唯一の後悔

(お題:刺青、鍵、秘密)


「不注意でした。ブレーキと誤って、アクセルを強く踏んでしまいました」


 あのときそう告げて自首していれば、状況は変わっていたのだろうか。


 定年を迎えて職を退いたとき、多くの人は充実感を得る。長期に渡る労働の対価たる退職金、家族からの労りや、使い切れないほどの自由な時間。だがしばらくすると、中には喪失感のようなものを覚える輩もいるらしい。余暇と引き換えに、永らく張り続けていたプライドやある種の虚勢を失い、共に過ごす時間が急増したことで逆に家族との溝が生まれ、身の置き場に困るというのだ。


 しかし、私はそのような者たちとは違う。私は国に対して多大な貢献をして、消えることのない功績を残し、ゆえに揺らぐことのない地位と名誉を得た。歴史に名を残すだけのことをしてきた自負もあった。


 そんな私でさえ、人生のすべてが順風満帆とはいかなかった。任務にかまけて家庭を顧みない日々が続いたとき、当時大学受験に失敗した息子にきつい言葉をぶつけたことがあった。次第にその仲は険悪になり、しまいに息子は家を出た。そして数年ぶりに会った息子は、私の期待を裏切る出で立ちに変わり果てていた。


「おまえ、なんてして、みっともない。その傷は一生ついてまわるんだぞ」


「俺が墨を入れた理由が親父にわかるかよ。親父はたしかに国民の英雄で、偉い人間なのだろうさ。だけど、いつかその傲慢さに足元をすくわれる」


 数年後、予言めいた恨み節がまさか現実となった。運転操作のミスで親子を撥ねた。即死だった。他人を身代わりにしてもみ消した。幸いにも私は力があった。


 ある日、が漏れた。SNSに目撃者らしきつぶやきを見つけた。事故の処理は終わっており目撃情報も真相に結びつくと思えない内容だったが、腹立たしく放っておくわけにはいかなかった。力を行使し、その書き込みを消してやった。すると、今度は消された書き込みを不審に思った者たちがネット上の掲示板で噂し、一部は事故の状況を徹底的に調べ上げ、もみ消したはずの証拠の一端すら見つけ出した。こちらも真相に結びつきそうな書き込みを片っ端から消していったが、消せば消すほど書き込みは増えた。藻掻くほど深みに沈む底なし沼のよう。そのうち、周りをうろつく人間が出没したので警備を雇った。周囲は静かになったが、ひとつ次元を超えた向こうでは、すでに大きな炎に包まれている気がした。


「……親父、真実を話そう。英雄に戻らなくていい。罪を償わない悪人でいることはやめてくれ。身体の刺青は消せても、デジタルタトゥーは一生消えないんだ」


 息子が諭しにやってきたとき、すでに私の名前は日本中に知れ渡っていた。世論に呼応しマスコミが動き出すと、捜査のメスが入り、事故は事件になった。


 後悔があるとすれば、あのとき、無視しておけばよかったのだ。最初に、秘密の扉を叩く音に反応したのが原因だった。その扉のは自分だけが開けられたのに。

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3分で読める物語。 でい @simpson841

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