マッシュポテト
月見 夕
貴方はマッシュポテトの作り方をご存じだろうか
キッチンに響き渡る水の音にはっとして、私は流れ出る房水に両手を差し入れた。汚れた手をハンドソープで念入りに洗い、何度目か分からない溜息を吐く。憂鬱な気分とは裏腹に、肺の中は清潔な匂いで満たされた。
晩ご飯を作るのが面倒臭い。
毎日毎晩思う。なぜ日本人は毎食違う物を食べなければ気が済まないのだろう。百歩譲っていつも違う物を食べなければならないにしても、それを作る方は本当に大変だ。同じレシピは二週間は空けないと夫に「またこれか」という顔をされるし、栄養バランスが偏ってもいけないし、かといって健康的なメニューが続けば彼は「肉ないの?」と不機嫌になる。コンビニ飯でも食ってろ。
そうは言っても食費にそこまでかける訳にもいかないし、それに夕食は自宅で妻の手作りの食事を食べることが世界の常識だと信じている夫だ。今日も何の臆面もなく帰って来るや否や「晩飯まだ? 適当でいいよ。マッシュポテトとか」などと
飯を作らない人間は知らないのだ。マッシュポテトがあらゆるレシピの中でもどれだけ面倒臭い料理なのかを。
そこまで考えたところで火にかけていた鍋を覗く。皮を剝かれ丁寧に芽を取られた輪切りのジャガイモが、たっぷりの熱湯の中で踊っていた。そろそろか。
シンクにザルを用意して湯切りする。先程流れていった石鹸の残りをさらって、白く濁った湯は排水溝に吸い込まれていった。部屋の籠った臭いを押しやって、蒸したでんぷんの匂いがそこらを占めた。ザルの中身をボウルに移すと、白いイモがほかほかと湯気を上げる。
黙ってそれに牛乳、バター、塩コショウを目分量で入れ、銀色のマッシャーを手にした。ボウルの中で形を保ったイモが、心なしか震えた気がした。
利き手に抱えたマッシャーの重みをそのままジャガイモに叩きつける。蒸かしイモはいとも簡単に潰れて調味料に混ざった。ぐっちゃぐっちゃぐちゃぐちゃと音を立てながら、潰す、潰す、潰す。
夫は少し塊が残っている方が好みだと常々言っていたから、そのようにする。ボウルを回しながら荒めに潰したイモは、上手く調味料と馴染んだようだった。
そこへあらかじめ刻んでおいたパセリとスライスして水切りしたきゅうり、カリカリに焼いたベーコンを混ぜ合わせる。イモを茹でて潰すだけがマッシュポテトではないのだ。イモの他にも面倒な工程は存在する。
私はまた溜息を吐き、それらをスプーンで混ぜ合わせる。
数十秒後。
「……できた」
いつもの、夫の求める通りのマッシュポテトができた。ああ今日も面倒臭かった。
手早くそれを小鉢に移し、千切ったレタスとミニトマトを添え、食卓に置いた。
「ほら、お望みのマッシュポテトよ。召し上がれ」
机に突っ伏した夫の、その濁った瞳を見つめてそう言い放った。
割れた頭から赤黒い血が広がり、テーブルクロスを汚している。あーあ、この布買ったばかりだったのに。まあもうどうでも良いか。
足元に転がる、曲がったゴルフクラブに目を落とす。怒りに任せて振るったので、折ってしまったようだった。先端には髪の毛だか脳漿だか良く分からない、ぐちゃぐちゃとした何かが血と一緒にこびり付いていた。もうゴルフには使えなさそうだ。
最期に見た夫の震える瞳を思い出した。イモを目の前にマッシャーを握る憂鬱な気持ち、貴方には分からなかったでしょうね。
燃えないゴミの日っていつだっけ。
ぼんやりと窓の外に目を遣ると、サイレンの明かりが真っ直ぐに近付いてきていた。
マッシュポテト 月見 夕 @tsukimi0518
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます