マフラー1センチ

凪司工房

1センチの

 うふ、と笑みを漏らして網野阿弥あみのあみは赤くした鼻頭をピンクと青のニットのマフラーに埋めながら、玄関先に立っていた。玄関といっても五十センチほどしかない、狭いアパートのそれだ。ピンクのラメがあしらった黒の革靴はどこのブランドのものだったろうか。


「今日、あなたの誕生日って、知ってる?」


 合鍵を持っている彼女はトレーナー姿の太一を見て軽く小首を傾げる動作を見せたが、大半の男性はそれを愛らしいと感じるだろう。ただハーフアップのツインテールにしても大丈夫と云えるのは学生の内だけだと彼女自身も言っていた。多少の無茶が許されると思っている大学生時代を、太一はもう随分ずいぶんと昔のことのように感じる。


「お邪魔します」


 買い物袋二つを手に上がり込んだ彼女は「またゲーム?」部屋に敷かれたままの布団と片隅で大きく場を占拠しているパソコンの二十四インチのモニタに映る銃撃戦を見て、ため息をつく。それからその買い物袋をキッチンの前に置き、足元に散らばった菓子やコンビニ弁当、おにぎりの空き袋を片付ける。彼女の、太一の部屋に入った時に行うルーティーンだ。


「ねえ。前に言ってたけど、初詣。どうする? わたしはね」


 コントローラーを手にして座り込んだ太一とは対照的に、マフラーを畳んで自分のポーチの上に置いた彼女はそのままキッチンへと移動する。慣れた様子で袋の中から小麦粉やベーキングパウダー、生クリームの紙パックなんかを取り出して、調理を始めた。


「人が多いのは嫌だって言ってたけど、折角二人で迎える一周年なんだから、がんばって明治神宮とか行ってみたいなあって……駄目かな」


 ヘッドフォンをしている太一にどこまで聞こえているかという心配はないのか、モニタに次々と銃弾が飛び交う中でも構わず、阿弥は続けた。


「実はね、言ってなかったんだけどさ、ほんとはわたし、太一君が初めての男の人なんだよ? 何人か付き合ったって言ったけど、最初は相手のことがよく分からないし、オンラインでは太一君、すっごく喋るし、言葉遣いがなんとなく女性っぽくて、同性なんだと実際に会うまで思ってたくらいだから」


 金属製のボウルは彼女が購入したものだ。カラカラと甲高い音を立て、中で何かが撹拌かくはんされているようだ。


「年齢も、わたしは高校生って言ってて、太一君は大学生って言ってて、それぞれ五歳くらいサバ読み合ってたじゃない? だから、多少は用心として全部本当のことを伝えないでおくっていうのも大事だと思ってたんだ。けど、実際付き合ってみたら太一君、他の男の人みたいに恐くないし、優しいし、わたしの話にも趣味にも口出ししないし。結構理想的、なんだよね」


 そういえば以前、付き合って半年後記念ということで彼女が自家製のケーキを焼こうとして失敗していたリベンジを、今年の年末、つまり太一の誕生日にしたいと話していたことを思い出した。おそらくケーキを作ろうとしているのだろう。スマートフォンの画面をにらみながら、卵を割ったり、苺を洗って皿に置いたりしている。太一はあまり甘い物が得意じゃない。けれど“彼女の手作り”という特別感は嫌いじゃない。美味しくなかったとしても食べる義務が彼氏側にあると考えていた。


 ただこの三ヶ月ばかり仕事が忙しく、毎日二十四時を回るまでキーボードとパソコンのモニタと、そこに映る赤いバグの文字列と睨み合っていたので、わざわざ人が多い年末年始に出歩く気分にはなれない、というのが正直なところだ。だからこの時も、何とか彼女の初詣願望を却下できないかと考えながらコントローラーを握っていた。


