YES or NO (KAC20232ぬいぐるみ)

ninjin

第1話

「ただいまぁ」

 週末金曜日の午後八時、いつもは言わない「ただいま」の声を掛けながら、俺は玄関の扉を開けた。

「お帰りぃ、ごめんなさぁい、今ちょっと手が離せないのぉ。お風呂ぉ? 食事ぃ?」

 廊下左の恐らくはキッチンから美紗子さんの声がする。

「ああ、構わないよ。先に風呂入って来るわ」

「はーい」

 靴を脱いだ俺は、上着と鞄を片付ける為に自分の書斎兼寝室へ向かう。

 キッチンの前を通るとき、何だかいつもに増して料理の良い匂いがする。

 いや、いつだって俺の彼女は料理上手で、週末はキッチンから良い匂いがするし、実際に凄く美味しいんだよ、彼女の料理は。

 しかし今日はいつものそれに輪を掛けて、その匂いは殊更に食欲中枢を刺激して、脳内が勝手に血沸き肉躍り、狂喜乱舞し始めているのだ。

 ただし、刺激に極端に弱い俺の脳幹を、非常に貧弱な前頭葉が必死になって『人として正しい行動』を促すべくシナプスに電気信号を送ろうとしてはいる筈なのだが、如何せんその電流は微弱過ぎてお話にならなそうだ。


 何となく、予感がする。


 俺は恐る恐る寝室のドアノブを押し開き、そして目にしたベッドの上には・・・

 掛け布団から首だけ出してぼんやりしている『たれぱんだ』のぬいぐるみ・・・


 やっぱり、そうだよねぇ・・・

 週末だしぃ、明日休みだしぃ、美紗子さん、何だかいつもより機嫌よかったしぃ、先週は大阪出張で俺居なかったから、だから久々・・・だしぃ・・・


 いや、俺だって嫌じゃないんだよ、もちろん・・・

 でもさぁ、この関係がもう三年も続いててさぁ・・・、俺も男としてさぁ・・・


 なのに美紗子さんときたら、俺がそのことについて真剣に話そうとすると必ず、

『今のこの関係って、凄く良いと思わない? いいのよ私のことは気にしなくって、あなたに若くて素敵な人が見つかったら、私みたいなおばさんなんかほったらかして大丈夫。だから、ね、そんな話はしないで』

 そう言って笑うのだ。

 俺が、

『でも、俺だって男としてさ、美紗子さんのことを、ちゃんと・・・』

 言い掛けたところで必ず口を塞がれ、

『ダメ、それ以上言わないって約束でしょ。嬉しいのよ、そう言って貰うと、私だって。でもね、そういうことを言うべき人に、きっと出会えるから』

 そうたしなめられてしまうのだ。

『それに私だって、そのうち、素敵なおじさまと出会って、あなたのとこから居なくなるかも知れないし』

『いや、そういう話じゃなくてさ・・・』

『ううん、いいの。そういうことで、もうこの話はお終い。今が楽しければいいじゃない、ね、だからもうお終い』


 そんなこんなでもう三年。

 俺は来年には26歳になるし、美紗子さんは確か俺と干支が同じだから・・・


 やっぱりダメだ、こんな関係は。


 俺は俺のデスクの椅子に腰掛ける『リラックマ』のぬいぐるみを掴み上げ、敢てベッドの『たれぱんだ』に背を向けるようにして寝かした。

 いつもならば『たれぱんだ』と『リラックマ』を如何にも仲が良さそうにベッドに寝かしつけるのが『喜んで👌』(いつごろから始めたのか忘れたが、yes no枕ならぬ、yes noぬいぐるみなのだっっ。しかも今まで一度だって寝かさなかったり可笑しな格好にねかせたことはない)のサインなのだけれど、今日はどうしてもそういう風に寝かせる気にはならない。というより、このちょっと拗ねた感じの『リラックマ』の配置は、俺がもう一度ちゃんと話をしたいという、確固たる意思表示なのだ。


