一握の雨

常陸乃ひかる

いちあく

「吹きすさぶ 風雨ふうう所願しょがん 委ねれば 胸奥きょうおうの底 あふ水音みずおと

 しとしと、ざあざあ。

 両者のオノマトペが通用しない梅雨が、沛然はいぜんとして猛威を振るっている。もう雨に抗う術なんて残っていない。降水量は連日3mmを超え、今日にいたっては5mmに届くという。隅々まで行き渡った天恵てんけいは、良いように国民を凌辱するのである。

 あるスマートシティも例に漏れず、梅雨の本気を受け入れ、どうにか和解できないかと解決案を模索している。が、結局この問題は時間が解決するので、まだかまだかと太陽の訪れを待っているのだ。

 ちなみに梅雨入り、梅雨明けは、雨の味で判断すると聞いた。

 ――たぶん嘘。


「庭園の つる雨粒 しずく 朝昼夜あさひるよると 恵む天かな」

 スマートシティのとある高校に通うミツバは、空を見たいという理由で透明の傘を差し、見知らぬ住宅街へと足を踏み入れた。アスファルトの多いこの町だが、たまに民家で家庭菜園をしている。

 格子の向こうには年収そこそこの家が建っており、落ちた雨粒が無残にも砕けながら、泥を跳ねさせ、鉢植えにまだら模様を作っている。

 自然をダイレクトに受け入れる植物たちは笑っていた。

 そういえばミツバの部屋の窓辺で、日焼けした葉先を揺らすアボカドも、今日は水を与えていないのに笑っていた。


ふところの おもむくままに じょうひたし 雨に引かれて サボタージュだっちゃ」

 本日、二年一組に行かなかったのは雨が降っていたから。それは、あまりにも『雨』だったから。強すぎず、弱すぎず、心のパートナーとしてフィットする、学校をサボってまで全身で感じなくてはいけない雨があったからだ。

 もし学校に、ミツバの『ダーリン』でも居たら、雨よりもそちらを優先するかもしれない。が、軟弱なティーンは雨を嫌う。その時点で伴侶候補とは程遠い。ミツバにとっての趣きは、雨水をまとうくらいの男性なのだから。


「耳にむ 記憶の雨は 時を越え 果てずついえず 一生の友」

 こういう日に音楽を聴くなんて野暮だ。

 人間は自然のオーケストラを、無下にし過ぎである。気まぐれではあるが、無償で提供される贅沢なBGMが有限だと気づいていないからだ。

 あゝ、落ちる場所によって音色を変える雨粒。

 球体ではなく、肉まんの形で落ちてくる愛おしい雨粒。

 けれど、耳にイヤホンを入れていないのにBoz Scaggsボズ スキャッグスの『We're All Alone』が聴こえてくるのは、やはり十代の情緒ゆえだろう。

 雨は好きなのに、ふとすると些細な傷心が発動する。両親は生きているし、友達とは仲が良い。アボカドはしっかり育ってくれているし、愛犬はバカみたいに元気だ。けれど、意味もなく悲しさを覚える時がある。

 ――水たまりをよけて、住宅街を脱出する。

『あなたよりも辛い人が居る、という慰めは慰めではない』

 どこかで聞いたことがある、共感性が高い言葉。

 ということでミツバは、コンビニの店頭で、

『お気に入りのパンプスに泥が跳ねた!』

 などと、ヒステリックを起こしている馬鹿なOLをただただ笑うことにした。


「アハハハと 声を上げては 口を閉じ 睨むOL 雨とミツバ氏」

 そういえば、レインブーツはゴムの匂いがするので、あまり履きたがらないレディが居るようだが、そこにフェティシズムを覚える紳士も絶対に居るはずだから、ことごとくパートナーを逃している女性たちは、嗜好を変えてみるのも良いのではないだろうか? ミツバは未来の自分を励ますように、好い人がマッチングしますようにと願っておいた。


「天上の 梅雨空つゆぞら映し くすむ川 どこまでも水 海になっても」

 ミツバは、降水と河川との相性があまりにも良すぎることに気づき、ただただ川に沿って歩いていた。しばらくして、小さな広場が見えてきた。

 そういえば先月、ここで二十代後半の女性が襲われたとニュースで言っていた。精神病院を飛び出した男と、過保護な母親が、なにを血迷ったか、ベンチでうたた寝していた女性に暴行したのだ。

 幸い、命に別状はなかったようだが――それを踏まえると、広場に活気がないのは雨の影響とは無関係ということ。

 恐ろしい町だ。


「ズル休み 見えぬ太陽 川べりの ひとり悦ぶ フェチの神髄」

 芝生が植えられた広場をキョロキョロしていたミツバは、一部芝生が剥げて土がむき出しになっている場所が目に留まった。

 歩幅を小さくしながら近寄ってみると、降水の影響でかなりぬかるんでおり、泥の海が出来ていた。衝動的に腹に力を入れ、軽く泥を踏んでみる。ローファーのソールを隔てていても感じる弾力が、その量を物語る。

