第22話「水ノ宮」
「かつてこのあたりはね、みんな田んぼだったんだよ。今じゃ、この神社の裏手に残っている限りだけどね」
先生は僕を見つめた。知っているだろう、と語りかけてくるような瞳だ。
それからお祈りをするように、そっと目をつむった。まぶたの端に刻まれたシワが深くなっていく。
「もう1300年近くも昔の話だ。長いこと雨が降らない日々が続いてね。そのせいで河川が干上がってしまったのさ。作物はすっかり枯れ果て、人々は飢えに苦しんだ」
先生の声が頭の中に染み込んでいく。
くすんだ水彩画のように思い浮かんだのは、昔々の水ノ宮だ。
作物を悲しそうに眺める人。
空を見上げる人。
お腹がすいて倒れていく人々。
みんな、目に力がない。生きる気力がないみたいだ。
「そんなとき、天より水神様が現れて、この地に雨を降らしてくださるとともに、自らのお体を分け与えてくださった」
人々が見上げる空に浮かぶ影がある。
その姿は雲間から差し込む光を背に受けて、はっきりとしない。
しと、しと、しと。
雨が降り出した。
視点は誰かの手元に移る。その手のひらから、大粒の雫がこぼれ落ちると、荒れ果てた土地に波紋を立てるように広がっていった。
ざあ、ざあ、ざあ。
降り注いだ雨が大地を打ち鳴らす。
人々は両手をかかげ、雨を祝福した。
「干からびた河川は再び流れ出し、この地は潤いを取り戻した。人々は救われたのだ。やがて作物の豊かな成長は、交易を活発にし、商いを繁盛させ、この地の発展に繋がっていった」
先生は固く閉じたまぶたをゆっくりと開けて、頷いた。
「水神様は、水を司る神様であり、
僕は知らなかった。先生の家がずっと神社を継いできたこと。この町がかつて水不足に苦しんだこと。そして、それを救った存在のことを。
──もしも伝説が本当だとしたら……。
「その水神様って、水みたいな体をした一つ目の巨人じゃないですか?」
僕は単刀直入に尋ねた。
すると先生は一瞬目を丸くして──笑った。
「だーはははははっ!」
「へ……?」
「相変わらず空想力が豊かだねぇ」
「いや、そうじゃないんですけど……」
僕は赤くなった。
「さて、どんな姿だろう。あたしもお姿を拝みたいものだね」
そう言って先生は少し首をかしげて見せた。
──水神は雨男じゃないの……? それとも先生は姿を知らないのかな……。
「水神様は体を分け与えてくれたんですよね! それは今もあるんですか?」
テッちゃんが一歩進み出て訊いた。
「当然、この神社に
「それは、どんなものなんですか? 見た目とかは?」
──確かに。遺された体があるなら何か分かるかもしれない。
「それは言えない。口外できない決まりなんだ」
「そ、そうなんですか……」
先生にきっぱりと言われ、テッちゃんはガクッと肩を落とした。
「はい! 先生!」
今度はアオイが手を挙げる。浴衣の袖が下がり、まっすぐ伸ばした腕があらわになった。
「ここに来るまでに蛙の像を度々目にしました。どんな由来があるんですか?」
「ふむ。そうだね。諸説あるが、一つは水神様の使いであるという説」
──僕の予想通り……だけど、まだあるのか?