 何度目のチャレンジだろう? 多分5回は敢無く返り討ちに遭っている。


 俺は脱いだ上着をハンガーに掛け、鞄を椅子の足元に置くと、一度深呼吸をしてからバスルームに向かった。


 湯船に浸かりながら考える。

 今頃寝室のぬいぐるみを確認してるだろうか、美紗子さん。


 風呂から上がっても考えた。

 もう寝室のぬいぐるみ、確認しただろうか、美紗子さん。


 美紗子さんがやって来る週末だけに着るちょっとオシャレな部屋着に着替えて、キッチンのドアの前で再度深呼吸をして、もう一度考えてみた。

 ぬいぐるみを見て、変な勘違いして不機嫌になってたりしないかな、美紗子さん。


 ええいっ、ままよ。


 俺は気持ちでは勢いよく、けれど態度は至って平静を装って、キッチンの扉を開けたのだった。


「あら、丁度良かったわ。計ったようにピッタリ。ほんの今グラタンのレンジがチーンって」


 そこには今日は何だか一段と素敵な笑顔とエプロン姿の美紗子さん。


「あ、ほんと? じゃあ俺、グラス用意するね。美紗子さんはビール? それとも最初からワイン?」

「あなたに合わせる」

「じゃあ、先ずは二人でビール1本飲んでから、後はワインにしよっか」

「ええ、それでいいわよ」


 もう俺は頬のニヤけが止まらない。

 本当にこの人は俺よりひと回りも年上なのだろうか。

 見た目も仕草も、声だってスタイルだって、それに今日のエプロン姿に至っては、全てが俺のストライクゾーンど真ん中にドンピシャだ。

 それから夕飯の後は・・・恐らく、寝室での・・・✖✖✖・・・


 いや、ちょっと待て。

 前頭葉が流した微弱な電流に気付き、俺の思考は立ち止まる。


 ひょっとして、美紗子さん、ずっと料理に夢中になって、まだベッドの上のぬいぐるみのこと確認してない?


 俺は冷蔵庫からビールを取り出そうとした手を止めて、美紗子さんの様子を確かめようと振り返った。

 人のことを探ろうなんて、慣れないことはするもんじゃない。

 ぱちんと目が合い、俺の心臓がドキンと脈打つ。


「どうかした?」

「あ、いや、どうもしないよ。バドワイザーとスーパードライ、どっちが良い?」

「どっちでも、あなたの飲みたい方でいいわ」

 そう笑顔で応える美紗子さん。

「そ、そっか、じゃあ今日はバドワイザーで」

 仕掛けた俺の方が何故だかドギマギしているじゃないか。


 先ほどから全く以ておかしな動揺も感情の起伏も見せない美紗子さんは、恐らくまだ寝室のぬいぐるみを確認していない、俺はそう確信した。

 そして少し後悔する。


 美味しそうな料理が並ぶ食卓、そしてビールとワイン、それからこんなに笑顔の素敵な俺の大好きな美紗子さんが居て、俺は何が不満なのだ?

 彼女が嫌だっていう話はしなけりゃいいじゃないか。

 俺はちゃんと結婚を前提に、って、そうはっきりと俺の意思表示をしたくって、それを分かって欲しくって、でも

 彼女が『今が楽しければ』って言うのだから、俺もそう思えばいいだけの話じゃないか。

 俺が勝手に『人として正しい行動』と思っているのも、単なる俺の独りよがりの勘違いかもしれないし。

 それにベッドの上で『たれぱんだ』にそっぽを向いた『リラックマ』なんてものを見た美紗子さんが、万が一にも俺の気持ちとまるで違う誤解でもしてしまったら大変だ。


 あとで、美紗子さんより先にこっそり寝室に行って、いつも通りの『たれぱんだ』と『リラックマ』の仲良しな様子にしておこう。



 ああ、料理も美味しかったし、ビールもワインも旨かった。

 会話も弾んでクスクスケラケラ笑ったし、何より美紗子さん、かあいいなぁ、きれいだなぁ、いいよなぁ・・・


「なによぉ、そんなジッと見ないでよぉ。お化粧ほとんどしてないんだから、こんな明るいところだと、シミとかシワとか・・・もぅ、言わせないでよ」


 あれ? 美紗子さん、ちょっと酔ったか?


