黒い海
花望いふ
「覗いてみたい」
と彼は言いました。あたしはあまり迷うことなく、炊飯器の蓋を開けるような気楽さで、頭蓋をパカッと開けました。普段、誰かに見せる場所ではないので気恥しさがありました。初めてスカートを穿いたときのような。
「では、ここに頭を突っ込んでください。よく見えるはずだから」
彼は少し戸惑いながら、あたしの肩に手を置いてグッと頭を近付けました。
秘密の場所に侵入されて、あたしは言いようのない興奮を覚えました。彼がどんどんあたしの中に入ってくる。見られている。見られている。じっくりと、見られている。でもあたし、彼になら見せてもいいと思ったのだもの。
理解しなくていい。受け入れなくていい。共感しなくてもいい。
「真っ黒な海だ。夜より深い闇がある」
「ええ。海が青いだなんて幻想です」
「もっと、散乱しているかと思った」
「ぐちゃぐちゃなお部屋を想像してた?」
「まぁね」
「ときどき潜って、あたしを探すんです」
「君を探す?」
「その海には、たくさんのあたしが沈んでいます」
「僕も潜りたいな。たくさんの君に会いたい」
「それは、ダメです」
「どうして?」
「どうしても」
「君を知りたい」
彼にしては陳腐な口説き文句だと思いました。でも、陳腐だ、と思いながらも胸は高鳴っていました。だからといって、彼を海の中に招待するわけにも行きません。あれを見たら彼は正気を無くすでしょう。彼には、あたしが少しずつあたしを失っていくその横で、正しく見つめていてほしい。だから。
「知らなくていいこともあります」
「それでも、知りたいこともある。だって、ここはまだ君ではないだろう」
あぁ、やはり。あたしはこの人を愛している、と思いました。あたしはこの人と共に、堕ちていくのかもしれない。
「戻れなくなるかもしれませんよ」
「構わないよ」
あたしたちは手を繋いで黒い海へと入りました。冷たくも暖かくもない海の中は、美しい魚などいません。
そこには、どろどろになった服や、八歳のあたしの死体や、捨てることの出来ない写真や、胸に包丁を刺した十五歳のあたしの死体や、破れた賞状や、口を裂いた二十五歳のあたしの死体や、おばあちゃんのオムライスや、錠剤に埋まった二十八歳のあたしの死体や、塗りつぶしたプリクラや……。そんなものたちが漂っているのです。
底に辿り着いたとき、彼はふっと小さく笑いました。
「やはり、僕と同じだ」
了
黒い海 花望いふ @hanamochi_ifu
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