ぬいはモフるか焼くしかない・後編

「さて、めでたく宿無しを免れた気分はどうだい蝶野サン」

 街の彼方に沈みゆく夕陽を背に、ワニは開口一番そううそぶいた。

 ベランダに置かれた折り畳み安楽椅子ロッキングチェア。ワニは悠然とそっくりかえる。自分の腹に寄った横皺を、ほれ見てみろと言わんばかりに短い足を組みながら、だ。

 片手でプシ、と缶ビールのプルトップを開ける。そう、たかがぬいぐるみの挙動なのだけれど。それはハリウッド映画の探偵のテンプレみたいにサマになってて…

 ううむ、なかなかの渋み具合…のくせに!小面こづらにくいとはこのことだわね。

「ヘトヘトよ。もうしばらく宅配は利用したくないかなぁ」

小包爆弾ハッピーボムなんてもなぁ、一生に一度で充分だもんな」

 ワニは口の端を歪めて笑う。私もつられて、へへへと力無く笑った。

 私と千代子の部屋に消防隊が到着し、火の勢いが鎮まるまで一時間もかからなかった。ワニの通報が早かったのみならず、隊員さん達の統率の取れた消火作業と、この建物の消火・防炎設備がきちんとしていたおかげだった。

 消火栓から延びたホースからのビームのような放水で、ベランダ側の窓ガラスは粉微塵になった。部屋の中はもう、洪水の後さながらの惨状だ。

 一階から駆けつけてくれた豆腐屋のお爺さんなどは、

「なぁに戦時中の空襲ときたらなぁ、こんなもんじゃなかったよぉ。おたくらみたいな女の子がなぁ、怪我一つなくてなによりだぁね。まさしく不幸中の幸いだぁ」

 と言って、腰を抜かして言葉を失っている私を宥めてくれた。

 ワニはというと(お爺さんにはごく普通の成人男性として見えていたから)、火災の原因の説明をしたり部屋の中の(使える)荷物を移動させたりなど私の代わりにこまごまとした後始末をしてくれた。

「火災保険に入ってりゃなんとかなるわい。もし管理会社があんた達にあーだこーだ言ってきたら、ワシがどやしつけてやるけぇの。保険金ガッポリ、焼け太りじゃ焼け太り!」

 鷹揚に笑い、とりあえず空いている部屋を使いなせえ!とビルのオーナー権限で隣室の鍵まで渡してくれた。

 お爺さんの親切はこれ以上ない助けになった。なんたって私も千代子もいきなりホテル暮らしができるほどリッチではないし、郵便物もここに届くのだし。

 まんべんなく水浸しになった部屋の中からサルベージできた家財道具(冷蔵庫などは諦めた。保険でなんとかなるならそのままにしておいたほうがいいとお爺さんにアドバイスされたので)の置き場にも困らずに済む。

 まだ頭が真っ白なまま、遅れてやってきた警察官にも事情を訊かれ、とどめとばかり警察署に連れて行かれた。私が宅急便配達員だと思った男は業者ではなく、恐らく犯人自身だということで似顔絵やらモンタージュやら作成するのに付き合わされた。

 こちとら仕事柄、人相を覚えるのはそこそこ得意ではあるけれど、あの時は本当に一瞬だったし帽子のせいで印象が薄い。おまけに本来なら余暇にあてていた休日にゲーム以外のことで脳細胞を総動員させられた事は、私のSAN値をゴリっと削り取ってしまった(TRPGも大好き!)…

 フラフラになってマンションに帰ってきた(辰之進がちゃんと警察署の前で待ってくれていた)のは、もう夕方も終わる頃。

 ───で。

 元の部屋の隣室のベランダで、悠々と夕陽を眺めていたワニと再会したのだ。

 手摺にもたれ、私も夕陽を眺めた。なんて一日だ。隣の部屋から鼻につく焦げ臭さが風に乗って流れてくる。それがなければ、これまでとなんら変わらない街の風景なのに。

「あーあ、なーんかわけわかんなくなっちゃうくらい疲れたぁ…」

 ワニが大口を開けてガワッハッハと笑った。

「そらそうだわな。何はともあれ、あんたもこれで立派な被害者なわけだ。ひとまずこれでも飲んで落ち着けや」

 ワニがぽんと放り渡してきたのはビールの缶ではなく、ペットボトルのファンタグレープ。

「お子ちゃまじゃないんだから…」

「俺からしたら充分ガキだ」

 もう、反論するだけの元気もない。キャップをひねって飲もうとしたら、ワニの方から短い腕を伸ばして缶の口を寄せてきた。

「なによ…?」

「しょげるな。こいつは祝杯。ついでに宣戦布告さ」

「…?どーも」

 下から見上げるワニの眼差しが、意外にも柔らかい。私も乾杯、と言って一口飲んだ。

「…おいしい」

 ふと言葉がこぼれた。

 子供の頃は誕生日とかお祝い事があるたびによく飲んでいた葡萄味の炭酸。舌の上でじっくり転がして味わう。久しぶりに飲むと、懐かしさと甘さで本当に心が落ち着いてきた…

「日常がブッ壊れたー、みてえに感じたかもしれねえが、ンなこたぁねえ。アンタはこれからも真っ当に生きていく。ただ人生ってやつの路上には、たまにキチガイや変態もいる、ってことだぁな」

