「死者に出会える魔術書」を手に入れた、とある女性の場合

白ごじ

第1話 捨てたら移る系の魔術書だとは、彼女は最後まで気づかない

 卵が降ってきた。

 朝の通勤ラッシュの真っ最中に起こった出来事だった。

 電車内だ。電車内で、どうして卵が落ちてくるんだろう。どこから?

 よりによってなぜ私に?


 いやでも考えてほしい。

 電車内で卵が落ちてくるか?

 つまりこれは夢だ。


 ほっと息を吐いて頭に手を伸ばす。

 ほら、すっごくベッタベタのぬるんぬる……卵臭……ぐっちゃぐちゃ……


 現実だこれ。


 ついつい現実逃避をしていた間に、私の周りはそっと人が避けていた。

 満員電車なのに不思議だね。

 嘘だよ、分かるよ。

 私だって急に頭から卵被っている人いたら、逃げるもの。全力で。



「……」



 呆然としすぎてもう声も出ない。

 もしや炎上系の誰かの悪戯かと思ってぐるりと当たりを見回しても、誰もがさっと目をそらす。

 状況が状況だからか異様な静けさで、シャッター音は聞こえない。

 携帯でこっそり録画、も出来そうにないだろう。


 改めていう、満員電車なのだ。

 しかも私を避けようとするせいで、特に私の周りは人口密度がエゲツない。

 カメラのレンズ穴一つまともに通りそうにない混雑具合だ。


 そんな奇妙な無言状態を、スマホの着信音が崩す。

 私は慌ててバッグをのぞき込み、画面に表示されている名前を見て絶望した。



「係長……」



 そうだ。

 今日は得意先との重要な会議がある日だった。

 係長から直接指名を受けていた私が、その資料を作った。


 つまり、今日は絶対に遅刻できない日だった。



「もしもし……」

「ああ柏木君か、いまどこにいるんだい? 君に限ってとは思うが、会議まであと十分しかないからね。一応連絡したんだが」

「も、申し訳ありません! 実は卵が降ってきて」

「卵? ははははは、余裕だな! これなら今日も安心だ!」

「あの本当です! 意味が分からないけど、急に卵が!」



 私は涙目だった。



「頭に卵……ははぁ、コロンブスの卵と何かかけておるのかね? しかし言葉遊びにしても、ちょっと分かりづらいな。どういう意味だね?」

「いやあのそうではなくて」



 係長は冗談だと思っているらしい。

 わかる。

 気持ちは分かるし、私もそっちの人間になりたいけど、でも実際に起こってしまったのだ。

 髪から伝ってきた卵白が目に染みる。

 やはりこれは夢ではない。現実なのだ。



「おっと、やっぱりもう少し自分で考えてみよう。ちょうど良い時間つぶしになりそうだ。では柏木君、今日は君の活躍を楽しみにしているよ」



 ぶつん、と電話が切れた。



「ふええええ……」



 私は泣いた。

 小学生以来のガチ泣きだ。

 どうしよう。どうしよう。

 パニックになった頭には、もうそれしか浮かばない。


 そんな私のパニックを鎮めたのは、再び響いた着信音だ。

 しかも音の位置的に私の。

 正気に戻った私は、持っていたバッグからもう一つの着信音が鳴っていることに気づく。


 首を傾げながらスマホを取り出す。

 画面に表示されている名前を見て、私は驚愕した。



「彼氏……」



 そうだ。

 今日は一周年記念のデート日だった。

 この日のために彼はひと月ちかく情報収集したり、いくつもデートコースを考えて、うんうん唸りながら一つに絞ったりと、精一杯計画を立ててくれていた。

 つまり、今日は絶対にキャンセルできない日だった。

 唾を飲み込みながら、私は電話に出る。



「もしもし……」

「ああなぎさ、よかった。なんか事故ったとかじゃ無かったんだね。どこにいるんだ? 近くなら迎えに行くよ」



 約束の時間に遅れているのに、最初に心配をしてくれる彼の言葉に胸が痛む。



「ごめん……ごめんね……その、頭に卵が落ちてきて」

「卵? はは、何言ってるんだよ、マイスイートハニー? 可愛くじゃなくて可笑しくじゃなくて可哀想じゃなくて可愛そうじゃなくて可笑想じゃなくて可哀相じゃなくて可愛相じゃなくて可哀想かわいそうかわ相想かわ相かわ相想かわ相想かわ相想かわ相想かわ相想かわ相想かわ相想かわ相想かわ相想……」



 彼氏が急に壊れた。

 なにこれ怖い。



「あ、あのう……」

「おっと、ごめんごめん。渚の可愛いジョークで頭がやられちゃってたよ。でも心配しないで、大丈夫。渚の頭が卵まみれでも、俺は渚を愛してるからね。じゃあ、君が来るまで待ってるよ!」



