったかのようにいろいろな記憶が噴き出してきた。

「ナオ、どうしてここにいるの? 急に……ていうか、何年ぶり?」

「んーと……何年ぶりだろ? わかんない」

 ベッドに座っていたナオが、両足を振った勢いで立ち上がる。そのまま跳ねるようにして歩いてきたかと思うと、正面から、ふわりとミラを抱きしめた。

「久しぶり、ミラ。ツラそうな顔して、どうしたの?」

 いつぶりかもわからない親友に抱きしめられて、ミラの心は決壊した。

 幼いころ、ナオとは近くの公園で、よく遊んだ。一人っ子なうえ、友だちをつくるのが苦手なミラにできた、ほとんど唯一といっていい遊び相手だった。でも、通う小学校が別々になったのが大きかったのか、物心つくころには遊ばなくなって、連絡のとりようもなかったので、そのまま疎遠になってしまったのだ。

 そんな昔なじみの親友が──心を許せるたった一人の親友が、このタイミングで唐突に目の前に現れた。それだけで、心が大きく救われたようにミラは感じた。

 ミラは夢中になってナオに話をした。ナオに会えなくなったあと、どれだけ寂しかったか。再会できて、どれだけ嬉しいか。ナオは、うんうんとうなずきながら、昔と変わらない笑顔でミラの話を聞いてくれた。その包容力に、つい甘えたくなった。気づけば、高校での陰湿なイヤガラセのことを、ミラはナオに吐き出していた。

「なにそれ、ひどい! 最低じゃん!」

 話を聞いたナオは、こぶしを握りしめて声を上げた。わかりやすく憤慨してくれることが心地いい。胸の底にたまっていた澱が、すぅっと薄まるようだ。

「ミラが横取りなんかするはずないじゃん! 環って子、逆恨みもいいとこだよ! 『恋は盲目』っていうけど、ここまでくると迷惑だね。言いがかりもいい加減にしろっての! あぁー、ほんとハラ立つ。ミラをこんなに傷つけて、絶対に許せない。ねぇ、わたしが『ミラをイジメるな!』って言いに行ってあげようか? なんなら一発くらい殴ってやる!」

「待って、さすがにそれはマズイよ」

 握りしめた拳でヘタなファイティングポーズをとるナオを、ミラは苦笑しながらたしなめた。こんな苦笑でも、笑えたのは久しぶりだということに気づく。誰かが、まるで自分のことのように腹を立ててくれることが、こんなにも心を軽くするのだ。

「ナオの気持ちは嬉しいけど、わたしは別に、やり返したいわけじゃないの。それに、暴力で報復なんてしたら、ますますこじれちゃうでしょ」

「う……そっか……」

「ナオが話を聞いてくれたおかげで、だいぶスッキリしたから、大丈夫。怒ってくれて、ありがとうね」

 ミラがそう言うと、最初は釈然としない様子だったナオも、「ミラがそう言うなら……」と拳をひっこめた。

 ──大丈夫。わたしには、代わりに怒ってくれる親友がいたんだ。ナオはずっと、わたしの味方でいてくれる。だったら、わたしは大丈夫。まだ、立っていられる。

 ミラは自分にそう言い聞かせた。

 しかし、それだけで強くなることはできないのが現実だった。

 環が先導していると思われるイヤガラセは、それからも毎日のように続いた。暴力をふるうといった直接的なイジメは一切なく、地味で陰湿なやり口だったが、だからこそ、やすりで削り続けるようにミラの心をすり減らしていく。

 いつの間にか、胃の痛みは感じなくなっていた。それに取って代わるように、今度は体が指先までずっしりと重たくなり、頭がぼうっとして授業に集中できない毎日が続いた。聞こえてくるのは授業の内容ではなく、みんなが自分のことを悪く言っている声だ。

 ──最低。気持ち悪い。どうかしてる。悪いのはおまえだ。学校に来なければいいのに。おまえなんていなくなれ。目の前にいるだけで迷惑なんだよ。さっさと消えてくんないかな。

 時間を問わず、そんな悪意ある声がミラの耳から体に侵入してくる。恐ろしいほどはっきりと、途切れることなく毎日だ。家にいる時間でさえも気が休まらず、食欲不振と寝不足は悪化している。そのせいで朝がツラく、授業中も強烈な睡魔に襲われるが、絶え間なく響くジトジトとした陰口が、居眠りさえ許してくれない。

 心配して頻繁に家を訪ねてくれるようになったナオに、ミラは苦しみを吐き出し続けた。しかし、吐き出しても吐き出しても、苦痛は消えてなくならない。ナオが憤ってくれるそのときだけは楽になるが、翌日登校すれば、また同じことの繰り返し。責め苦は終わらない。

 さらにミラを追いつめたのは、二学期の中間試験の成績が以前より格段に下がってしまったことだった。イヤガラセが大きなストレスになり、授業への意欲や集中力が下がっていた自覚はあったが、ここまで明確に形になってしまうと、一段と打ちのめされる。

 ──やっぱりもう、限界かもしれない。

 ふと、そう思った瞬間、ミラの中で何かが音を立てて壊れた。

 翌日、ミラは高校を休んだ。母親には「体調が悪い」とだけ伝え、ベッドの中からほとんど動かず、眠れるだけ眠り続けた。眠れない夜があったのが嘘のように何時間も眠り続け、気づけば夜になっていた。それでも全身だるいままで、もう何もしたくないという気分に変化もない。まだ休息が足りないのかもしれないと、翌日も、その翌日も部屋にこもって時間の流れをやり過ごしたが、元気が戻ってくる気配はなかった。

「わたし、どうしちゃったんだろ……。こんなに休んでるのに、ぜんぜん体が動かない……」

「大丈夫、ミラはおかしくないよ。おかしいのは、学校の子たちだよ。そんなとこには行かなくていいの。今は、自分のことだけ考えればいいよ。わたしが、いつでも話聞くから」

「ナオ……わたし、ツラい……苦しいの……。今日、お母さんに『ズル休みじゃないの?』って言われたの。こんなに苦しいのに、わかってもらえない……。先生も、わたしがパパ活してるってウワサになったとき、疑ってるみたいだったし……誰も、わかってくれないの」

「わたしはミラのこと、ちゃんとわかってるよ。ずっとそばにいるから、安心して」

 見舞いに来るたび、ナオは優しい言葉をくれる。そっと頭をなでてくれる。そうされると心がゆるんで、ミラは穏やかな夢の世界へ旅立つことができる。ただ、目覚めれば変わらない現実が待ち構えていて、そのむなしさにミラは何度も涙を流した。

「どうすれば、この現実が変わるのかなぁ……」

 朝から重たい雨が降っていた、その日。ミラが流した涙を見て、それまで優しい微笑みを浮かべていたナオが、静かに表情を変えた。それは冷たささえ感じさせる、真剣なまなざしだった。

「ミラ。わたし、気づいたことがあるの。耐えてるだけじゃ、現実は変わらないんじゃないかなって。イヤガラセも、このままじゃ終わらないのかもしれない」

「終わらないって……それじゃあ、どうすれば……」

「終わらないなら、終わらせるしかないよ。ミラが、自分の手でね。でも環は、きっとミラが言葉で伝えようとしても、理解できないと思う。最初からミラの話を聞かない、バカな子だもん。バカないじめっ子をやっつけるためには、仕返しするのが一番だよ。だからね──いっそ、環を殺しちゃおうよ」

