いいこでしょ、わたし。 ~加害者少女は犬になる~

柳なつき

エサの時間

 それは、わたしが初めて、犬になった日のこと。


 部屋の隅。「おすわり」の体勢をしながら。

 すん、すん、とわたしは鼻をすすっていた。

 恭くんはローテーブルの前に座って、温かい野菜炒めを食べながらアニメを見ている。


 時間をかけて。……教え込まれた。

 犬はどうやって振る舞うのか。

 やっていいこと。いけないこと。


 それは、ほんとうに、犬に対するしつけのようだった。


 なかなか、恭くんがいいよって言ってくれる振る舞い方が、できなくて。

 いっぱい叱られて。……恭くんが持っていた「犬」をしつけるのだという黒くて短い棒で、すこし、叩かれたりもして。……思ったより、痛くて。

 わたしは、いっぱい泣いて……どうにか、教えられた「おて」が普通にできるようになって。

 恭くんはごはんを食べ始めて。まるで、日常みたいに。


 そして。

 わたしは部屋の隅で、すんすん、泣いている。


 ……おなかがすいた。

 わたし……本当に、ドッグフードなんて食べさせられるのかな……。


 アニメを一話見終わるのとほぼ同時に、恭くんはご飯を食べ終わった。

 テレビを消して。食器を下げて。洗って。テーブルを拭いて。……きれい好きみたい。


 恭くんが次、どうするのかが気になって……いちいち、彼の動きを目で追ってしまう。


 そして、わたしは見た。

 恭くんは……ドッグフードの袋から、犬用の平たいお皿に、茶色いエサのようなものを、盛っていた。


 手に持って、恭くんは部屋に戻ってくる。


「えみ。こっち」


 わたしは教えられた通りに、四つ足で恭くんの足下に来た。


「えみもお腹空いたでしょ」

「……わ、わん」


 お腹は空いてる。

 だけど……。


 恭くんはわたしの前にコトリと犬用の平べったいお皿を置く。


「えみ用に、可愛いデザインにしてあげたんだけど」


 確かに、ゆめかわの可愛いデザインだ――だけど。


「嬉しくないの?」

「わん、わんわんわんわん」


 喜ぶ素振りを見せないと……怒られそうだった。


「そう。よかった。……俺は優しいよね、咲花さん。俺なんて、犬のエサすらろくにもらえなかったのにね」


 恭くんはつぶやくように言いながら、茶色いエサのようなものをざかざかと注ぐように、入れた。


「えみ。まて」


 恭くんは、手のひらをわたしに向けてくる。突き出すかのように。

 わたしは、おすわりの格好のまま恭くんを見上げる。


 人間なのに。わたし。……人間なのに。

 犬みたいに、こんなこと、させられて。


 でも、そんなの、恭くんを人間として扱っていなかったわたしには、言える権利は、なかった。


「はい。いいこ。よし」


 相変わらず、無表情の恭くんを、わたしはおずおずと見上げる。


「返事は?」

「わん」


 恭くんを、おずおずと見上げて――わたしは、おそるおそる、茶色いエサのようなものに口をつけた。


 ……少し甘くて、意外と、食べられるものだった。

 てっきり吐くほど不味いものかと思っていたので、ちょっとびっくりして恭くんを見上げる。


 おなかも空いてたし……食べれるってことに安心して、わたしははぐはぐ、エサのお皿に顔を突っ込んで、食べ続けた。


「美味しい?」

「……わん、わふっ」


 食べているから、声が、わふ、となってしまう。


「でも、それだけじゃ生きられないね。……えみの身体は普通の犬より面倒だから。栄養を足そうか」


 恭くんは、エサのお皿を取り上げる。


「まて」


 わたしはまたおすわりの格好をして、待たされる。

 恭くんは、台所に行って――野菜炒めとお米の残りと生卵と牛乳を、持ってきた。それと、お菓子を作るのに使うような木の棒も。

 器に盛られたそれらを、エサのお皿の近くに、並べる。


 ――嫌な予感がする。


 恭くんは、茶色のエサと野菜炒めとお米と生卵と牛乳を平べったいお皿に入れて、木の棒で、ぐちゃぐちゃ、……ぐちゃぐちゃと、掻きまわした。


 甘くて、それなりに食べられたはずの食べものは――あっというまに、グロテスクな、……得体の知れない、ものになる。


 コトリと、お皿が目の前に置かれた。


「えみ。おまたせ。食べていいよ」


 ……いやだ。

 見ただけで、これは、……ひとの食べるものじゃない、ってわかる。


 そう思って、気がついた。

 そっか。わたし。……ひとじゃ、ないから。


 だけど。……だけど。


「えみ。食べないなら、お仕置きだよ」


 お仕置きって……なに?

 わたしは不安になって、恭くんを見上げた。


「――悪い子だね」


 恭くんは、そう言うと――部屋のクローゼットを開けて、……ベルトを、取り出した。

 そして――わたしの背中を、叩く。


 鋭い痛みが、走った。

 ベルトで叩かれると……こんなに……痛いの?


 まるで鞭みたい――。


「……あ、いっ、……いたい!」

「人間の言葉をしゃべらない」


 もう一度、ベルトが……飛んでくる。


「……わ、わん、わん」

「痛くて、お願いしたいとき。犬なら、どう鳴くの?」


 犬の鳴き声を、頭のなかで必死にいくつか思い浮かべて――。


「……きゅうん、きゅうん」

「そう。いやなんだね? 痛いんだね? やめてほしいんだね」

「きゅうんきゅうん」

「……じゃあ、いいこにできるよね、えみ?」

「……わ、わんわん」


 わんわん、以外にもうひとつ犬の鳴き声を得てしまったことに、そして、これからも犬としての鳴き声を、振る舞いを得続けるのだろうと半ば絶望しながら――わたしは、……舌を、出した。


「……はっ、はっ」

「そっか。そんなに、エサがほしいんだね」

「わん、わんわん!」


 本当は。食べたくもない。見ているだけでも気持ち悪い、……ごはんの、残骸。


「ちょっとでも」


 恭くんは、静かに言う。


「美味しい時間をあげた。俺は、美味しいと思えるものなんて、もらえなかったのに。……俺の優しさがわかるよね? えみ」

「……わん」


 ありがとう、ございます。

 そう言う代わりに――わたしは、犬の鳴き声で返事をする、……まるで鳴くみたいに。


 ぐちゃぐちゃだ。

 きっと、彼の心も。わたしの、これまでも、これからも。

 栄養食品と野菜炒めの残骸とお米生卵と牛乳が掻き回された、食物への冒涜のような、……この食べものも。


 ……エサだ。こんな食べものは。ほんとうに。恭くんの、言う通りに――。


「……えっ」


 ぐちゃぐちゃになった、泣くほど不味い犬のエサを、わたしは、泣きながら口にして。

 食べつづけた。食べつづけた。……あまりの不味さと、嗚咽が、すべてを逆流させそうになっても、耐えた。


 恭くんは、しゃがみ込んでわたしの頭を撫でる。


「いいこだね。えみ」


 いいこ。いいこでしょ? ねえ、いいこでしょ、……わたし。


 涙が、エサに落ちる。

 ただでさえぐちゃぐちゃなエサはもっと、ぐちゃぐちゃになる。


 はぐはぐと、吐きそうになりながら、泣きながら、食べる。

 こんなときでさえ、心のなかで、いいこでしょって叫びつづけるわたしも――きっともう、とっくに、ぐちゃぐちゃなのだろう。

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いいこでしょ、わたし。 ~加害者少女は犬になる~ 柳なつき @natsuki0710

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