ぐちゃぐちゃさんと壊れた街のいま

サトウ・レン

ぐちゃぐちゃさんと壊れた街のいま

「くちゃくちゃ?」

 と私が言うと、それは咀嚼音です、と彼から返ってきた。


「ぐちぐち?」

 と私が言うと、何か不満でもありましたか、と彼から返ってきた。


 こんな冗談みたいな、不毛な会話をする気になったのは、この場所のせいだろう。この荒涼とした大地も、大概、不毛だからだ。侘しさを埋める音は、強まった風か、お互いの言葉しかない。


「ぐちゃぐちゃ、です。私は彼を、ぐちゃぐちゃさん、と呼んでいます。そもそも彼と呼んで、適切かどうかは分かりませんが」

 私たちはいま、I県にある海沿いの街を訪れている。いまだにこの土地を、街、と評していいのならば、という話だが。かつては観光名所としても賑わった名残りは、ホテルや旅館の残骸くらいだろうか。割れて、折れ曲がった看板は、地面に刺さって奇妙な、だけど現代アートの一種と言われても納得してしまいそうな雰囲気がある。


 嵐が過ぎ去ったあと、という表現さえ穏当な風景だ。SFかファンタジーの世界にでも放り投げられたかのような。


 彼の砂地を踏む音が、ざざっ、とやけに耳に残った。


『まだ誰にも話していない。どうしても誰かに話したいことがあり、誰に話すか、と考えた時、真っ先に浮かんだのが、あなたでした』


 私のもとに届いたのは、そんな手紙だった。私は彼を一方的には知っていたが、話したことも、会ったことさえなかった。彼が私を認知していたことに、まず驚いた。


 時計を見ると、まだ時刻は午後の四時頃だ。辺りを照らす電灯もない世界で、夜闇が包めば、永遠にも似た闇を味わうことができるだろう。だけどさすがにそこまでいるつもりはない。


「何故、僕の手紙に返事をくれたんですか?」

「返答を求めて、手紙をくれたんだろ」

「まぁそうなんですけど、でも変な輩かもしれないじゃないですか。先生は有名人なんですから」


 先生などと呼ばれるのは、むかしから好きではない。私にその器は似合わない、と思っているからだ。だけど誰もが私を、先生、と呼ぶ。間違ってはいない。大学教授に、タレント文化人に、作家。私を呼び表すものは、いつだって、先生、だ。


「仮に詐欺の類だったとしても、きみに会える可能性があるなら、飛び付いてしまうよ。『奇跡の生還者』に会えるのなら」

「その呼ばれ方は、あまり好きではないですね」

「じゃあ私も、先生、と呼ばれるのは嫌いだ」

 社会学者として、象牙の塔などと表現される世界に身を置いてはいるが、どうも私の肌には合わず、気持ちの比重はタレント活動や作家業に寄っている。


「じゃあ、『奇跡の生還者』で大丈夫です」

 彼をはじめて見たのは、十五年前のことだ。彼はまだ中学生の年齢で、それはテレビの画面越しだった。『奇跡の生還者を発見』と、どこか見出しの文章には笑い事にしようとする色合いがあった。途方もない悲劇は第三者にとっては、喜劇に映るのかもしれない。かくいう私も、この災厄を知り、好奇に支配された心があるのだから、結局は同じ穴の貉なのかもしれない。


 私は番組に映る少年が語る言葉に釘付けになった。

 それまで不明瞭だった災厄に、輪郭がついたきっかけがその少年の話だったからだ。


 崩れたマンションの残骸あたりに、削れた岩がまるでテトラポットのような形を成している。そこにのぼり、つま先立ち、無邪気な表情を浮かべる彼の顔は、十五年前と何も変わっていない。もう三十歳近いはずなのに。まるであの日の出来事が、彼の時を止めたかのように。


「あの日のことで、誰にも語っていない真実を教えてくれる、ってことだけど、そろそろ聞いていいかな」

 彼がほほ笑んだ。手紙に書かれていた『誰にも語っていない真実』という言葉に引き寄せられるように、私は彼と会って、そして災厄の起こったあの街へ、と彼が私を誘ったのだ。