「そんなことないよ、大丈夫だよ。それにさ、風呂上りだから俺、今コンタクト付けてないし」

「やだぁ、もぉ」

「冗談だよ」

「え、なに? コンタクト付けてるの?」

「いや、付けてないよ」

「もぉ、ほんと、やだぁ」


 いい、かあいい、美紗子さん、大好きですっっ。


「じゃあ、そろそろ食事はお開きにして、片付けしたら、私もお風呂、入って来るね」

「うん、分かった。いや、でも、俺が片付けやっておくよ。美紗子さんはお風呂、入って来てよ」

「いいの?」

「いいよ、良いに決まってる」

「分かった。じゃあ、お片付け宜しくね。お風呂、行くね」

「うん、お風呂上がったらさ、少し残ったワインでワインクーラー作るからさ、あと一杯だけ飲もうよ」

「いいわねぇ、そうしましょ」


 美紗子さんはリビングのソファーの上に置かれたレザーのトートバッグを抱えると、「じゃあ、入って来るね」、そう言ってキッチンから出て行こうとした。

 扉を開ける美紗子さんに、俺は間髪入れずに声を掛ける。


「バスタオルはさ、いつもの洗面台の横の棚に入ってるヤツ使ってよ」

「うん、分かった」


 これで恐らくはそのままバスルームに向かうであろうし、美紗子さんが寝室を覗いてベッドのぬいぐるみを確認するのは、風呂から上がってからのことになるだろう。

 美紗子さんがお風呂に入っている間に、俺は『リラックマ』の配置を変えておけばいい。


 10分後、シンクで皿とグラスを洗い終わった俺は、特に何も考えるではなく寝室の扉を開けた。


 ん? ん? んんん?


 俺がベッドに見たものは、いつもの仲良しこよしスタイルの『たれぱんだ』さんと『リラックマ』さん。


 あれ? 俺、酔っ払ってる? 俺、食事の最中に寝室来たか?


 ・・・・。

 いや、食事中、俺、一度も席を立たなかった、よな。


 食事中のことを思い出しながら、もう一度ベッドを見る。


 やっぱり仲良さそうな二体のぬいぐるみ。そして何度思い返してみても、やっぱり俺はあの後ここへは来ていない。


 どういうこと?


 頭の中が混乱して来た。同時に胸の辺りもモヤモヤして来る。

 俺は三度目の、やっぱり仲良く天井を見詰める二体のぬいぐるみを確認してから、首をひねりながらキッチンに戻った。

 バスルームからシャワーの流れる音が聴こえる。


 キッチンに戻った俺は、取り敢えずコップ一杯の水を飲んだ。


 俺でなければ美紗子さんが直したってことだよね。

 全く気にも留めず、ちゃんといつも通りにしたってことか?

 いや、あんなにあからさまにそっぽを向いた様子にしておかれた『リラックマ』を、何も考えずに向きを変えた? しかもあんなに丁寧に?

 有り得るか、そんなこと。

 ・・・・

 有り得ないだろう。

 気付かないフリ? だとしたら、美紗子さんはどんな気分?

 ・・・・

 ひょっとして、美紗子さんは、やっぱり俺のこと、割り切った関係ってことなのか?

 ・・・・

 そんなぁ・・・。

 ・・・・

 ダメだ、考えたって仕方がない。

 今日、これからが、正念場のような気がする。

    ◇


 美紗子さんに出会ったのは、俺がまだ大学生だった頃、アルバイト先の学習塾でのことだった。

 当時その塾で中学国語の専任講師をやっていた美紗子さんに、彼女の助手として配属された俺は、彼女を一目見た瞬間、野球で例えると、一点ビハインドの九回裏、ツーアウト、ランナー二塁三塁、打席の俺はノーボール・ツーストライクの追い込まれた状況で、ピッチャーの投じた三球目、良い球過ぎてバットを振ることも出来ないくらいのストレートど真ん中どストライクの見逃し三振みたいな感覚に襲われた。

 いや、表現としては見逃しも三振も良かぁないのは分かっているのだけれど、感覚的には本当にそんな感じだったのだ。

 どうしてここで、そんな球、来るかなぁ、なのだ。

 そしてと言うべきか、しかーしと言うべきか、当時まだ十八歳だった俺は、とても綺麗で俺の好みにドンピシャで、まさにどストライクの彼女のことを、ただぼーっと見詰めるだけだったのだけれど・・・。

『柳原くん、ぼーっとしない』

 まるで俺も生徒の一人のように、笑顔の美紗子先生に注意されると、塾の生徒たちは俺を見て一斉に笑い出すのだが、俺は何だかそれが凄く心地好かった。

 週三回の契約で始めたアルバイトだったのだが、一月後には塾長に無理を言って(生活費が苦しいと、泣き言の嘘を吐いて)、週に5回の勤務に増やしてもらい、楽しいアルバイト生活を謳歌する筈だったのだが・・・。