「太一君にも理想の彼女とか、いると思うんだけど、そういう理想の一つとしてというか、夢というか、恋人と一緒に初詣に出かけるっていうのも、してみたいことの一つだったんだよね」


 確かにそのシチュエーションそのものは、太一も否定しない。けれどもう二十八だ。そういう青臭い喜びよりも人混みで長時間、それも寒い中でじっとしているという現実の方にばかり目を向けてしまう。だからいくらゲームやアニメの世界で登場人物たちが夢や理想を語っても、いまいちそれに共感できないのだ。もしこれが大人になったということなら、やはりピーターパンのように大人になることを否定した方が精神的には健全なのかも知れなかった。


 ケーキは出来上がるまでにおよそ一時間を要した。前回は二時間以上掛かっていた気がするから、大幅な進歩だ。またケーキ以外にも簡単なサラダやチキン、ローストビーフなども小さなテーブルの上に無理やり並べ、一週間前に仕事で潰れたクリスマスデートのやり直しのような雰囲気が、太一の八畳間に出来上がった。


「電気、消すね」


 部屋が暗くなる。とはいってもパソコンのモニタは煌々と光っていて、その照り返しが彼女の小さな顔を照らし出していた。彼女は気にせずハッピーバースデーを歌いながら手拍子をし、最後には用意したクラッカーを二本まとめて引いた。乾いた音が一瞬広がったが、最近のクラッカーはゴミが出ないように設計されているらしく、細い触手のような紙テープは円錐に付いたまま、だらしなく垂れ下がっていた。


「お誕生日おめでとう」


 部屋が明かりを取り戻すと、彼女はポーチの上に畳んでいたマフラーを手に取った。ピンクと青のストライプだ。そういうセンスは太一にはない。ただ彼女がそれを身に着けている分には特に問題はないと考えていた。


「プレゼントなんだけど」


 そう言った彼女が手にしていたのは自分がしてきたマフラーだった。タグは付いていない。ブランドものではないのは確かだ。


「これね、わたしが自分で編んだんだ」


 告白されるまでもなくそうだろうと太一は思ったが、その先に待っている言葉までは想像が出来なかった。


「プレゼント、なんだけど、出来れば一緒に巻いて欲しいんだ」


 一緒――とは一本を二人で、という意味だった。彼女はマフラーを手に太一の隣に体を寄せる。テーブルの上には火の付いていないロウソクが、わざわざ二十八本立っていて、意外と見た目がいかつい。

 エアコンの真下に置かれていたからか、仄かに温かい。彼女の手が一周、ニットのそれを太一の首に回した。まるで今から首を絞め殺されるのか、という想像が過ぎったのは彼女の所為せいではない。ただ太一の肉付きが良いからだ。良すぎる、と云ってもいい。身長も百八十を超えているが、それ以上に横に、いや全体的に太い。筋肉ではなく脂肪の割合が多く、彼女は太一のお腹に抱きついては「好きだ」と言う。

 その太一の首に一周を巻いたマフラーの残りを、阿弥の細く折れそうな首にも巻き付けていく。ぐっと彼女側に引っ張られ、頬と頬がぺたりとくっついてしまうが、それでもまだ彼女はマフラーの端を手に、引っ張り続けている。


「あれ」


 徐々に自分の首に巻き付いたそれがきつくなっていくのを感じながら、彼女が何度も「あれ?」「おかしいな?」とつぶやくのを聞いていると、そのうちに目元がかすんできた。


「もうちょっとなのに」


 彼女は一度太一の首から外し、今度は自分の首に巻き付けてからその残りを太一に巻こうとした。だが明らかに長さが足りない。端を指先で摘み、互いの顔と顔を並べるようにして、それでも足りないのだから相当足りないのだ。けれども彼女は「あともう一センチがんばればよかった」と口にした。どう考えても一センチぽっちじゃ二人で一緒に巻いて出歩くなんて無理なのに、たった一センチ足りないだけだったと自分に言い聞かせたのだ。


