長袖とタトゥー

辺理可付加

       

たちばなさんって、いつも長袖だよね」


そろそろ三寒四温も抜けた春先。はっきり内容を覚えている限りで、貴方あなたと最初に交わした会話はこれだったわね。


「長袖? ……あぁ。えぇ、そうね」

「思えば去年の夏も長袖だった。暑くないの?」

「そういう貴方こそネクタイ詰めてたじゃない。このクールビズの時代に、そもそも弊社ウチは私服なのに」

「はは、まぁ、まぁ、ね。で、暑くないの?」


真夏の昼下がりのオフィス。ウチは決まったデスクがない社風。初めて隣に座った貴方は腕まくりしていた。

やや細めな割りにはで力強い質感、あまり焼けてない肌。アオダモの大木みたいな貴方の腕を覚えている。

ちょっと背が高いのにがっしりした威圧感はなくて、だけど頼りなくは見えない貴方のシルエットに、よく似合うと思ったのを覚えている。


優しい笑顔。柔和で人懐こいけど弱さや脆さには見えない顔立ちに騙されて、私は本当のことを答えたわ。


「そうね、暑いわ。でも私、左腕に結構大きい火傷のあとがあって。見せたくないし、……見たくないでしょ?」


と同時に、本当の本当のところは隠した。


そしたら貴方の声と表情、包み込むように曇ったわね。聞き流してると少し高めに思えて、実は低い揺らぎがある声。


「そう、なんだ。迂闊うかつなこと聞いて


露骨に目を逸らすでもなく、思わず傷のありそうな辺りへ視線が寄せられるでもなく、私を見据えたまま真面目な顔をする貴方。

私、深いところは隠してよかったって思った。どうして火傷したのかなんて話したら、貴方は傷つくと思ったから……


いえ、嘘ね。


私のため。なぜだか貴方には知られたくなかったから。

どうしてかしら。あの時もう、すでに貴方のことが好きだったのかしら?

えぇ、そうかもしれないわね。だって貴方の腕を、顔を、声を、細かく認識しているんだもの。ずっとネクタイ詰めてたことを知っていたんだもの。

好きになってたに違いないわ。

遠巻きに見ているうちに。まともに話したこともなかったくせに。






 それから割りとじゃなかったかしら? 同じプロジェクトに配属されて、毎日顔を突き合わせるようになったのは。

二人してアイデアを絞り出す最中さなか、貴方はよく自分の眉間をトントン叩いて見せたわね。


「橘さん」

「なに」

「ほら、シワ寄ってるよ」

「うるさい。脳みそ千切れるほど頭使ってるんだから、当然でしょ」

「よくないなぁ、よくないよ」

「何が。若い女性の肌に向かってシワが戻らなくなるとか言うつもり?」


私が悪態あくたいで詰めると、貴方は必ず返した。


「いや? ただ……」

「ただ?」

「そうじゃない方が、仕事が捗る」

「私、表情筋で仕事してないけど」

「いや、僕の」

「は? それ、どういう意味?」


その先を貴方は必ず答えなかった。

ねぇ、どういう意味なの? どういうつもりなの? 教えなさいよ。


私の顔を見て仕事をしているってこと? 私の顔で調子が変わるってこと? 私が眉間にシワ寄せてない方が、


……私が笑顔の方が頑張れるってこと?


ねぇ、答えなさいよ。答えないと私、いくらでも都合よく考えちゃうじゃない。



 そうそう。あんまり行き詰まった時は、よく飲み物を買ってきてくれたわね。

いつも決まって、アイスココア。


「……私コーヒーがいいんだけど」


その左手に収まっているのを物欲しそうに見つめてみたら、貴方は決まって首を揺らした。


「だめ」

「なんでよ」

「橘さん、いつも仕事中コーヒー飲んでるでしょ」

「っ! そ、それが何よ!」

「橘さんにとってコーヒーは仕事用の飲み物ってこと。だから息抜きの時はコーヒー禁止」

「そ、そう! じゃあ仕方ないわね!」


なんなのよ、それ。

そんなによく見てるなんて、勘違いしちゃうじゃない。

勘違いじゃないって、勘違いしちゃうじゃない。


貴方はただ自分の哲学にのっとって私にも同じことを勧めただけかもしれないけど、優しさだって勘違いしちゃうじゃない。私のことを思って、いろいろ考えてくれてるんだって思っちゃうじゃない。


もう私、貴方がしてくれることなら、箸が転んだって胸が高鳴るのよ?






