謎のヌエマ姫

清瀬 六朗

第1話 謎のヌエマ姫

 仁子じんこ瑞城ずいじょう高校の寮食堂のバイトから日本史研究室に戻ると、まだ杏樹あんじゅがいた。

 本を自分の前に置き、ノートをその下に敷き、その横にタブレットを置き、その反対側にノートパソコンを置き、前に古語辞典か何かの辞書を置き、それとノートパソコンとのあいだに大型の百科事典か何かを置き、さらに本を何冊も横に積んでいる。

 仁子が戻って来たのに気づいて、杏樹は顔を上げた。

 その頬はあかい。

 憔悴しょうすいしきっている、という表情だ。

 「あ、おかえり」

 そう言う声もうつろだ。

 「うん」

 だいたい、この杏樹もいっしょにバイトに行くはずだったのが、ゼミの発表の準備が間に合わない、と言うので、キャンセルした。仁子がその寮の寮委員という生徒に電話して、寮生で仕事を手伝える子を確保したので、寮の食堂の仕事はことなきを得たけれど。

 杏樹が、事なきを得ていない。

 「どうしたの?」

と短く仁子が言ったのが、杏樹のつつみを崩すありの穴だったらしい。

 「わーん! 仁子ぉ。わかんないよぉ!」

 「はい」

 そう答えて、バイト用品の入った鞄を置いて、杏樹の右隣に座る。

 森戸もりと杏樹。

 いつもいっぱいのエネルギーを放ちながら生きているような子だ。

 近くに寄っただけで、その体温なのか、いや、体温以上に放射するエネルギーを受けて温かく感じるくらいだ。

 杏樹にきく。

 「『民約みんやく訳解やっかい』?」

 杏樹がいま苦しんでいるのは日本史一般研究というゼミの発表の準備だ。仁子は、古代漢語という授業と重なっているので、この授業は取っていない。

 よその大学とかから来る非常勤の先生が、何人かで順りでその得意分野を取り上げるというゼミ形式の授業らしいが。

 杏樹は、近世の文献を読んで、ここの研究室の大藤おおふじ先生に読みが雑と指摘され、中世の文献を読んで、やっぱり大藤先生にわからない単語はわかるまで辞書を引きなさいと怒られ、さらに先輩の三善みよし結生子ゆきこさんに中世文献の読み方をぎしぎしと体と精神がきしるまでたたき込まれた。

 それで、中世と近世はギブアップして

「もういいっ! 近代にするーっ!」

と、卒業研究の対象を近代に設定した。

 それで、その「日本史一般研究」で近代を取り上げると宣言したら、先生にさっそく中江なかえ兆民ちょうみんの『民約訳解』というテキストを当てられたらしい。

 「なんでそんなテキストを?」

ときくと、

「中江兆民って、自由民権運動のなかでも民主的っていうから、わかりやすい文章かな、と思って」

と言っていた。

 だいたいそれがまちがいだ。中江兆民なんて、漢文の素養をみっちり身につけた人で、古文と漢文の知識がなければ読めるはずがないのに。

 仁子が指摘する。

 「早くしないと、追い出されちゃうよ」

 明珠めいしゅ女学館じょがっかんは女子大なので、門限というのか、大学が閉まる時間が決まっている。それを超えて居残ることはできないので、杏樹のここでの勉強もその時間に強制終了になる。

 あと一時間とちょっとだ。

 杏樹はわめいた。

 「わーん!」

 マンガで言うと、頭の周りに涙の粒がいっぱい飛び散っている状態だ。

 「助けてよーっ!」

 杏樹は、言って、というより、叫んで、がば、と仁子の腕をつかんでくる。

 どきっ、としたのは、その勢いに喫驚きっきょうしたからだけではない。

 あ。

 表現が漢文的になってしまった。

 仁子がなぐさめる。

 「はい。わたしでできることなら助けるから」

 「ほんとー?」

 仁子の左腕にすがりついたまま、杏樹は必死な顔で仁子の顔を見上げる。

 仁子はとまどう。

 「いや。わたしにわかることなら、だから」

 同じ大学の同じ学年なのだから、実力は同じくらいのはずなのだが。

 「じゃ、ね、まず」

 杏樹はいきなりその必死さからビジネスライクな言いかたに戻った。

 まあ、いいけど。


 肩を寄せて、杏樹の体温というか、エネルギーを感じながら、問題に取り組む。

 いつものことだけど、杏樹は自分で言っている以上に読めていた。

 その大藤先生と結生子さんの指導で、必要以上に苦手意識をもってしまったらしい。

 杏樹がわからないと主張するところを一つずつつぶしていき、杏樹の表情にも希望が戻って来た。もう研究室にいられる時間もあと十分ぐらいに迫ったとき

「で、あとね」

と杏樹が本の一単語の上に指を置いた。

 「このヌエマひめって何か、仁子ちゃん、わかる?」

という。

 単語だけ言われてもわからない、って。

 でも、ここで「わからない」とか言うと、杏樹がまたパニックモードに戻ってしまうので、その前後を読んでみる。

 どうも、王政ローマの歴史を書いているところのようだ。

 ヌエマ姫という人物が、その王政ローマの政治を整えた、というような話らしい。

 姫というからには、女王?