 足を踏み入れるのは、実ははじめてだ。以前に入ろうとした時は、立ち入り禁止になっていて、忍び込むこともできなかったからだ。いまはもうそれほど厳重ではない。


 十五年前、ひとつの街が崩壊した。比喩的な表現ではなく、本当にぐちゃぐちゃになってしまったのだ。誰が、何故、どのように。そういったすべてが謎に包まれていた。何故なら、救助隊が派遣された時には、死体の山ができあがっていて、生きている人間の気配さえなかったからだ。すくなくとも私はそう聞いている。


 粉々になった建物があり、倒れた木々があり、潰れた車があった。何故こんな状態になるのか、私も世の中の人間も不思議で仕方なかった。


 そんな中で、唯一の生き証人がいて、それが彼だったわけだ。


 彼が語ったのは、変容する怪物だった。そしてそれが彼の言うところの、ぐちゃぐちゃさん、だ。


『最初は大きな岩みたいな怪物だったんです。鉄塔のくらいの大きさがあって、どんどん人間を踏み潰していくんです。人間が蟻みたいな感じで。それが次に見ると、雲に乗った男のひとに変わっていて、いきなり嵐が起こって、建物が吹き飛んでいったんです。次は、赤鬼みたいな奴に変わって、でかい棒を振り回して、色んな高いものをへし折っていったんです。次は』


 中学生の彼は、テレビのインタビューでそう答えていた。彼には虚言癖があるのか、あるいは病んでしまった心が創り出した幻覚を話していたのではないか、という考えが主流だったように記憶している。私も当時コメントを寄せる必要があった際には、テレビ局から、少年の答えを否定する言説を求められた。私はそれを断り、どっちにも付かない曖昧なコメントでお茶を濁した。


 私は疑いつつも、どこかで少年の言葉を信じていたのだ。信じたい、と思ったのだ。語る少年の瞳を見て。


「そうですね、そろそろ夕暮れも近いですから。真実を話すに似合いの頃合いでしょうか」と彼が意味深なことを言う。「でもどこから話すのが適切なのか迷うところですね。まずは先生を選んだ理由を話しましょうか。実は最近、先生がむかし書いた小説を読ませてもらったんです。あれを読んで、あなた以外考えられない、と思いました。どの小説か、は言わなくても大丈夫ですよね」

「あぁ」


 私が一冊の小説を発表したのは、十年前。

『メタモルフォーゼの怪物』と題したその小説が、I県での災厄を扱っていることは、誰の目から見ても、明らかだった。変容する怪物に逃げ惑う人々の姿を描いたパニック小説で、この作品はそれなりに売れ、私の代表作と捉えるひとも多い。一方で、『あの災厄をファンタジックに捉えている』『少年の言葉に寄りかかり過ぎる内容』と強く批判されることもあった。


「あの作品を読んで、僕はこのひとしかいない、と思ったんです。このひとは僕の話に、真剣に耳を傾けてくれる、と。僕には、眠れる記憶があるんです」

「眠れる記憶?」

「はい。『奇跡の生還者』と呼ばれた十五年前、僕は記憶を失っていて、何も分からない状態でした。気付いたら病室のベッドの上にいて、自分が誰なのか、名乗ることさえできない状態でした。染み付いた日常の動作らしきものは自然とできているのに、体験の記憶が何もない。テレビのインタビューで語った名前は、偽名なんです。もちろんテレビ局のひとも知っています。だって記憶喪失のことも伝えていましたから」


「じゃあ、あの話は嘘、だったのか……」

 と私ががっかりした気持ちを伝えると、彼が首を横に振った。

「嘘、とも言い切れませんね。なんて言ったらいいのでしょう。病室のベッドで横になりながら、ずっと頭に浮かんでくるイメージがあるんです。それが変容する怪物です。ぐちゃぐちゃさん、です。色々な化け物へと変貌していくその姿に、僕はいつも怯えていました。『何か知っていることは?』とテレビ局のひとに聞かれる中で、僕はそのイメージを話していました。だけど話す中で、テレビ局のひとが色々な相槌を打ってくれて、その中で築き上げられた記憶なので、僕自身、どこまでが本当の記憶で、どこまでがテレビ局側の思惑が絡んだストーリーなのか、とても曖昧なところがあって。そもそもすべてが真実ではなかったのかも、とあのインタビューの後、不安になることもありました」