 けれどそんな幸せな時間も束の間、俺がアルバイトを始めて半年後、美紗子先生はその塾を辞めてしまった。

 その当時は退職理由は分からなかったけれど、後で(美紗子さんと俺が付き合い始めてから)本人から聞いた話だと、どうやら同僚の塾の講師(妻子持ち)との不倫がバレて、職場に居られなくなったらしい。

 彼女はそのことを俺に正直に話してくれはしたが、当たり前だが詳しくは話さないし、もちろん俺も根掘り葉掘り訊くこともなければ、寧ろ詳しくなんて知りたくもなかった。

 美紗子先生が塾を去った半年後、塾でのアルバイトがすっかり詰まらなくなって塾を辞めてしまった俺は、もう一度美紗子先生に会いたい、ではなくて、美紗子先生のような人に再び巡り会いたい、付き合うんなら、結婚するなら、美紗子先生みたいな人が良い、などと思いながらも、全くタイプの違う、大学の同級生二人と交際し、二人目も大学卒業と同時にお別れすることとなった。

 大学卒業後、あまり大きいとはいえない都内にある教育教材出版の会社に就職した俺は、営業担当として、都内の大小の学習塾を回っていた。

 心の何処かで、美紗子先生に再び会えるのではないか、そんな淡い期待を抱いていたような気がするし、実際それが仕事に対するモチベーションだったのかも知れない。

 念ずれば叶うなのか、ただの偶然なのか、それとも何かの思し召しなのか・・・、就職してから一年と少し経った夏前に、俺は美紗子さんと再会することになった。

 しかも、全く予想だにしなかった場所と状況で。

    ◇



 銀座の、といっても然程に高級といったこともない、とあるクラブで、俺は得意先の塾長を接待するために部長に同行していた。

 接待といっても俺のやることといえば、塾長におべっかを使ってヨイショをする部長に倣って相槌を打ったり、本当は詰まらない塾長の親父ギャグに手を叩いて笑ったりと、簡単といえば簡単、それでも心は擦り切れる何ともバカバカしい時間ではあるのだが、部長は言うのだ。

『いいか、柳原、お客様は神様じゃないんだぞ。お客様は王様だ。王様っていうのは我儘なんだ。その我儘を上手に聞くのが、営業マンの仕事なんだ』と。

 分かるような、分からないような、しかし部長のことは嫌いではない。

 兎に角俺は仕事は仕事と割り切って、そしてまた翌日からの得意先回りでいつかは美紗子先生に再会できるんじゃないかとの砂粒くらい小さな期待を胸に、このくだらない時間をやり過そうと決めていた。

 そこそこにアルコールが入りすっかり上機嫌の塾長と、更にヨイショを続ける部長を尻目に、接待する側として酔う訳にはいかない俺は、ウイスキーに見せかけたウーロン茶を口に含み、早くこの席が終わらないかと作り笑いを浮かべながらイライラし始めていた。

「おい、ええっと、うちの担当のええっと・・・」

「はい、柳原です。何でしょう、塾長」

「お、そうそう、柳原くん、飲んでるかね?」

「ええ、随分と頂いております」

「おお、そうかそうか。君はお酒強いんだねぇ。顔色一つ変わってない」

「いえ、まぁ」

 ウーロン茶しか飲んでいないのだ、当たり前だ。

「それにしても、ここのホステスさん達は飲ませ上手だねぇ。ワシはもうすっかり酔っぱらっちゃったよ。飲み過ぎたのは~♪」

 塾長は歌いだしながら隣にいたホステスの肩を抱き、もう一方の手で彼女の胸を触ろうとした。

 おいおい、やめてくれよ。

 ここはキャバクラじゃないんだよ。

 俺がやんわりと塾長を諫めようとしたその前に、肩を抱かれたそのホステスがスッと立ち上がり、怒るでもなく取り乱すでもなく、とても落ち着いた優しく柔らかい響きのある声で「こちらのお客様、お帰りになられます」、ホールに立つボーイにそう告げたのだった。