 電話が切れた。



「ええええ……」



 意味が分からない。

 あと純粋に怖い。

 彼と本当に付き合っていて大丈夫……あれ、そういえば彼の名前ってそもそもなんだったっけ──


 なんて考えたところで、本日三度目の着信音。



「ああもう、なんなのよ!」



 イライラとしながら電話の画面に表示されている名前を見て、私は目を見開いた。

 死んだはずの母の名前に、思わず飛びつくように電話に出る。



「もしもし、お母さん!?」

「あら、やっと出てくれたわね。ふふ、今日は何の日か覚えてる?」



 懐かしい母の声が耳に響く。

 喉の奥がつんと熱くなるのを必死に堪える。

 急に元気よくずるずると流れ落ちそうな鼻水を必死にすすり、声を振り絞る。



「お母さん……誕生日おめでとう……」

「ありがとう。渚はいま会社にいるの? だったら話したいことはいっぱいあるけど、長話はできないわねぇ」

「え、あっ、大丈夫! なんか、急に頭に卵が降ってきて」

「卵? もう、何を言ってるの。そうやって喋りたがってくれるのは嬉しいけどね、社会人ならちゃんとしないと」


「ホントなのぉぉぉぉ! 急に頭に卵がぁぁぁぁぁ!」



 全然誰も信じてくれない。

 でも事実なのだ。

 もう上司にも彼氏にも信じて貰えなくて良いから、せめて母にだけは信じて欲しかった。

 冷静な自分が頭の片隅で幼児返り、と呟くくらいには泣きわめく私に、母は「あらあら、はいはい。そう、卵がねぇ。じゃあ、しょうがないわね」と頷いてくれる。



「渚。あんたはね、頑張り屋だけど、自分に厳しい子だから。たまには肩の力を抜きなさいね。頻繁に贅沢しろなんて言わないけど、エンストする前にね、自分にご褒美くらいはあげないと」

「うん……」

「あとね、大丈夫よ。ちゃんと分かってるから。反抗期なんてあんなものよ。お母さんだって、あの頃のあんたくらいの頃は、そりゃあもうおばあちゃんの手を焼かせたもの」



 母の言葉に、涙が滲む。

 後悔はいつだって後から悔いるものだというのは、本でも、ドラマでも、映画でも、何かで一度くらいは聞いたことはあるだろう。

 まさにそれだ。本当だ。

 よりにもよって、私が母にかけた最後の言葉は「死ねよクソババア」だ。

 反抗期全開だったころの自分の言動を、後悔しなかった日はない。



「ひっぐ……うぇ……ごべんばざい……」

「うん」

「ひどいごど、えっぐ、言って……ごべんねぇ! えぐ、だい、ぅう、えぐ、大好き、だからぁ! おが、ざ、むすめ、……よか、ってぇ!」


「知ってるわよ。大丈夫、私はあなたのお母さんなのよ?」


「おがあざーーーーーーーん! えっぐ、ひっぐ、おえっ」



 吠え過ぎてうっかり年頃の女性にあるまじき声が出た気がする。

 許して欲しい、今は人生の一大事なのだから。



「ねえ渚、あんたお母さんに誕生日プレンゼントとか、用意してる?」

「ごべんめぇぇぇぇ!」

「でしょうねぇ。だからね、ちゃんと考えたのよ。今年一年、あんたは健康に、元気にすごすこと! ついでに、気が向いた時で良いから、お父さんに電話くらいはしてあげて。どう?」

「わかったぁ」

「ありがとう。ふふ、これでちょっとは安心できたわ。じゃあ、そろそろ」



 私はまだ話し足りなかった。

 鼻をすすりながら「もう? まだ話そうよぉ」と強請るのだが、母は「駄目よ、もう時間切れ」ときっぱりと断る。

 母が言うのなら、そうなのだろう。

 そういう人だった。昔から。



「じゃあね、渚。体に気をつけて」

「うん……またね、お母さん」



 電話が切れる。

 ツー、ツー、という電子音にまた涙がこみ上げてきて、堪えきれずにまた泣いた。

 たぶん鏡を見れば顔が梅干しみたいになっているのだろうな、ここ電車なんだけどな、と頭の片隅が囁くが、でもそんなの知ったこっちゃないのよ!

 おぉん、と獣系列の泣き声を上げる私の耳に届く、電子音。



「なんなのよ、もおおおおお……」



 うんざりしながら携帯をのぞき込み、画面に表示されている名前を見て、私は恐怖した。



「卵屋……」



 そうだ。

 今日は卵屋から卵を注文していた日だった。

 そのために昨日からお金を用意していたのだ。

 そして卵屋へ絶対にこの日で、と配送日指定をしたのは私。

 つまり、今日は絶対に卵を受け取らなきゃいけない日だっ









「いや卵屋って何よ!?」



 自分のツッコミで目が覚めた。

 何度も目を瞬かせる。

 見覚えしかない天井だ。

 上半身を起こして当たりを見回す。

 間違いなく、私が借りているアパートの一室だった。


 私は無言で枕をひっくり返す。

『全力スッキリ睡眠術大全』というなんとも言えないタイトルの本が出てくる。

 最近隈がとれない私に、同僚がくれたものだっ──あれ? 貰ったっけ? でもここにあるし、多分貰ったんだろう。いつ貰ったか覚えてないけど。飲んでたからかな?

 とにかく、同僚は「整理整頓した部屋で、ぐちゃぐちゃな夢をみると、びっくりするくらいスッキリするからおすすめ」だとか言っていたのだったか。ところでこれ言ってた同僚って誰だったっけ。


 おのれ、同僚の誰か! なにがスッキリだ、夢の内容はよく覚えていないけれど、めちゃくちゃ疲れた気しかしない!

 私は本を掴んで、枕元のゴミ箱に入れようと振り上げた。

 振り上げて──



「……でも、なんかいい夢だった気がするのよね。すごく疲れたけど」



 ため息を吐いて、奇天烈本を本棚につっこむ。

 時計を見れば、起きる時間にはまだ早い。

 私は二度寝をすることにした。





 次はきっと、ぐっすり安らかに眠れることだろう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「死者に出会える魔術書」を手に入れた、とある女性の場合 白ごじ @shirogoji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