 それまでベッドにもぐりこんでいたミラだったが、ナオの最後の一言には、さすがに跳ね起きた。

「そんな、こと……そんなこと、できるわけないでしょ!? いくらなんでも、そんなっ……!」

「ちょっと、そんなに怒鳴らないでよ。わたしはミラのためを思って──」

「ごめん、今日はもう帰って。一人になりたいの。……帰って!」

 そう怒鳴って、ミラはふたたび頭からベッドにもぐりこんだ。返事はなかったが気配が動き、どうやらナオは部屋から出ていったらしい。はぁ……と、ベッドの中で疲れたため息をついた直後、ガチャリと部屋のドアが開いた。

「ミラ? 大きな声がしたけど、大丈夫?」

 母親の声だった。ベッドから顔は出さないまま、「なんでもない」とだけつっけんどんに返すと、母親は「そう……」とつぶやいて、ため息をこぼした。次に聞こえてきた声は、少し硬くなっていた。

「ねぇ、ミラ。いつまでそうしてるつもりなの? 『なんでもない』なら、ちゃんと学校に行きなさい。来年は受験生なのよ。そんな大事な時期に何日もサボって、将来どうするの……」

 頭から布団をかぶったまま、ミラは両耳をふさぎ、ギュッと目を閉じた。

 親も教師も、大事にしているのは体裁とか成績とか、そんなものばかりだ。こっちの苦痛は、わかってくれない。味方になってはくれないのだ。

 布団をかぶっているせいなのか、ふいに呼吸が苦しくなった。耳の奥でドクドクドクと聞こえるくらい、鼓動が激しくなる。自分は生きているんだな、と思う。生きてるのって苦しいんだな、とも。

 限界かも、と思ったあのとき、自分の中で何かが音を立てて壊れるのを聞いた。きっと、壊れた何かは、もう直らないのだ。

「ごめん、ミラ。わたし、間違ったこと言った」

 布団越しにくっきりとした声が聞こえてきて、ミラはハッと目を開けた。顔を出すと、いつの間にか母親は部屋からいなくなっていて、かわりに、さっき帰ったはずのナオがベッドに腰かけて、ミラを見つめていた。

「さっきはごめんね、ミラ。ミラが苦しんでるのを見て、つい、環を殺せばいいなんて言っちゃった。でも、違うよね。ミラが望んでるのは、そんなことじゃないよね。ミラは、楽になりたいんだよね?」

 そう言ったナオが両手でミラの頰を包み、顔を近寄せてくる。穏やかな親友の表情を見つめていると、どうしてか、涙があふれて止まらなくなった。

「ぅ、ん……楽に、なりたい……。誰も、わかってくれないの……。苦しいのは、もういや」

「だったら、逃げちゃえばいいよ。苦しいことを我慢する必要なんてない。だから逃げよう、ミラ。この世界から。大丈夫だよ。わたしが、ずっと一緒にいてあげるから」

 ナオにそっと抱き寄せられて、ふわりと体が軽くなった。指先まで鉛を流しこまれたように重くて冷たくて動くのが億劫だったのに、今だけは、どんなことでもできそうだ。

 ベッドから出たミラはフラフラと机に歩み寄ると、ペン立てを手で押し倒した。机に何本ものペンや定規が散らばる。その中から、ミラは迷うことなくカッターナイフを手に取った。

 チキ、チキチキ……と押し出した刃を手首にあてる。ひやりとした感触が、妙に心地いい。そのまま強く手首に押しつけると、ぷつ、と皮膚の裂ける感触がして、薄闇にも鮮やかすぎる赤い珠が、白い手首に浮き上がった。さらに押しつけると、痛みとともに赤の量が増す。

 ──もっと。もっと。もっと。もっと。じゃないと、この苦しみからは、逃げられない。

 そこで、ミラの意識は闇へと溶けた。その直前、ナオが、ふっと耳もとで笑ったような気がした。


 ──今、誰かが名前を呼んだだろうか。

 ぼんやりとそう思ったすぐあと、闇に溶けていたはずの意識がふわふわと形を取り戻し始め、目に見えるものが暗闇から白っぽい景色に変わる。

「──ミラ!」

 今度こそ、はっきりと呼ばれたのが自分の名前であることを、ミラは認識した。名前を呼んだ母親が、涙ながらに右手を握りしめてくる感覚も、たしかに現実のものだとわかった。

 みずから手首を切って昏倒したミラは、物音に気づいて部屋に戻ってきた母親に発見され、病院に搬送された。衝動的なリストカットによる傷は浅く、命に別状はなかったが、ミラの体調を気づかった担当医は、入院部屋まで診察に来てくれた。

 白衣の胸もとに「遊佐」という名札をつけた医師に、ミラは、これまでのことをとつとつと語った。近ごろ、ずっと体が重く、ベッドから出られなかったこと。集中力が続かず、成績が下がって自信までなくなっていたこと。いつも、誰かが自分の悪口を言っているような気がしていたこと。そもそもの発端は、カン違いから始まった学校でのイヤガラセだったこと。

 けっして要領がいいとはいえないミラの話を、遊佐医師は根気強く、長い時間をかけて聞いてくれた。そして、慎重な面持ちで、ひとつの病名を口にした。

「お話をうかがうに、おそらく、ミラさんは統合失調症だと思われます」

「統合、失調症……?」

 ミラも、病名自体は聞いたことがある。たしか、ココロの病のはずだ。

 そうだとわかった瞬間、何かがミラの胸の中に流れ込んできた。

「わたし、病気だったんだ……」

 それは落胆でも悲観でもなく、明確な安堵だった。

 自分が動けなかったのは、怠惰のせいなんかじゃなかった。サボっていたわけでもなく、病におかされていたせいで抜け殻のようになってしまっていただけだったんだ。

 それがわかった瞬間に、おかされていたココロがいくらか救われたようにミラは感じた。

 ぎゅっと胸もとを押さえるミラに、遊佐医師が優しく声をかける。

「よく、話してくれたね。ずっと、ツラかったと思います。ひとりで、よくがんばったね」

「はい……。あ、でも、ひとりじゃなくて、ナオがいてくれたから……」

「ナオ?」と、オウム返しに尋ねたのはミラの母親だ。遊佐医師から母親に視線をすべらせて、ミラは「ほら」と手振りを加える。

「わたしが部屋から出られなかった間に、何度かお見舞いに来てくれてたでしょ? 親友のナオ。久しぶりに再会したの。ナオがいつも、わたしの話を聞いてくれてたんだよ」

 ミラの言葉を聞いて、しかし母親は、怪訝そうな表情になるばかりだ。そして、慎重に言葉を選びながら、こう言った。

「ミラが学校を休んでから、お見舞いに来てくれた子は、いなかったと思うんだけど……」

 え、と唇は動いたものの、しばらく声にはならなかった。

「で、でも、ナオが来てくれたとき、お母さんも家にいたよね? わたしが、その……倒れたときだって……。さすがにナオも、勝手に入ってきたりはしてないと思うけど。ほら、あのナオちゃんだよ? わたしが子どものころ、公園でよく一緒に遊んでた、ナオちゃん。小学校が別々になっちゃってから、ずっと会えてなかったけど」

「さぁ……お母さん、ミラのお友だちが訪ねてきたことには一度も気づかなかったわ……。玄関に靴が脱いであるのも、一度も見てないし。それに、ミラが倒れたときだって部屋にはミラしかいなかったし……ミラが公園で遊んだ相手が誰なのかも、覚えがないの。あなたは子どものころから、一人でいることが多かったから」

 ──いったい、お母さんは何を言ってるの? 玄関に靴がなかったなんて、ナオが部屋にいなかったなんて、そんなはずがない。ナオはたしかに、何度もお見舞いに来てくれた。ちゃんと部屋の扉を開けて入って来たナオは、当然、靴なんてはいてなかったし、わたしはナオと何度も話をして……。