 俺はハッとした。

 今の今までこの薄暗い店内ボックス席で気付かなかったが、その声、その立ち姿、そして起ち上がって丁度照明が照らすその横顔、


 美紗子先生・・・


 息を飲んだまま彼女を見上げる俺に、彼女は声には出さずに口パクで微笑み掛けた。


 ヤナギハラクン、ボーットシナイ

    ◇



『俺のこと、覚えてくれてたんですか? それに、店に来た時から、俺のこと分かってたんですか?』

『ええ、なんとなくね。初めは何処かで見たことあるなって思ってて、そしたら話の中で学生時代少しだけあなたが塾でアルバイトしていたこと話してたり、あと、柳原くんって名前を聞いて、ああ、やっぱりって』

『そっかぁ、俺、全然気付かなくって、すみません』

『いいのよ、謝ることじゃないじゃない。まさか私がこんなところにいるなんて、想像もしてなかっただろうし。それに、こちらこそ、私なんかを覚えていてくれて嬉しいわ』

『あ、いや、その、何て言うか・・・』

『なに、どうしたの? 私何か変なこと言った?』


 少し離れた歩道の縁では、部長が呼び止めたタクシーに塾長を押し込めようとしている最中だった。

 本来ならば俺も部長を手伝って塾長を見送るべき所だったのだろうが、俺は今それどころではない。

 言ってしまえば、俺にとってもうこの会社に居る意味すら無くなってしまったのだ。

 まさに言葉通り、この降って湧いたような千歳一隅のチャンス、逃す訳にはいかない。


『あ、あの、美紗子先生』

『その先生っていうの、もうやめてよ。それで、なぁに?』

『先生、あ、いやそのぉ、じゃあ美紗子さん、今度、何処かで会えないですか、職場のお店じゃなくって、何処か、その、何ていうか、何処かで食事でもどうですか?』

『ええっと、それってひょっとして私をデートに誘ってるってこと? こんなおばさんを?』

『ええ、まぁ、そんなとこです。でも、俺にとって美紗子さんはおばさんなんかじゃありませんっ。・・・あっ』


 つい口を突いて出た本音に、俺は顔を真っ赤にするしかなかったが、夜の街灯りの中では俺の紅潮した頬の色も彼女には見えなかったかも知れない。

 そんな俺の動揺を知ってか知らずか、美紗子さんは笑顔でこう言ってくれた。


『嬉しい。でも今ここでは不味いから、これ、私の名刺。電話番号書いてあるから、明日、電話くれるかな。明日、非番なの』

『分かりました。明日、必ず電話しますっ』

 手渡された名刺を大事に財布に仕舞い、俺は『ごちそうさま』と言ってから部長の元に小走りに駆けて行った。

 部長はまだ悪戦苦闘していたが、俺が傍につく頃には、漸く塾長をタクシーの後部座席に押し込めて、運転手に行き先を告げているところだった。


 走り去るタクシーのテールランプを見送りながら、部長が俺に訊ねてきた。

『あのさっきのホステスさん、お前、知り合いか?』

『ええ、まぁ。昔お世話になったっていうか・・・』

『そうかぁ、友達のお姉さんとか、そんなところか?』

『いえ、そんなのとはちょっと違うんですけど・・・』

『そっかそっか、まぁいいや。でもお前よりちょっと年上みたいだったけど、それでも昔っから、年上女房は金の草鞋を履いてでも探せって言うしな。綺麗な人だったじゃないか、お前も隅に置けないな』

 年齢の部分は実は「ちょっと」ではなかったのだけれど、部長の言葉に励まされ、部長のことが少しだけ好きになった。

    ◇



 さて、どうしたものか。


 間もなく美紗子さんが風呂から上がって来る。

 俺はほんの短い時間だが、考えに考えて、何度も何度も堂々巡りした挙句、もう考えることを止めにした。

 別に出たとこ勝負とか、美紗子さんの様子を窺ってから、それに合わせて対応するとか、そういうことではないのだ。

 結局は、当初の予定通り、俺が『人として正しい行動』と思うことを言うし、するだけだ。


 廊下の向こうからドライヤーの音が聴こえ、やがてその音が止んだ。

 俺はリビングからキッチンに戻り、クラッシュドアイスをガリガリと作ってグラスを満たし、残ったワインを注ぎ、グレナデンシロップ、コアントローを少々、そして冷蔵庫から取り出したオレンジジュースを注ぎ入れた。


