黒猫のぬいぐるみ

出井啓

黒猫のぬいぐるみ

 私の住んでいるところは大学の下宿生がたくさんの住宅地。私もその大多数の一員。家を借りるときは騒がしそうで嫌だなって思ったけど、夜は結構静かだしスーパーも近くてとても気に入った。大学から少し離れてるのがよかったのかな。

 生まれ故郷とは違って、ここは人がたくさん。けど深夜は人に会うこともまれで、静謐な空気を肌で感じて、街灯はチカチカ明滅してて、気分は上々、うきうきしてくる。

 特に過ごしやすいのは春と秋。過ごしやすくてちょっと長めの徘徊になっちゃうくらい。冬は寒いから外に出てもすぐに帰っちゃうけど、冷えた体を炬燵で丸くなって温めるのも乙なのです。

 今は夏。蝉の声から鈴虫の音色に満たされて、昼のギラギラ太陽で温まった空気が静かに残り、秋の風がひゅるりとさえずる、そんな夏の終わり。

 徘徊するなら夏が一番好き。

 昼間は泳いで進むような密度の高い空気に、張りついてくる髪と服。伸ばしている長い髪をバッサリ切っちゃおうかと思うけど、それだと夏に負けた気がするからやっぱり切らない。サンサン太陽はじりじり私を焼いて溶かして苦しめる。けど、冷房は寒い。虫がわらわら発生して刺したり這ったり隠れたり。ちょっといただけない。

 でも夜は別。決して過ごしやすくはないけれど、溢れる息吹が元気をくれる。道路に侵食してくる植物や、コンクリートの隙間から咲かせる花、どこからともなくいい香りが漂い、げろげろげろげろカエルの合唱。

 私はその中をゆったり歩く。川のそばを歩いて、田んぼの傍らで目を閉じ、公園の遊具を眺めて、高速道路の高架をくぐる。いつものコースをまったりと。

 こんな話を友達にすると、たいてい夜道は危ない、もしくは私の頭が危ないと心配されるのだ。

 夜道とは言っても朝の方が近い夜。誰にも会うことがないような時間。それに私は少林寺拳法を習わされていた上に元陸上部。逃げるなら得意。一応防犯ベルは持ってるけれど。

 私の頭を疑う人は深夜徘徊を試してみると良い。やったものにしかわからない世界がある。とまでは言えないけれど、心を癒す時間になるかもしれない。深夜徘徊じゃなくて、星降る夜のプロムナードとか言うと印象変わるかな。それはそれで痛々しいか。

 ポツンと街灯が一つ立っている小さな公園。遊具は滑り台と鉄棒とアニマル乗り物二つだけ。そしてベンチがぼんやりと街灯に照らされて、小さな影が一つ。

 私は美しいほど自然な二度見をして、そのお方と視線を合わせた。

 黒い傘を手に掛け、シルクハットをかぶり、タキシードでキメた紳士な黒猫のぬいぐるみさん。

 私はそのきっちりとした服装とラブリーなフォルムに惹きつけられた。

 きっと誰かが置き忘れたのだろう。

 警察に届けるべきかと思いつつ、ゆっくり近づく。

「猫さん。隣いいですか?」

「どうぞ」

 その返事に私は驚きのあまり叫ぶところだった。けれど、驚かせて逃げてしまうかと思って声を抑え、ぬいぐるみさんなら大丈夫かと考えたが、今更声を出すのもおかしいと感じて、つまり訳が分からなくなっていた。

「どうかしたかな」

 私はどうかしていたが、反射的に首を振る。

 その時私は、怪我をした人を見つけたとき『大丈夫ですか?』と声をかけるのは駄目だという話を思い出した。大丈夫かと聞かれたら、たいてい大丈夫だと答えてしまうかららしい。