 しかし、王政ローマに女王なんかいたかな?

 仁子はそんなに詳しくないが、ローマの執政官コンスルとか皇帝とか、みんな男じゃなかった?

 ローマが王政だったのは昔の一時期だけのはずだから、と、とりあえず、杏樹のパソコンでインターネット上の百科事典のページを引いてみる。

 ああ、と思った。

 「これじゃない?」

 ローマの第二代国王、ヌマ・ポンピリウス。

 「ヌマ姫?」

 杏樹はまだ半信半疑だ。仁子だってそれほど確信はない。

 なぜなら。

 「男の人だけどね。ヌマ」

 「えーっ!」

 ……と、杏樹はまたエネルギーを大発散する。

 「こっちはヌエマ姫ってはっきり書いてあるよ。別の人だよ。女の人だよ。もー!」

 「もー!」

と言われても。

 困ってしまう。

 でも、王政ローマの王は七人しかいないらしく、名がいちばん近いのはこのヌマだ。

 仁子はしばらく考えた。

 古代ローマのことばと言えば、ラテン語。

 仁子は第三外国語でこのラテン語を履修りしゅうしている。

 何かあった……。

 あ、と思い当たる。

 「いや。ヌマってラテン語の単語は、アで終わるから、第一変化って変化なわけ」

 「うん」

 杏樹はわかっているのかどうか。

 わかってないだろうけど、時間がないので、そのまま続ける。

 「で、その第一変化の単語は、基本、女性なの。だから、普通は女の人の名まえ」

 「うん」

 「ところが、人名のばあい、男の人でも、アで終わる名まえ、っていうのがあり得るわけ」

 「アグリッパとか」って言っても、杏樹はわからないだろうな。

 「初代ローマ皇帝アウグストゥスの部下」とか説明したら、さらに混乱する。

 そこで

「まあ、小野おの妹子のいもこって女みたいな名まえだけど、男の人だった、っていうのといっしょだね」

と説明する。

 「えーっ!!!」

 杏樹はさらに大きくエネルギーを放出する。その熱さに、避難を検討しなければいけないくらいに。

 「小野妹子って女の子じゃなかったのーっ! はじめて知ったっ!」

 ……日本史専攻なんだよね? 杏樹。

 この研究室にいる、っていうことは。


 中江兆民はフランスに留学してラテン語は知ってたけど、「アで終わると女性名」と思いこんで「姫」と書いたのでは、と説明する。「ヌマ」が「ヌエマ」になったのも、フランス語でNumaは「ニュマ」になるから、それを「ヌエマ」と書いたのでは、ということで決着させた。

 それで杏樹の表情はかなり明るくなったが、その『民約訳解』以外で何か疑問があるらしい。

 「このん?かく中毒って何?」

 だから!

 単語だけじゃわからない、って言ってるでしょ?

 言ってないけど。

 文を読んでみると、中江兆民が「土佐派の裏切り」というのに激怒して議員を辞職した、という話だった。

 そのとき辞表に「小生しょうせい……亜爾格児中毒ちゅうどくのやまいあいはっ行歩こうほ艱難かんなん」と書いたという。

 で。

 その先の説明に「アルコール中毒」って書いてあるじゃないか!