 廊下から入るキッチンのドアがカチャリと開いて、まだ髪の少し湿った様子の美紗子さんが現れる。


「ソファで飲もっか」

「うん」

 俺がワインクーラーのグラスを二つ持ちリビングに向かうと、美紗子さんも黙って俺の後に続いた。


 やっぱりなんか、ちょっと変だ。


 二人、ソファに並んで腰掛け、俺が美紗子さんに「どうぞ」とグラスを差し出す。


「ありがとう。美味しそう・・・」


 グラスを受け取る美紗子さんの声が、何だか少し震えているように思えたのは気のせいだろうか。

 俺が意を決して口を開こうとしたその前に、美紗子さんの声の方が早かった。


「あのね、今日、大事な話があるの・・・。いいかな・・・」


 出鼻を挫かれた。

 さっきの胸の何だかよく分からなかったモヤモヤが、今度はハッキリとそれが不安であるということを認識した。

 不安と混乱。

 それでも何か応えないといけない。


「あ、うん、いいよ、もちろん」


 やっぱり美紗子さんはあのぬいぐるみで何かを勘付き、多分それは俺が思っている気持ちとは違う、全くの誤解をしている可能性大だ。

 これはかなり不味い展開なのかも知れない。


 しかし「いいよ」と応えてしまった手前、やっぱり聞かないという訳にもいかず、美紗子さんの言葉を待つ。


「あのね、本当に私の我儘で、言い難いんだけど・・・。ほんと、勝手でごめんなさい。でも、私の気持ち、お願いごとを、言うね」

「うん」

「あのね、赤ちゃんが欲しいの・・・。あなたの、子どもが欲しいの。ううん、あなたには迷惑掛けない。私ひとりで育てるから」


 ????????????


 予想してたのと随分違うぅぅぅ。

 遥か斜め上、というより、遥かも遥か、遥か彼方の上空過ぎて、もうそれが斜めなのかどうかもよく分からないぃぃぃ。


 ゲホッ ゲホッ ゴホ ゴホッ


 俺は深呼吸をして落ち着こうとしたのだけれど、あまりにも衝撃的な展開に、吸った息を吐くことが出来ずにむせてしまった。


「ごめんなさい。急に変なこと言って。だけどね、ここ最近、ずっと考えていたの。自分の歳のこととか将来のこととか、色んなこと・・・」


 俺はまだ正気に戻っていない。

 そして何だか違和感を感じている。


「あなたはまだ若いし、そんなこと考えたこと無いと思うし、それに・・・」

「ちょっと待って」


 俺は美紗子さんの言葉を遮った。


「ちょっと待ってよ、美紗子さん。美紗子さんは何を言っているの? 俺には美紗子さんの言っていることがサッパリ理解できないよ。だってそうだろ? いきなり子供が欲しいとか、ひとりで育てるとか、何言ってるの?」


 美紗子さんは語気を強めた俺にちょっと驚いた表情をして見せて、それから少しだけ寂しそうに(俺にはそう見えた)笑って、「ありがとう」と小さく言った。

 そして美紗子さんが話し始めた。


「でもね、よく考えてみて。私はあなたとはひと回りも歳が違うし、私は不倫をするような女で、ちょっと前までクラブで働いていたような女なのよ。歳がひと回り違うってことは、あなたより十二年早くお婆ちゃんになっちゃうの。分かる? 分かるわよね? 今はまだ辛うじて私のことが好きだって言ってくれるかもしれないけれど、ハッキリ言ってそれだってあなたが私のSEXテクニックに溺れているだけで、本当に好きかどうかは分からないわよ。十年後、二十年後、いえ、もっと早くて五年後かも知れないわ、あなたがそのことに気付いてしまった時、私はそれに耐えられないし、あなた自身も後悔すると思うの・・・。分かるわよね? あなたにはもっと良い人が居る筈だし、私じゃないと思う・・・。それから、狡いって言われるのが嫌だから、ちゃんと言うね。私だって、あなたのことが好きよ。だから、子どもを産むなら、あなたの子どもがいい。これは今の純粋な気持ち。本当にあなたのことが好き、あなたが私のことを好きだと言ってくれる言葉も信じてる。でもだからこそ、それが無くなってしまう未来が怖くて、耐えられないの・・・」