 私と貴方が初めて寝たのは、プロジェクトが無事終わった打ち上げのあとだったわ。忘れない。

二人で散々飲んだあと、酔った勢いで……、いいえ、私は酔ったフリをして貴方とホテルに入ったわ。

それとなく誘うのに、どれだけ苦心したと思う? ロビーに一歩入った時、どれだけ死にそうだったと思う?


きょうくん」って呼んだ時、どれだけ心臓が痛かったと思う?

あずささん」って呼ばせた時、どれだけ心臓が熱かったと思う?



 変なライトの演出もアメニティも頭に入ってこないくせに、シャワーは神経が過敏になって少しの水圧も刺さるように感じた。なのに身体は火照ほてってるから、あまり温度が分からなかった。


そして私がシャワーを出て貴方が浴び終わるまで、いつまでも身体の湿度が取れない気がしたのを覚えている。バスローブを着てたせい? それとも汗でもかいてたのかしら。



 貴方がシャワーを出てきたあたり、実はあまり覚えてない。頭真っ白だったのよ。

気がついたら貴方はバスローブを脱いでいた。男性が先に脱げば、女性も少しだけ恥ずかしくなくなるから?

だけど私は脱がなかった。火傷の痕を見られたくなかったから。

だからその分、ゆっくり消えていく腰紐の圧迫感を計りながら、袖が肩から抜け落ちないよう強張りながら、ずっと抱き締められたかった貴方のアオダモの腕を、ずっと頬を当ててみたかった硬めの寝具のような胸板を、じっくり目に焼き付けることにした。

そう、目に焼き付けてしまった。


「あ……」

「どうしたの?」


貴方は手を止めることなく聞き返したけど、すぐに私の目線に気づいて笑ったわね。



右の鎖骨の下、『Michiru』と書かれたタトゥー。



「元カノがね。最初の夜、最初にキスをした場所」

「そう……」


だからネクタイを詰めていたのね、首元の隙間から覗かないように……。私はぼんやり思い返しながら、

思わず人差し指でタトゥーを撫でた。


嫉妬? そうね、普通は嫌よね。他の女、過去の女がまとわりついてるなんて。いくら『女は最後のオンナになりたいもの』って言ったって。

でも違うの。ただ、優等生の王子様、なんなら綺麗な世界しか知らないみたいな貴方の体に、不釣り合いなタトゥーが、情熱的な火遊びの痕が刻み込まれていることに、貫かれるような官能を覚えただけ。

背徳感にも似た……、婚約したいとしの伯爵が吸血鬼だと知ってしまった世間知らずのお姫様のような……。



 でも、見てしまったら見られなければならない。悪魔との契約ってそういうものでしょう? お姫様は魂を取られてしまうのよ。

……きっと私はすでに取られていたのでしょうけれど。


貴方が私に身をよじらせるうち、どうしてもゆるいバスローブの袖が下がっていってしまう。これがシャツなら違ったでしょうけど。貴方のシャツなら肌が捉えて離さなかったでしょうけど。


私が隙間で気づいて袖を戻そうとすると、貴方はその手をそっとつかんだ。支配しない温和と、許さない野生を孕んだ圧。


「だめ。離して」

「どうして?」

「火傷があるの。知ってるでしょ?」

「忘れてないよ」


こんな矛盾に満ちた物言い、貴方はどう思ったでしょうね?