「放送コードに抵触する慰めじゃん」

「こちとらなあ、昨今のコンプラ事情にゃあうんざりしてるんだ」 

 ワニの口許がシニカルに歪む。 

「いいか、蝶野サン。あんたは余計な火傷もしないで済んだ。こいつは上等の勝ち星だろう?それと───」

 ぐっと声音を太くしてワニは夕陽を睨んだ。

「ここまで舐めくさった火遊びは初めてだ。やっこさん、いいようにこちとらを弄んでいるつもりだろうが…俺が地獄の底に沈めてやる。絶対に制裁を下す。だから宣戦布告さ」

「なるほど?具体的にどうすんの?警察に引き渡して終わりじゃないの?」

 お前、正気か?という目つきで片眉(あたりの肉)を吊り上げた。

エンコで許すのも生温なまぬるい。詰めだ。泣いて喚いて、のたうって…死なせてくれ、と懇願してくるのが今から楽しみだぁな」

 語るワニの掌の中でメコメコ…と金物かなものっぽい音がする。

「何言ってんのか分かんないけど、元気付けようとしてくれてるんだね。サンキュ」

「礼なんかいらねぇ。俺はただ二度とごめんなんだ。俺の目の前で火にまかれる、あんた───」

「え?」

 ワニはハッとして、バツが悪そうに太短い指で顎を掻きむしった。

「なんでもないさ。そら、駄賃だ。お守りに持っとけ」

 ずんぐりした指をピンと弾いて、丸く平べったいものを飛ばしてきた。それを私は片手で掴む。「ナイスキャッチ!」とワニの顔がほころんだ。

 それは確かに百円硬貨ほどの大きさだった。ほんのりぬくもった金属片。…ワニが握り潰して圧縮した、ビール缶の成れの果て。

「わーぉ。地味にすごい」

「こんなの男なら朝飯前だ」

 ワタでできてるはずのぬいぐるみの体の、どこにそんな筋力があるのか謎だけれど、私はもう一度しっかり「ありがとう」と言ってポケットにしまった。

「マミは黒兎のお嬢ちゃんのところに行ったろ?」

「あ…そういえばマミりんいつの間にかいない」

「今頃は『ぽるこ』の前で張ってるさ。なんせあのお嬢ちゃんが核になる事件ヤマだからな。おっつけバイトがはけたらここに送ってくるから心配するな」

 そうか。そういえばそういう段取りだったっけ。

「今晩は俺がここで不寝番をする。シャワーでも浴びて横になれ。寝袋が隣の部屋に二人分ある。一つは黒兎のお嬢ちゃん用だ」

「…」 

「なんだ押し黙って。何を見てやがる」

「…ぬいぐるみらしく添い寝とか、してくんないのかなー、って」

 ひと呼吸、が空いた。

「ぶわぁっはっはっはっはっはっ‼︎」

 大きな頭を仰け反らせ、ひとしきりゲラゲラと笑い転げるワニ。それが済むと、平静な声に戻って目許の涙を拭う。

「オイオイ、この俺をからかうたぁ肝が太ぇじゃねぇか。まあ…余裕が出てきたのならいいこった」

「割と本気なんだけど。ダメ?」

 笑い顔を崩さずにワニは顎をひねった。

「あのな蝶野サン、よく聞けよ。嫁入り前の娘が大の男をベッドに引き入れるような洒落臭ぇセリフを言うもんじゃねえ。冗談じゃ済まなくなるぜ」

「あ、やっぱりそーいうのはちゃんとあるんだ」

 実際のところ、素直に白状すると少しだけ期待していた。こう、漫画みたく手足をばたつかせロッキングチェアからずり落ちそうになるとか、「バ、バッカ野郎!」みたいに言葉を詰まらせたりとか、夕陽よりも真っ赤に紅潮するとか。…そういう滑稽さを見せてくれるのではないかと。

 しかしワニは椅子の上で冷淡に足を組み直して私に背を向け、「早く汗を流してこい」と尻尾を振って見せるだけ。なんだか先っちょが少し青黒く変色していたが。

 夜、バイトから帰ってきた千代子は「ミュウミュウのバカバカバカ!なんでLINEで教えてくれなかったの⁉︎私達、友達でしょう⁉︎」と泣いて私に取りすがった。なんとか宥めて、持ってきてくれたバイト先の賄いのおこぼれのパエリアを頬張る。