 そこまで考えてから、ふいにミラは違和感に気づいた。

 ──そういえば、ナオはいつもわたしが苦しんでいるときにやって来た。「話を聞いてほしい」と呼び出したわけでもないのに。よくよく考えたら、お互いの連絡先も交換していなかったのに、ナオはいつも、わたしがツラいときに最高のタイミングで来てくれて……そうだ、ナオは、気がついたらわたしの部屋にいたんだ。ふつうなら学校に行っているはずの、平日の真昼に。それに、話をしたあと、ナオがどんなふうに帰って行ったかも、思い出せない……。

 とたんに、ミラの中でナオの輪郭がぼやけた。ついさっきまで一緒にいたはずなのに、これまで何度も会話をしたはずなのに、「あれは本当のことだったのだろうか?」と、心の片隅が現実を疑い始める。

 すると、そんなミラの表情を見た遊佐医師が、「もしかしたら……」とつぶやいた。

「そのナオさんというご友人は、ミラさんの、イマジナリーフレンドの可能性がありますね」

「イマジナリー、フレンド……?」

 初めて聞いた言葉を舌の上で転がすミラに、遊佐医師は簡単な言葉を選んで説明を続けた。

「イマジナリーフレンドというのは、心理学や精神医学で使われる言葉です。簡単に言ってしまえば、『実在しない空想の友だち』ですね。だいたいのケースは、自分と同い年くらいの同性の姿であることが多いようですが、ぬいぐるみの姿をしていたり、アニメのキャラクターの姿をしていることもあるようです。イマジナリーフレンドが見えるのは病気ではなく、正常の範囲内とされています。小学校に上がる前くらいまでは、このイマジナリーフレンドが見える子どもがけっこういますが、成長するにつれて見えなくなっていくのが普通です。といっても、大人になってからもイマジナリーフレンドが見えるという人は、まれにですが、います。ミラさんの場合も、それに当てはまるかもしれません。幼いころには子どもの姿の『ナオちゃん』が見えていたけれど、高校での一件があってミラさんに強いストレスがかかったのをきっかけに、ミラさんと同じように成長した姿になった『ナオさん』が現れるようになったのかもしれません」

「それってつまり、幻覚みたいなものなんでしょうか……?」

 不安げに尋ねた母親に、遊佐医師はほのかな笑顔を向けた。

「たしかに、ミラさんが統合失調症である可能性を踏まえると、それにともなって発現する幻覚や幻聴だった可能性もいなめません。ミラさんから、もう少し詳しくお話をうかがわないことには、なんとも……」

 遊佐医師から一瞥されて、ミラはナオのことを思い出そうとした。

 環の嫌がらせに悩んでいたミラに、ナオは最初、優しい言葉をかけてなぐさめてくれた。しかし、やがて「環を殺しちゃおう」とか、「この世界から逃げちゃえばいい」とか、まるでミラを暗闇に誘いこもうとするかのような言葉をかけてくるようになった。

「だとしたら、ミラさんの精神状態に合わせて、そのナオという子も、形を変化させていったということかもしれません。自殺教唆に近い言動をとったとなれば、無害なイマジナリーフレンドと同等に扱うのは危険かもしれませんね……」

「危険」という言葉に、ミラの耳がぴくっと震えた。「危険」。そんなレッテルは、ナオには似合わない。あの子は、本当は優しい子だ。

 子どものころ、たしかにナオと遊んだ記憶が、ミラにはある。当時、ナオのことを両親に話したら、不思議そうな表情が返ってきたことも、今になって思い出した。ナオは、自分にしか見えない想像上の友だち。それでも、たしかに彼女は親友だった。