 だから、冷たく

「アルコール中毒でしょ」

と指摘すると

「え? なんでそう読めるの?」

と、杏樹は相変わらずエネルギーを発しながら迫ってくる。

 もう時間がない。

 考えられることを、第二外国語が中国語の仁子が手早く説明する。

 「いや。それ、中国語でヤーァルコーゥルみたいな発音になるから」

 「えーっ? 中国語ぉ?」

 杏樹が絶叫したところに、研究室の扉が開いて

「あ、まだいるの? もうすぐ閉門時刻だよ」

という警備員さんの声がした。

 助かった、と思うと同時に。

 仁子は、もう二‐三回、杏樹がエネルギーを大放出する横にいたかったな、と、惜しい気もちにもなった。


 杏樹の発表はうまく行ったらしい。先生に、とてもよく調べている、とめられた、と言う。

 それで、お礼に晩ご飯をおごる、と、誘ってくれたのだが。

 誘われたところは、明らかに居酒屋で。

 それはいいんだけども。

 杏樹は最初はみかんサワーとかを飲んでいたのだが、そのうちそれがハイボールになり、ウイスキーの水割りになり、さらに焼酎をロックで、になり。

 お酒のチャンポンは酔うよ、と忠告したころには

「仁子さあ、なあんでわたしと歳おんなじなのに、そぉんなにいっぱい、もの知ってんのよーぉ!」

とか大声で叫ぶようになっていた。

 で。

 十時を回ったころには、杏樹はテーブルの上にして

「あぅ……あぅ……あぅ……」

と地球侵略に失敗した宇宙人のような声を立てるだけになってしまったので、仁子がお勘定を頼んだ。

 「あー、わたし、払うから……ひっく。だから、もう一杯、ジントニックとか」

とか言っている杏樹を肩で支え、二人分の勘定を払って、外に出る。

 「うわー。外、気もちいいねー!」

と言っているということは、店の外に出た、という自覚はあるらしいけど。

 杏樹が住んでいるところまでは電車で二駅だったと思う。とても電車に乗れる状態ではない。

 とても自分の家まで帰れそうにない。

 仁子の家は、この少し先、海岸道路に行く途中なので

「今夜、うち、泊まる?」

と声をかけると、杏樹は、がばっ、と上半身を起こした。

 全力を振りしぼって自分の家に帰る、とでも宣言するのだろうか?

 ところが、杏樹はいきなり大声を上げた。

 「しょーせー、あるこーるちゅーどくで、ほこう、かんなーん!」

 そう叫んだだけで息が切れたらしく、またしばらくあの「あぅ、あぅ」を繰り返す。

 そこで、仁子が、杏樹の体を支える肩に力を入れて

「はい、行くよ」

と言うと、いきなり、また!

 「しょーせー! あるこーるちゅーどくで! ほこー、かんなーん!」

 こんどは、力尽きない。

 「あーっはっはっはっはっ! しょーせー! あるこーるちゅーどくで! ほこー! かんなーん!」

 いや、まあ、そのとおりなんだろうけど。

 杏樹が午後十時半の路上で大声で叫んだところで自由も民権も進みそうもないし。

 艱難かんなんでもいいから、歩いてくれないかな?


 そんなことで、普通に歩くと十分もかからない仁子の家まで三十分かかって到達する。

 玄関を入ったところで

「おーいゃまひまーふ!」

と叫んだということは、よその家に来た、という自覚はあるのだろうが。

 でも、玄関で靴も脱がないまま、倒れ込んでしまった。

 もう「あぅ、あぅ」とかでもない。

 寝息を立てている。

 しかたがない。

 ところで、仁子は、学生の分際で、建ての家を借りて一人暮らしをしている。

 大学に入ったときに、空き家活用プロジェクトというところで紹介してもらったのだ。

 だから、杏樹が玄関で寝ていても、とくに問題はないのだが。

 杏樹は暖かそうな服装はしているけれど、このままだと風邪を引くかも知れない。

 そこで、予備の掛け布団を持って来て、その杏樹の体に掛けてやった。足のほうが土で汚れるかも知れないけど、あとで布団カバーだけ洗えばいい。

 敷き布団は玄関マットで代用して、と思う。

 せめて、水を持って来て飲ませてあげようかと思うのだけど、飲むところまで目が覚めることはなさそうだ。

 それで、ポットに氷水を作って、コップといっしょにお盆に載せて、杏樹の頭の横に置く。

 手を振り回しても倒さないように、杏樹の手の長さを計算して。

 「おやすみ」

 仁子がそう声をかける。杏樹はもう深い眠りに落ちているだろうから、返事はないだろう、と思った。

 ところが、杏樹の口が開いて、何か言っている。

 「ヌエマ……っていうのは……ヌマ……っていう……王で……男で……姫って……してるのは……誤解で……いや……昨日は……徹夜で……」

 徹夜であんなにあとさき考えずに飲むからだ!

 この子と、あと一年半。

 一年半、同じ研究室で勉強したり、同じ寮食堂でバイトしたり。

 手間はかかるけど、楽しい。

 いっしょにいたい。

 仁子は、ふと、ここで自分も杏樹の横に布団を敷いて寝たらどうなるだろう、と思った。

 でも、そんな場所はないし、それに、杏樹の放つアルコールのにおいよりも先に、そのエネルギーに当てられそうだ。

 だから、仁子は、もういちど、小さく

「おやすみ」

と言うと、戸締まりを確かめてから、杏樹が眠り込んでいる玄関の電気を消した。


 (終)

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