 そこに潜んでいるぐちゃぐちゃした感触が、ミツバの心を厚くコーティングするとともに、泥の深淵へと引きこんでいった。

 無性に、ローファーとクルーソックスを脱ぎ捨て、芝生に囲まれた泥へと飛びこみたくなった。泥が膝の上まで飛び撥ねるのを想像して、深層心理がずっとチリチリしている。

 防犯カメラだらけの町では、そういった行為も鮮明に記録されてしまうだろうが、逆に誰かの目があるほうが、快楽衝動を強くする。

 呼吸の合間。

 ふいと脳裏に蘇ったのは、課外授業の一環として田植えをした際、田んぼに裸足で入らされた小学校の記憶だった。

 あの時の田園風景と、吹きすぎてゆく初夏の匂い。腰の痛みなんて気にせず、ひたすら嫌がるふりをして、一般生徒とは異なる快哉に震えていた。

 おどろおどろしい茶色の海へと足を入れた時の、想像以上の冷たさ。底に足をついた途端、指の間をかき分け、流動し続ける柔らかい感触。

 拒否権を与えられない無駄なイニシエーションは、鮮明に記憶の中で生き続け、それどころか今こうして成長しているのだ。

 ミツバはしゃがみこみ、人差し指を立てると、恐る恐る泥へと近づけていった。触れるか触れないかで、爪の先がわずかに茶色くなった。よもや、ここでやめるわけがあるまいと、本能が叫んでいる。

 今度は右の掌を大きく開き、泥の底へと一気に突っこんでみた。そこには知っているようで、知らない世界があった。絡み合ってくる泥を、優しく握りつぶす。掌を開いては二度、三度――そっと、時に勢いよく、執拗にかき回した。

 風が吹き、溶けかけた半眼の側に雨が付着する。そうして、どれほど浸していたかもわからない右手を引き上げると、もうネイルの色さえわからなくなっていた。そんな前衛アートに、ふたたび力を加える。案の定、指の間からあふれ出した泥が、ボトボトと芝生に落ちた。

 息が荒くなり、漏れかけた声を抑えた。が、胸を突き破ろうとする鼓動は煩わしかった。この先、彼氏ができて体が触れ合った時、これを超えるだけの興奮を得られるのだろうか?


「閉じこめた 個々を認めぬ 多様の差 一握いちあくの雨 一握いちあくの泥」

 ――ミツバは、突如として理性を取り戻した。

 背徳のトリップから帰還し、痺れ始めた両足に力を入れて立ち上がると、名残惜しそうに近くの水道で手を洗った。何事もそうだが、一度覚えてしまった性癖は、死ぬまで付き合うことになるのだ。

 ミツバはまだ、それを知らない。


 昼過ぎに帰宅したミツバは、わずかに泥が跳ねた夏服を脱ぐと、私服に着替えた。興奮冷めやらぬまま、カフェインを求めて行きつけの喫茶店へ向かった。

 そこは、住宅街の民家に作られた店で、本棚が三面の壁に配置された、図書館兼カフェである。店内で談笑していたのはマスクをしたマスターと、子連れ客だった。ミツバはどちらにも丁寧に挨拶し、

「あの、エニグマのアイスをお願いします」

 この店が推しに推している『エニグマティック・ブレンド』を注文した。ここには足繁く通っているミツバだが、エニグマティックの謎は未だに解けていない。

 というか、永遠に解けないと思う。

「はい、少々お待ちくださ――あれ? ミツバさん、顔に泥が撥ねているみたいですけれど。ほら、そこです」

 ふとマスターはミツバと目を合わせ、自分の顔を指さしながら、その場所を教えてくれた。

「え? えっ……あ、いや! ちが、あの……これは! あはは……」

 マスターにとっては何気ない会話だったというのに、ミツバは不自然に赤面し、全身の発汗を覚えてしまった。

「ずっと降ってますからね」

「あ、あぁ……。あはは……ですね」

 自分しか知らない秘め事を、あくまで日常的な角度から捉えられてしまい、余計に恥ずかしくなったのだ。これでは、首筋のキスマークを見られた思春期となんら変わりないではないか。

 ――思春期に変わりはないが。

 なかなか席につけずにいたミツバは、なんでも良いから一冊読んで、気を紛らわしてしまおうと、正面の本棚へ移動した。

 ところが、そこの平置ひらおきスペースは、落ち着いた喫茶店にそぐわないほど、ぐちゃぐちゃに荒らされていたのだ。不意に後方から、「ママぁー」という甲高い声が聞こえてきて、ミツバはひとり頷いた。

 なにも怒るような事案ではない、年上がそれを直してあげれば良いのだ。ミツバはそっと本の並びを戻したあと、背表紙へ目を移した。すると横から、小さな本棚破壊怪獣が現れ、新しい本を取っては、また並びをぐちゃぐちゃにしてゆく。

 母親はミツバに謝り、子供に注意しているが、年頃の男児が言うことを聞くわけもなく――


「片づけど片づけどなお、この本棚キレイにならざり……じっと子を見る」

 こういう『ぐちゃぐちゃ』は、ミツバにとって興奮材料にならなかった。


                                  了

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