「危険なんかじゃ、ありません」

 気づけば、これまでになくはっきりとした声で、ミラはそう言っていた。

「ナオは、わたしにとって大切な親友です。だからこそ、苦しんでるわたしの前に十何年ぶりに現れて、助けようとしてくれたんだと思います。現実に存在はしていないかもしれないけど、わたしの心を支えようとしてくれたことは、間違いありません。最後は、ちょっと大げさなことになっちゃったけど……それも、病気のわたしがナオに、イヤなことを言わせてしまったんだと思います。ナオは、危険じゃありません。わたしがちゃんと治療すれば、きっとナオも、もとに戻ります。これ以上、大事な親友を狂暴化させるわけには、いかないから」

 ミラの言葉をじっと聞いていた遊佐医師は、やがて、陽だまりのようにあたたかな笑顔を見せた。

「わかりました。ミラさんには強い意志があるようなので、きっと治療も順調に進むと思います。一緒に治していきましょう」

 はい、とミラは強くうなずいた。

 自分は、かならず病気を治す。病気を治して、きっともう一度、ナオに会う。

 たとえ、実在しないとしても、助けてほしいときに助けてくれたのは、ナオなのだから。震える手をとり、そっと微笑んでくれたのは、ナオなのだから。なにものにも替えられないその「親友」は、きっとまた以前のように、楽しいおしゃべり相手になってくれるだろう。今度こそ、ミラは彼女と、新たに始めるのだ。

 病室の窓の外は気持ちのいい秋晴れで、しばらくの間、雨は降りそうになかった。


   *


 病気は人を選ばない。その理不尽な公平さに抗うことはできないのだと理解はしているつもりだが、それでも、やはりとりわけ若い世代が病に苦しんでいる姿を見るにつけ、遊佐の胸には苦いモヤがわだかまる。

「パパもママも、最初は顔を見るたびにケンカしてたけど、今じゃ口も利かない……。離婚調停? っていうのに、なるみたいで、今は二人とも、その準備ばっかり。あたしや弟には、ぜんぜん興味ないの。なんかほんとに、透明人間になった気分……」

 抑揚に欠ける声でそう話す間、少女の体はゆらゆらと揺れていた。焦点も定まっていない。バランスをとれなくなってしまった少女の心が、体からこぼれ出ているようだ。

「あたしは、何も悪いことしてない……。悪いのはぜんぶ、パパとママだよ……。うちの中は、息をするのも苦しくて、目の前がぐらぐらして、弟もずっと泣いてて、その声が耳を離れなくて……なんで、うちがこんなことになるの? って、それしか考えられなくて、もう、頭の中ぐしゃぐしゃ……。体の中に、毒がいっぱいたまってるみたいで、うちを出ると……学校に行くと、ぐわぁってあふれ出すの。止められないの。自分で、自分がコントロールできなくて、クラスの子に、ひどいこともした……」

「そうか……。それは、つらかったね」

 苦しみを吐露する少女に、自分は味方であることを伝えようと、遊佐は相づちを打った。

 心と体の成長が著しい思春期には、精神が不安定になることも多い。若者には若者にしか見えない人間関係があるし、恋愛や将来に関わる悩みを抱えやすい時期でもある。多感で、ただでさえストレスの多いその時期に、この少女のような家庭における問題が強くのしかかると、心のバランスが決定的に崩れてしまうことがある。

 この少女は、若年性のうつ病を発症しているとみて間違いない。感情をコントロールできないせいで「クラスの子にひどいことをした」と、先ほど少女は告白した。問診によれば、イライラが続くこと以外にも、過眠症状や食欲増加の傾向もあったようだ。どれも、思春期におけるうつ病の特徴と一致する。

 成人が発症するうつ病の場合は、食欲不振や不眠、倦怠感や気分の落ちこみなどが症状として挙げられるが、思春期のうつ病は、それとはほぼ真逆の症状が現れることも多い。成長期なので、過眠と過食が重なって体重が増加することも珍しくはなく、一見、健康に見えてしまうというのも大きな落とし穴だ。そのせいで、病がもっと進行してからでないと、患者本人も周囲の人間もなかなか気づくことができない。

 今の少女の表情は乏しいが、本来ならば友人が多く、活発そうなタイプだと遊佐には思えた。まさに、いつでもクラスの中心にいるような。だからこそ、親の不仲という深刻な悩みを誰にも相談できないまま心に過度なストレスを抱え続け、病の魔手に捕まってしまったのかもしれない。クラスメイトへの嫌がらせも、病が少女の身に巣食ったせいだと見ることはできる。

 話を聞きながら遊佐がそう思案している間に、少女の体の揺らぎは少し小さくなっていた。この子はまだ、十分間に合う。そう遊佐は思った。ならば、医師として自分にできることは尽くさなければならない。「信念」と「思いやり」という言葉を秘めた、青と白のアイリスがたたずむ絵をこの診察室に飾っているのは、中途半端な覚悟からではないのだから。

「それじゃあ、隣の待合室で少し待っていてもらえるかな? お母さんにお話しがあるから、呼んできてほしいんだけど、いいかい?」

 遊佐がそう呼びかけると、少女は無言でイスから立ち上がった。ふわふわとした挙動で回れ右をし、診察室を出ていく。その背中を見送ったあと、ふと、今まで少女が座っていたイスに目を向けた遊佐は、「おっと」と声を上げて腰を浮かせた。少女のものと思しきスマートフォンが、イスの座面と背もたれの間に滑りこむように落ちていた。

 ぱっとそれを拾い上げて、遊佐は少女のあとを追った。すぐに追いかけたので、少女の背中は診察室を出てすぐ、声の届くところにあった。

「──遠野さん。忘れ物ですよ」

 遊佐の呼びかけに、はたと立ち止まった少女が振り返る。ゆっくりと遊佐に目線を向けた少女は──遠野環は、あぁ、と、あまり表情を動かさないままつぶやいた。

 遊佐の手からスマホを受け取り、ありがとうございます、とささやく。ついでなのでと、遊佐はそのまま遠野環とともに、彼女の母親が待つ待合室に向かうことにした。

 遠野環の隣を歩きながら、遊佐は母親に話す内容を簡単にシミュレートした。離婚調停にもつれこむような家庭状況のようだから、より慎重さが問われるだろう。

 とはいえ、一番に考えるべきは患者──遠野環のことだ。家庭でのストレスから、クラスの子にいじめのようなことを行ったと、先ほど告白していた。それ以前の話から推測するに、家庭が崩壊寸前というストレスフルな状況で、恋人の存在が少女にとって唯一の心のよりどころだった。しかし、その恋人とクラスメイトが二人きりでいるのを目撃したことで、絶妙なところでバランスをとっていた少女の感情が、よくないほうへ振り切れた。

 ──心の支えを失いたくない。奪われたくない。これ以上、あたしを孤独にしないで。

 その危機感や防衛本能が過剰に作動して、負の連鎖が始まった。クラスメイトに敵意を向け、攻撃を加え、やがてその極端な恋心は恋人に伝わり、とまどわせることになったのだろう。どんなことをしてでも守りたかったはずの彼との関係がギクシャクし始め、遠野環のうつ症状に拍車をかけた。そして「こうなったのは、ぜんぶおまえのせいだ」という恨みから、いじめ行為はエスカレートする。

 もちろん、遊佐は精神科医としても、ひとりの人間としても、いじめを容認しない。たとえ加害者にどんな理由があっても、それはいじめられたほうにとって、なんの救済にもならない。いじめられたことが原因で心身を病み、悲しい結末になったケースを、遊佐は知っている。だから、遠野環がクラスメイトをいじめたというなら──彼女がうつ状態にあったことを差し引いても──正してやらなければならないと強く思う。

 ただ、いじめの闇には、いくつもの「病み」がひそんでいるのかもしれないなと考えずにはいられなかった。その闇が──「病み」が、この世界からなくなることはあるのだろうか、と。

 答えは、まだ出ない。


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イマジナリーフレンド 橘つばさ @yuuki_p

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