雪山のケーターハム

那月玄(natuki sizuka)

第1話 俺の夢は……

 シフトをセカンド迄落とし、左に車体を一瞬振ると同時に、すかさず右にステアリングを回す。凍ったアスファルトでさえも今は捻じ伏せてみせる。


 慣性に任せアクセルを一気に吹かすと、タコメーターは瞬間レッドを叩き出し、その許容を越えたピストンの雄叫びは室内に響き渡る。


 左にカウンターを当てて後輪を流すと、グリップを取り戻したタイヤが車体をカーブの出口へと誘う。何度も繰り返してきた唯一自慢できる技術。然しこの技術だけでは家庭を守る事は出来なかった。

 

 幾度となく彼女を苦しめて来たレーサーと言う職業。勝てなければスポンサー契約さえされずにプロとは口ばかりで、参戦する費用、整備する費用、パーツ代金等、全て自己で負担するほかない。


 幸せにしなければならない人を借金まみれにしてしまった。


 チューニングを施されたBDRコスワースは暴力的な加速度を見せ凍り付いたコーナーを過去を払拭するように次々と越えて行く。


 彼女の行き先は分からなかった。確信に変わる物すら部屋には残されてはいなかった。ただ諦めたくはなかった。この想いを、紡ぎ合い、笑い合えてたあの笑顔を取り戻すために―――


―――急げ、まだ間に合う、取り戻すんだ……


 車体を横にコーナーを駆けるケーターハムの正面に、不意に軽トラックが現れた。万事休すと寸前でかわすと車体は衝撃と倶にガードレールを越えた。


≪あなたの夢は、私のたった一つの夢なの≫


(じゃあ俺の夢は…… 俺の夢は…… )


「おい! あんた⁉ しっかりしろ大丈夫か? おい」


 頭から出血しているらしいがどうやら掠り傷のようだ。慌てて救急車を呼ぼうとする男を引き留め懇願する。


「お願いだ、俺をこの先の岬まで乗っけて行ってくれないか? どうしても行かなきゃならないんだ、どうしても…… どうしても…… 」






 冬の岬には初夏の思い出が詰まっていた。彼女に恋をし、そして彼女と歩む決心をした場所。ゆっくりと雪を踏み固めて行くと、美しい髪が悲しみに憂いでいた。


涼子りょうこ…… 」


 振り返った長い髪が涙に光る。


「あなた⁉ どうして⁉ 」


「此処しかなかったんだ。幾ら思い出を探しても、俺に大切な思い出は此処しかなかった。だから此処に迎えに来た」


「だってあなたレースはどうするの? 」


「引退レースは今やって来た。途中の最終コーナーで事故ったけどな」


 二人の間に失われた遠き日の初夏の思い出が浮かび上がる。


「レーサーとしての俺は最終コーナーで死んだ。今お前の前にいるのは、お前をただ愛してる男だけだ。迎えに来たよ。何も残っていない俺だけど、もう一度俺と始めてくれないか? 今、気付いたんだ、俺の夢はお前を幸せにする事だって」





部屋にはぐちゃぐちゃに丸められた離婚届だけが残されていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雪山のケーターハム 那月玄(natuki sizuka) @hidesima8888

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