火傷があることを知られたくなかったわけじゃないの。

貴方には火傷を見られたくなかっただけじゃないの。


知られたくなかったの。

昔、父の浮気で不安定になった母から、「しつけだ」って言われてアイロンを押し当てられたこと。それで母はいなくなって、あんな父しかいない人生を送ってきたこと。初めてまともに会話したあの日、隠していた本当のこと。

暗くて目も当てられない私の過去を、青い空へ真っ直ぐ育ったアオダモの貴方には、知られたくなかったの。

分かる? この気持ち。実は私にはよく分からないの。


それが貴方に伝わったとは思わない。思いたくない。だからあれは偶然よね。

貴方は何も言わず私の指先を、

そっとタトゥーに触れさせた。

瞬間何かが弾けたわ。



そうよね、いいよね。貴方のような人にも別れた女の痕があるんだもの、人間それくらいあってもいいのよね。



身体から力が抜けて、まぶたが自然と降りてきて、私は貴方のになった。

火傷の痕が外気に晒されてうずくのを、左の上腕に口付けの感触を覚えて視界の暗闇がチカチカ光るのを、私はゆっくり噛み締めた。


それからずっと、唇の形にジンジン熱くて、


貴方が深く入ってくるより、熱くて、熱くて、熱くて……。



………………


…………


……



 最後にもう一度シャワーを浴びようかなってタイミング、貴方は浴室を温めに行ってくれたわね。

その後ろ姿、いつもより広く見える背中に言葉にできない何かを感じて、手を伸ばせばいつでも触れられる現実に全てが沸き立って。


思わず縋り付いて、左の肩甲骨に口付けした。


Michiru過去の女の対角線。そして、



私を満たしたのは左利きだったから。






 それから今日まで数ヶ月。酔った勢いに見せかけたせいか、ただただ私が奥手なせいか、二人が先に進むことも、また同じ深さで身体を重ねることもなかった。

だから私、今日の慰安旅行、海水浴、結構楽しみにしてきたのよ? 期待して来たのよ?


私がシャツを脱ぎたくなくて「泳ぐの嫌いだから荷物番してる」って言ったら、アロハシャツの前を閉じた貴方、「僕もそうする」って頷いたでしょ?

その時の私はもう、溺れるほど嬉しかったのよ?

一人にしないでくれる優しさ。二人きりを選んでくれる甘美。貴方が他人には見せようとしないタトゥーを知っている特別さ。

強い日差しと熱い砂浜の世界なのに、私は震えるほどだったのよ?


だから少し、浮かれすぎてしまったの。

みんなが海の中でキャアキャア騒いでいる時、それを遠巻きに眺める二人だけの世界で、じゃれて熱くなってみたくなったの。


「……えいっ!」

「うわっ!?」


水平線を見つめる貴方のうなじから、背中へ日焼け止めを流すイタズラ。

悠々人を包む貴方を、少しでいいから崩してみたかったの。


「何するのさ! もー!」

「うふふふふふ! ごめんなさいね!」


思わずシャツを脱ぎ捨てる貴方。私の手で慌てる貴方が本当におかしくって嬉しくって愛しくて。

そして、もう一度見て触れたかった大きな背中。

私は貴方を見つめたの。


見つめてしまったの。


露わになるアオダモの背中。その左の肩甲骨に沿うよう縦に刻まれた、


Konomi


のタトゥー。



「えっ……」



私と違う女の名前。

そこに残されていない私の名前。



「どうしたの?」

「あっ? や、いえ……」


そうよね、そうよね。あの日だって刻まれていたのは恋人の名前で、私は別に付き合っているわけじゃなかったものね。


そうよね。そうなのよね。






?」


貴方の声が遠く聞こえる。

それと同時に、火傷の痕が疼く。唇の形にジンジン疼く。


刻んだタトゥーの形に、熱く疼く。


思わずシャツの上から手で抑えた。

きっと私、ずっと長袖を着て生きるのね。

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長袖とタトゥー 辺理可付加 @chitose1129

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