「ねえ太一君。あと一センチだけ縮んでくれない?」


 息を止めれば多少は小さくなるだろうか。それとも今から計量前のボクサーよろしく減量でもするか。

 彼女はそんなことを望んだ訳ではないのだろうが、どうしても今ここで一緒にマフラーをすることを諦めきれないらしい。「ごめんね」と断っては何度も太一の首にマフラーを巻きつける。けれどマフラーは引っ張ってもほとんど長さが変わらないし、太一の体型も痩せることはない。何度も彼女の薄い体が自分に張り付くのはそれはそれで嬉しいような気もしたが、ゲームのコントローラーも操作できないようになってきたので、いい加減に声を上げたくなってきた。


「そうだ」


 何を思いついたのだろう。彼女は立ち上がり、キッチンに向かう。

 初詣までまだ時間があるし、何なら元日に参ることはない。一週間でも一年でも先延ばしにすればマフラーもいくらだって長く編み直せるだろう。


 そもそも二人の出会いはオンラインだった。ゲームで、よく一緒の時間帯になり、チャットの文字だけの会話が互いにとって日々の生活の一部になっていった。それからどちらからともなく「会おう」ということになり、待ち合わせた駅前、互いを見て驚いた。後から分かったのはお互いにそれぞれを同性の相手だと思って話していたことだった。だから最初は「友だちとして」という枕詞が二人には必要だった。彼女の方から「正式にお付き合いをしませんか」という申し出を受けたのは去年の年末、太一の誕生日だ。そもそも年末年始をゲームをしながら一緒に過ごすというのは、これまでの太一の人生からすれば大きなイベントだったし、相手が異性ともなればそれなりに気を遣う。いつかはそういうこともあるだろうと思っていたところへの彼女の申し出に、戸惑いはそれほどなかったのは、ゲームを通じてお互いのフィーリングが分かっていたからだろう。


 そんな彼女も付き合っていく内に、友だちとしてではなく彼氏彼女という役割を求めるようになった。その為に「付き合う」という言葉で二人の関係を縛ったのだから、当然と云える流れだったのだが、当初の太一はそこまで深くは考えていなかった。だからデートも、彼女が部屋に来て一緒にゲームについて話したり、食事をしたり、といったことが多かった。雑誌やサイトを見せて「綺麗」とか「見てみたい」という言葉を出していたのはたまには外に出かけたいというサインだと分かっていたけれど、それに応えたのは最初の二、三度だけで、後は「また次に」というやる気のない先送りで彼女をいくらか失望させただろう。


 付き合っていくとそのうちに面倒に感じることが増えてくる。

 それは当時既に何人も彼女がいた大学の同期の人間から言われた言葉だ。ずっと彼女なんてものがいなかった太一にとって想像することは出来ても実際にそうなるのかどうか分からない、未知の領域を、今体験している。それでもまだ彼女である網野阿弥の見た目を気に入っていたし、あまり無理を言わないし、少し思考が独特だと感じる部分はあるけれど、自分のことを棚に上げて言うべきことではないことも分かっていたし、不満という不満はなかった。


「ねえ」


 彼女の手には包丁があった。


「少しだけだから」


 何についての話か分からない。


「あと一センチだけ、足りないの」


 ああ、マフラーのことか。でも包丁でマフラーを切って、どうにかするつもりだろうか。

 その光る切っ先は問題のマフラーではなく太一に向けられた。


「いいでしょ。たまには我がまま聞いてくれても」


 意味が分からないまま「ああ」と答えた太一の視界が赤く染まった。


    ※


 外灯が明滅する。その下を、一本のマフラーを巻いて並んで歩くひと組の男女がいた。随分とぴったり寄り添い、本当に仲睦まじい。そのマフラーは二人で巻くにはやや短いようだが、とても綺麗な赤色をしている。

 彼女は自分の顔に向けられた懐中電灯に「いいでしょう」と微笑みを返した。(了)

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