 インタビューの後、少年の言葉に対して、テレビのコメンテーター、ニュースのコメント欄、SNSなどの場で、『嘘つきだ』『でたらめ』『不謹慎な存在』という言葉が並んでいたのを覚えている。それが少年の目に入っていたのならば、余計に彼は不安になったはずだ。


「いま、その記憶は?」

「戻りました。一年ほど前のことです。ここに来た時に。ずっと避けていたんですけど、ふいに思い立って。そしたら案の定、と言いますか。いきなりすべての記憶が戻ってきたんです。あのイメージは何だったのか、なんで僕はこんなにも俯瞰的に変容する怪物について語ることができたのか」

「俯瞰的?」

「えぇ。だっておかしい、と思いませんか? 僕は、ぐちゃぐちゃさん、のことを俯瞰的にテレビの中で語っていましたけど、なんでそんなに変化していく色々な種類の怪物を自身の目に焼きつけることができたのか。実は僕自身、不思議だったんです。だから余計に不安な気持ちがあったんです」


「確かに、客観的に語っている、という印象は、当時もあったかもしれない」

 私は、彼のインタビューの時の様子を思い返しながら、そう答えた。


「姿形を変えながら、街を破壊していく、ぐちゃぐちゃさん。岩みたいな巨体、雲に乗った男、棒を持った赤鬼、それだけじゃありません、軍艦になったり、巨木になったり、色々な姿になりました。何のために姿を変えているのかは分かりません。何のために人間たちを蹂躙しているのかも分かりません。ただただひとを殺し回る殺戮兵器なのだとしたら、それは人間側の都合です。では聞きますが、人間が蟻を踏み潰した時、何故蟻を踏み潰すのか、とそこまで考えますか。いや考えるひともいるかもしれませんが、大抵のひとは考えない」


 私はもう気付いている。彼が何者なのか。それは私がかつて書いた小説と、わずかながら呼応するものだった。


「そうか、私の小説は真実にかすっていたのか」

「その通りです。僕もびっくりしました」


『メタモルフォーゼの怪物』の怪物は、殺戮を終えたあと、人間に変容し、人間社会にとけ込むようになるのだ。


「事実は小説より奇なり。私の嫌いな言葉だ。作家の想像力が敗北したような気になるから」

「仕方ありません。人間の、いやあなたの脳みそなんてその程度、と諦めてください。……話を戻しましょうか。そう、僕が最後に殺した相手が、中学生の少年でした。殺した後、僕は彼に変容したのでしょう。何故、彼に変容したのか、どうしてこんなにも長い間、人間としての動作を行い、人間と勘違いして生きていられたのか。その辺りは僕にも分かりません。人間の姿が居心地よかった。その程度の話なのかもしれません。ただ……眠れる記憶を呼び覚ましてから、どうにも落ち着かないんです。破壊衝動と言いますか。新たに目覚めてしまった僕は、もう止まれそうにないんです。だけど人間と信じ込んでいた僕の心がそうさせるのか分からないのですが、誰かに、誰かに知って欲しい、と思ってしまったんです。人間だった僕を忘れた僕が、すべてを壊し、すべてを終わらせてしまう前に」


 彼の……いや、ぐちゃぐちゃさんの言葉に、私は何も返さなかった。返すことができなかった。逃げ場もない以上、覚悟を決めるしかない。


 思ったより時間が経ってしまったみたいだ。夕暮れに赤く染まった世界と彼を見ながら、夜を待たずに永遠の闇が私を包むのだろう。


 私の無言を見て、彼が続ける。


「知って欲しかったのです。真実に手を伸ばしたあなたに。僕がいた、という事実を。たとえ、骸、になると知っていても」

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