冷たい雨の日

冷たい雨の日

　今日は雨の日だった。

　そして気温も低く、帰宅したばかりの部屋は氷の世界のようだった。

　今日は寒い。ただひたすらに寒い。

　心が寒くてたまらない。

　そんな夜は、身体の中に温かいものを取り入れるべきだな。

　芯から温まれば、少しは楽になれるのかもしれない。

　この、冷え切った俺の心でさえも……。

　帰宅が遅く料理をする気にもなれないので、何かないかと冷蔵庫を開けてみた。

　すると、冷凍庫の中に一つ、グラタンの容器が眠っていた。

　いつ買ったものだろうか、俺の記憶にない。

　時が止まっているグラタンは、まるで今の自分の心の中のようだ。

　「ああ、ミナコが前に買ってきていたものだったな。何かあった時用にって、入れてくれていたっけ。俺の好物だからって……」

　――急用が出来ちゃったの。今すぐ行かなくちゃ。

　――なぁミナコ、その用事って後じゃだめなのか？

　――うん。急ぎなんだ。ごめんね。サトシ……。

　その時ふと、俺の耳に彼女の声がこだまのように聞こえてきて、視界がぐちゃぐちゃになった。

　台所が涙でよがんで見える。

　あの日がつい蘇ってきて、俺を闇の中へと引きずり込もうとする。

　そこで俺は拳をぐっと握りしめ、暗い記憶に取り込まれそうになるのを何とか堪えた。

　その途端、視界が元に戻る。

　ああ、いつもの台所だ。

　俺は気を取り直し、袋から出した容器にラップをかけて、電子レンジの中に入れた。

　冷凍庫に長い間入れすぎて容器内に霜が見えたが、五百ワットで六分温まれば、きっと大丈夫だろう。

　しばらくの間、電子レンジが稼働する音のみの静寂が俺を包み込んだ。することがないと、再び黒い記憶に取り込まれそうになる。

　――私にとって急ぎの用事なのよ。ごめんね、サトシ。用事が終わったらすぐに帰るわ。帰ったら、少し遅くなるけど一緒に夕ご飯を食べようね……。

　そして、笑顔一つ残して俺の部屋から一旦外へと出た彼女は、目的地へと向かう途中で交通事故に遭い、そのまま帰らぬ人となった。

　寒い雨の日のことだった。

　そう、丁度今日のような……。

　(ミナコ……)

　俺の中でないまぜになる想い。

　あの時、俺は何故彼女を止めなかったのだろう。

　我慢して待っていれば彼女は帰ってくるだろうと思った。

　あの時はそう信じて疑わなかったのだ。

　ああ、あの時彼女を止めていれば良かった。

　ごくわずかな時間でさえ引き止めていれば、今自分はこんな想いを抱えることなどなかったのに……。

　ピーッピーッピーッ

　電子レンジの無機質な音が部屋中を響き渡る。

　温め終了の知らせだ。

　その音のお陰で現実へと意識が浮上した。

　赤いレンジの蓋をガチャリと開けると、真っ白な湯気が自分を出迎える。

　温めたグラタンを皿に乗せ、フォークでぐちゃぐちゃに混ぜた。

　真っ白い湯気を立てながら、チーズが糸をひく。

　それをホワイトソースと一緒にぐるぐると混ぜ合わせる。

　目の前の器の中でチーズ、ホワイトソースの渦が出来上がった。

　まるで鳴門海峡だ。

　その中でマカロニが沈み込んだり、表面に浮いたりしている。

　その中からエビがひょこりと顔を出した。ブロッコリー。玉ねぎ、にんじん、ホワイトマッシュルームといった他の具材と一緒になって、渦を巻いている。

　一尾のエビがマカロニの上に一生懸命自分の身体を乗り上げようとしていた。

　まるで「助けてくれ」と言わんばかりに。

　(今の俺の心境のようだな……)

　フォークを口の中に入れたところ、炎を食べたような心地だった。

　熱くて慌てて飲み込み、コップの中の冷たい水を喉の奥へと一気に流し込んだ。

　ごほごほとむせる。

　皮が剥けたのか口の中が痛くて、思わず涙が盛り上がってきた。

　(一体何をやっているんだ俺は……)

　少し待った方が火傷などせずにすむのだが、どうしてもこればかりは熱々を食べたかった。

　ああ、俺はいつもそうだ。

　後悔はあとからやってくる。

　後悔のない時間を生きていきたいが、上手くいかない。

　味のしないグラタンを突きつつ、大きなため息を一つついた。

　人間、どんな状態でも腹は減るものだ。

　例え孤独で震えていても、腹ただしい思いでいらいらしていても、どんな時でも腹は減る。

　この世で生きている限り。

　腹を満たせば、少しは気持ちが軽くなるだろうと思うのだが、中々そうはいかないようだ。

　(ミナコ……)

　彼女は、料理が得意だった。

　何でも作ってくれた。

　どんな料理も美味しかった。

　そう、こういうグラタンでさえも……。

　(ミナコ……)

　俺一人遺して一人で先に旅立ってしまうだなんて……。

　これから先俺一人どうやって生きていけばいいというんだ……。

　思わず雪のように白いマッシュルームへとフォークを突き刺した。

　俺が座る席の向かい側が、彼女のいつも使っていた席だ。

　そこには、小さな箱が一つ置いてある。

　あの日からずっと動かさず、あえて置いたままにしているのだ。

　あの日、彼女が帰ってきたら渡そうと思っていた。

　箱の中には、二ヶ月もの間、誰にも開けられないままの婚約指輪。

　伝えることの出来なかったプロポーズの言葉は、未だに胸の中で息をひそめている。