 本当かどうかは知らないけれど、私は絶対に『大丈夫です』と答える気がした。

「ではお座りなさい。なに、遠慮する事はない。このベンチは公共のもので、かつまだまだ空いている。さあどうぞ」

 ぬいぐるみ猫さんは肉球を見せながら隣を勧める。

 私の頭の中は崩れたジェンガのようにぐちゃぐちゃだけど、平静を装った。装うのは得意な方だ。

「ではお言葉に甘えて」

 ぬいぐるみ猫さんとの距離に迷いつつ、猫一匹分空けて座った。

 それで、ゆったりとした時間が流れた。川のせせらぎ、虫の声、夏の香りに秋の風が混じり、私を撫でて通り過ぎる。

 ぬいぐるみ猫さんはどうしてここにいるのか。なぜ話せるのか。紳士なのは。傘はどうつかうのか。

 気になることはたくさんで、こんがらがった頭は、もしかしたらぬいぐるみ猫さんが話せるのは正常なことではないかという判断を下し、理性があらがっていた。

 当のぬいぐるみ猫さんはヒゲをむにゃむにゃと動かしていた。そして、つぶらな瞳がゆっくりこちらを向く。

「時にお嬢さん。我輩は猫でありぬいぐるみだが、猫という名ではない。セバスチャン、である」

「セバスチャン、さん?」

「その通り。昔の飼い主に頂いた名である。セバスと呼ばれていた」

 セバスさんは尻尾をクエスチョンマークのようにくるりと丸ませた。私は「はぁ」と返事をして、ふにふにと動く尻尾と耳を眺める。

「お嬢さんの名は何という」

「私の名前?」

「その通り。お嬢さんはお嬢さんであるがお嬢さんという名ではなかろう」

 確かにそうだけれど、お嬢さんという呼ばれ方に違和感がないせいか、名前で呼ばれる方が不思議な感じがした。

「日比野茜って言います。茜と呼ばれてます」

「ほう。それでは茜さん、でよろしいか」

「はい。じゃあセバスさんでいいですか?」

「よかろう」

 セバスさんは満足げに頷き、尻尾をふにっふにっと左右に揺らした。

「ところで、茜さん。なぜ貴女は夜深くにこの様なベンチに座っているのか」

「セバスさんがいたからですよ。セバスさんはどうしてここに?」

「私は夜行性だ。不思議ではあるまい」

 私は「なるほど」と呟いたが、根本的には何もわかってない。

 夜行性というのは猫なのかぬいぐるみなのかと考えて、その考えもおかしいなと気付いた。

「質問が悪かった。貴女はなぜ夜深くに外へ出歩いているのか」

 その質問には困った。だって理由なんてないんだから。

 けれど、恐る恐る覗き込んだ心の片隅には理由の欠片が突き刺さっていた。

「きっと、孤独だから、かな?」

 孤独は死に至る病と聞いたことがあるけれど、今なら少しわかる。わかってしまう。

 死という何かがとても優しく語りかけてきて、私のことをいざなおうとするのだ。

「ほう、孤独か。我輩にもそういう時があった」

 私は「えっ?」と驚いた。その愛らしいフォルムから『孤独』の文字は見えなかったから。

「長く生きるとそういう経験もするものだ」

「そう、なんですね」

 セバスさんのつぶらな瞳が遠くを見ている。

 ここではない、私が見えないどこか。

「我輩の飼い主は何度も変わっているのだ。セバスチャンという名前を貰ったのは一人目、このシルクハットと服は三人目、猫の一人称は我輩だと教わったのは六人目、この傘は七人目、今は十人目だが、そろそろ変わるだろう」

 その淡々とした言葉に悲しみはなかった。

 けれど私はそれを想像して、肺に涙が溜まるかのような湿り気を含む息苦しさで、呼吸が浅くなる。

「それって寂しくないですか?」

 セバスさんのシルクハットが少し揺れる。

「ふむ。寂しくないと言えば嘘になる。しかし、人の環境は変わるもの。徐々に離れ、いつか別れが訪れる。そうであろうと我輩と飼い主の繋がりは変わらない」

「本当に変わらないのかな?」

 私の口からこぼれ落ちた言葉は、酷い言葉のような気がして、拾い集めて隠したいと慌てたけれど、セバスさんは気にしていない様子だった。

「さて、人ではない我輩にはわからないが、そう信じている」

 セバスさんが「しかし」と呟く。その表情はなにも変わらないけれど、私には瞳が揺れたような気がした。

「我輩がこうして散歩をするのは、それを確かめたいと願っているからかもしれん」

 私は口を開いたけれど、なぜか昔のことも今のことも走馬灯のように流れて、あぁこんなこともあったななんて思っている内に、声は音にならなくて、一度離れた唇は再び合わさった。

「さて、茜さん。楽しいひとときはすぐに過ぎるものだな。我輩はそろそろ帰らねばならない。今宵は貴女に会えてよかった」

「私も、セバスさんに会えてよかったです」

「では、また会おう」

 セバスさんはベンチから飛び降りて、短い足でトコトコ歩き出した。

 その姿は可愛らしくもあり、紳士的でもある。私はそれをぼんやりと見送った。

 ポツンと一人残ると、街灯に照らされたベンチの周囲は真っ暗闇で、急に闇が押し寄せてくるような気がして、別の出口から家に向かって走った。

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