 美紗子さんはグラスにひとくち口を付けて、それからまた先ほどと同じように、寂しそうに笑った。

 俺はなんて言葉を掛けて良いのか分からないまま、ただ黙って自らのグラスのワインクーラーを一気に煽って飲み干した。

 すると美紗子さんが再び口を開く。


「今夜は、もうこれで帰るね。あなたも一週間仕事ででしょうから、今日はゆっくり休んで。明日また、電話するわ。良かったら、今話したこと、あなたも考えてみて」


 今、美紗子さんの言葉を聞いて、気付いた。

 美紗子さんが思い悩む気持ちは理解するし、今時点の段階で彼女が俺のことを好きでいてくれていることも嘘ではない。

 ということは今現在、この今という瞬間は、二人は両想いで大恋愛中。

 それから美紗子さんの言うところの『溺れている』はあながち間違ってはいない。確かに今日も俺の脳幹はムラムラしていたし、それを懸命に抑え込もうと、俺の脆弱な前頭葉は頑張っていたではないか。

 ひとつ美紗子さんが勘違い(誤解)しているは、俺の配置したぬいぐるみを見たせいで、俺が今夜のそれを拒否したと思い込んでいるであろうこと、だ。


 決めた。俺は決めた。

 絶対に彼女だ。

 俺は俺が思う『正しい行動』をする。


「美紗子さん、いや、美紗子。俺はそんなに頼りないか? 俺は今、少しだけ怒っている。ダメだよ、遮ろうとしても、今日はダメだ。俺にも最後まで喋らせてくれ」


 美紗子が驚いて目を見開くのが分かる。


「五年後だって十年後だって、いんや、五十年後だってだ、俺は美紗子のことが好きに決まっているんだよ。だってそれは俺が決めることであって、君が決めることじゃないから。君だってそうさ、俺のことをずっと好きでいるって、そう決めてくれ。俺は君にずっと好きでいて貰えるように生きるし、だから美紗子もそうしてくれればいい。だから、俺と結婚してくれ。俺の子どもを産んでくれ。俺と家族になってくれ」


 まわりくどい『男として・・・』なんてことはもうどうでも良かった。

 そうじゃなかったのだ。

 俺は美紗子とずっと一緒に居たい。

 ただそれだけだった。

 そう、それだけだ。


 美紗子の瞳から大粒の涙が零れ出す。


「いいの? ほんとに・・・」

「良い悪いじゃないのだよ。俺がそうしたいし、美紗子もそうしたいと思うなら、素直に俺の言葉を受けてくれ。それだけだよ。もう一度言うよ。俺は美紗子とずっと一緒に居たいんだ。家族になりたいんだ。そして子供が出来らた三人? 四人? 君たちと俺と、家族になりたいんだ」

「うん・・・」

    ◇



 一時間後、俺たちは寝室のベッドの上に居た。

 二人で寝室に入ったとき、『たれぱんだ』と『リラックマ』のぬいぐるみは既にベッドボードの上に二人並んで佇んでいた。

 恐らく美紗子さんが風呂から上がった時にそうしたのだろう。

 俺は美紗子さんに変な勘違いをさせてしまったであろうことを再び反省し、謝るつもりで口を開いた。


「あのさぁ、今日の、『たれぱんだ』と『リラックマ』のことだけど・・・」

「え、どうかしたの?」


 美紗子さんが不思議そうに二体のぬいぐるみに目を遣った。


「いや、どうって・・・」

「ううん、私、今日は来て直ぐにお料理始めたから、寝室には来てないの」


 恍けているのかな?

 俺じゃないから、美紗子さんしかいないんだけどな、動かすの。

 まぁいいか、誤解は解けたみたいだし、そこは追及するところでもないしな。


「そっかそっか。うん、何でもない」

「変なの」


 まぁいいではないか。


「それじゃ、今夜は寝かさないよ」

「いいえ、私があなたを寝かさないわよ、ふふふ・・・」


 OH~

 ✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖

    ◇


 お互い「寝かさない」って言ってた二人が精も根も尽き果てて、逝ってしまって息絶えてた午前三時。

 ベッドに沈む二人を見下ろしながら、


リラックマ:この二人、ホントにヨキヨキ


たれぱんだ:ぐへぇ


リラックマ:ヨカッタ ヨカッタ


たれぱんだ:ぐへ ぐへ


リラックマ:ウン ウン


たれぱんだ:・・・・ぐへぇ~



 そんなパンダとクマの会話が、有ったとか無かったとか・・・・





          おしまい

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