「もう一つは、水神様が蛙であるという説」
「水神がカエル?」
僕は、仙人のように長いヒゲを生やしたカエルが、雲の上に乗っている様子を思い浮かべた。
「それこそ空想のような話だがね。どちらにしても、人々にとって分かりやすいお姿として蛙を選んだんだろうね。雨や豊作の象徴さ」
アオイは時々頷きながら、熱心に聞いていた。
先生はそこまで話すと、「さっ」と話を切るように言った。
「お前たちが知りたがっていた伝説については、こんなところだよ」
「……あ、あの! あと一つだけ」
──スラスターのことも聞かなくっちゃ。
「なんだい」
「最近、このあたりで変なものが落ちているのを見かけませんでしたか? 何かこう、大きな機械の部品みたいな……」
「……いいや、何も。それが夏休みの研究と何か関わりがあるのかい?」
先生はじっと僕を見た。こちらの真意を探ろうとする目だ。
「あー、いや! なければ、いいんです! あはは」
慌てて僕はぶんぶんと手を振った。
「さぁ、じきに祭りも終わる。お前たちも、もうお帰り」
そう言うと、先生は声色を低くした。
「ここは聖域の入り口だ。もう二度とここに入るんじゃないよ? わかったね?」
その顔は今まで見たこともない厳しい表情だった。
返事もできず、僕の体は固まってしまった。脇の下から冷たい汗が、つーっと流れていく。
「は、はい! すいませんでした!」
テッちゃんが勢いよく頭を下げた時だった。その頭から、ボテっと落ちた何かが「痛いっ!」と言った。
──あ……。
アマガエルのように見える彼は、はっとしたように小さな両手で小さな口を塞ぐ。
「フロッディってば」
くすくすとアオイが笑った。
「か、蛙が……喋った……?」
先生が頭の上に乗せていた眼鏡をかける。
「なんと……」
傍らにいた神主さんも一歩進み出て、声の主をまじまじと見つめた。
僕はフロッディを拾い上げる。
「友だちなんです。僕らの」
呆気にとられたらしい先生と神主さんは、丸くなった目をこちらに向けた。
「色々話してくれて、ありがとうございました! さようなら!」
僕はフロッディを両手に乗せたまま駆け出した。
アオイとテッちゃんも同じようにお礼を言って後についてくる。
走りながら、アオイはけらけら笑い出した。
僕も、テッちゃんも肩の力が抜けたように笑った。
「あはははははっ!」
息が上がって、ちょっぴり涙も出た。
鳥居を抜けて屋台が並ぶ通りに出ると、僕らは走る足を緩めた。
賑やかだった参道は、夢から醒めたようにすっきりとしていた。眠る気のない蝉の合唱に交じって、どこからかウマオイがスイッチョンと鳴く声が聞こえる。
僕とアオイは、店じまいしたらしい金魚すくいのおじさんと手を振り合った。
「はぁー」
「恐かったですね、あの人。蛇に睨まれたカエルの気持ちが分かりマシタ」
ため息の続きを言われてしまった。
「それ。同じこと言おうと思ったよ」
僕は手のひらのフロッディに笑いかける。
「そうデシタか。純平さん」
くりっとした黒目がほんの少し笑ったように見えた。
「普段とちょっと違ったよな……先生。宮司だっていうのもビビったけど」
テッちゃんが軽く肩を上下させながら言う。
「うん……」
僕は頷いた。
先生は小道の先を聖域と呼んだ。きっと水守の人たちが代々守ってきた、絶対に入ってはいけない場所なのだ。
「私は水ノ宮のルーツが聞けて面白かったな」
アオイが楽しそうに言うと、テッちゃんは「おかげで、こっちはペシャンコだよ」とつっこんだ。
「ごめん、ごめん」と彼女は笑う。
「まぁ、水神について聞けたのは良かったけど」とテッちゃんは息を吐いた。
「あ〜、この目で当時を見れたらなぁ」
立ち並ぶ屋台で狭くなった夜空を見上げながら、アオイはつぶやいた。その横顔から見えるまつげが跳ねるように伸びる。
「確かに」
フロッディが僕の手のひらから、アオイの肩に飛び移る。
「あら。フロッディ、あなたが同意するなんてね」
アオイは意外そうに言う。
「私はデータ主義ですから。神話をそのまま信じるわけじゃありませんが、その起源は気になります」
「へぇ、そう思ったのね。ていうか、なんか喋り方変わってない?」
「そうデスか?」
「あ、また戻った」
アオイたちが入り口の鳥居をくぐるのを眺めながら、僕はすっきりしない気分を口にする。
「結局、雨男が手がかりになりそうなことは聞けなかったね。あくまで水神は神話の中の存在であって、雨男とは違うのかな……」
「うーん。でも、一つ気になるんだよな」
隣でテッちゃんが腕を組みながら言う。
「なにが?」
「お前も聞こえなかったか? 盗み聞きした時さ。先生は、御神体を早く安置しなきゃいけないって言ったんだ」
「ああ、そういえば……」
「まるで、元あった場所から移動したような言い方じゃないか?」
「移動って……それ……」
「ああ。水神から分け与えられたっていう体の一部。それが動き回っているとしたら……」
テッちゃんは石段を降り始めた足を止め、給水塔の丘を見上げる。
「雨男……」
僕がつぶやくと、彼は静かに頷いた。
空想少年の宿題 青草 @aokusa
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