「あの、狸屋さんはどこに…?マンションの入口までは一緒だったんですけど」

 と尋ねる千代子に、ワニが「俺達の事務所にとんぼ返りさ。留守番を任している」と告げる。千代子は赤らめた頬に手をやって、

「間に合わなくてすみません。探偵さんの分です」

 と余りのパエリアの詰まったタッパーをワニに渡した。使い捨てのスプーン、それにお手拭きのウエットテイッシュも輪ゴムで留めてある。

 もうこの時点で私は、あーそゆコトね、と察していた。

 私と千代子は「明日の為に早く寝た方がいい」というワニの言葉に従って、がらんとしたリビングで壁に寄りかかって瞑想する禅僧のように半眼でいるワニに、お礼とおやすみなさいを言って隣の部屋の寝袋にくるまった。

 ライトを消した部屋で、千代子に小声でワニに一緒に寝ないかという冗談を言ったのだと打ち明けると、

「そ、そういうことを男の人に言うのはダメよっ?」

 とたしなめられた。

「そーお?ていうか、チョコもしかして怒ってる?」

「なんでそう思うの?」

 少しだけ開けたカーテンから街のネオン灯りが溢れて、天井までうっすらと見える程度に仄暗い。高校生の頃の修学旅行の夜みたいで、ちょっとウキウキする。

「あのさ…私の気のせいだったら悪いんだけど、チョコの恋愛相談って、が相手なんでしょ?」

 息を呑む気配。それから、つとめて軽い調子の千代子の声。

「そう見える…かしら?」

 幸せそうな笑みが混じった声。

 ああ、当たってしまった。胸の内が酸っぱくなるのを感じる。

(何よ、ぬいぐるみ同士の恋愛じゃない。それに千代子は友達。なんで私、なんか───…切なくなっちゃってるわけ⁉︎)

 私をお姫様抱っこしてくれた時の、ワニの力強い腕の感触。

 ぬいぐるみでなく、はじめから結界の力で人間として見えていたなら。を見分ける能力ギフトを獲得する前に出会っていたなら。どうなっていただろう。

 ワニの言葉をそのまま信じるなら、かなり私好みの渋くて逞しい容姿のはずだけど…

 もしそうなら、今頃私と千代子はワニの取り合いで喧嘩でもしていたろうか───

 頭をよぎる想像を拭き取るために、ちょっとだけボリュームを上げて伝える。

「うん、見えるよ。あからさまじゃないけど、なんていうか自然にね。安心しなよ、チョコとアイツはお似合いだから!───向こうはまだちっとも気付いてないけどさ。この騒ぎが収まったら、ちゃんとコクればいいじゃん?応援してるよ私、チョコこと。…親友の恋バナなんだもん」

「…!ありがとうミュウミュウ」

 忘れろ。忘れてしまえ。こんなのはいっときの気の迷い、そうアレ、なんていったっけ…吊り橋効果?みたいなものよ。

 話の区切りがついた頃合いを見た千代子は、ところで、と私の方に寝返りを打った。

「ねぇミュウミュウ。まだ聞いてないんだけれど、私達の部屋のボヤってどうして起こったの?」

 昼間のボヤ騒ぎの詳細を語るうちに瞼が重くなり、私はすぐに寝入ってしまった。恐らく緊張の糸が切れたのだろう。

 朝、いつものごとく千代子の作る美味しそうな朝食の匂いで目を覚ますと、目の前に辰之進の黄色い狸顔があった。

「うっ、うきゃぁぁぁぁ⁉︎」

「おっわっしゃぁぁぁぁ⁉︎」

 反射的に顔面パンチをしてしまった。辰之進は部屋の反対側まで吹っ飛び、壁にバウンドし、そしてまたこちらに戻ってくる。私は活きのいい芋虫さながら、サッと寝袋ごと回転してそれを避ける。

「なっ、なんなのよあんた⁉︎」

「なっ…なんなんっす…こっちのセリフっしゃお‼︎」

 ノテノテ、パトパトと忙しい足音が続き、部屋の入口からエプロン姿の黒兎と、昨晩から変わらないトレンチコートのワニが顔を覗かせた。

「どうしたのミュウミュウ?」

「朝っぱらから元気だなお前ら」

 だんだん頭がハッキリしてきて、私はほっと肩を落とした。

「あー良かった。狸妖怪ランドに転生したのかと思っちゃった」

「…思っちゃった、じゃないっすぉ…」

 鼻っ面をわずかに凹ませた辰之進が立ち上がる。ワニはその頭を軽くはたいた。

「寝起きの娘さんにどつかれるたぁお前も男を上げたもんだな、マミ。に蝶野サンにチューでもかましたやがったのか?ん?」

「それはないっすよボス!俺、仕事中にオンナにかまけるようなナンパじゃねぇっしゅっすぉ!」

「なんで私がこんなチンチクリンの間抜け面とキスすんのよ!」

「俺だって!寝起きにグーパンかまっしっくるD V女なんか願い下げっすぉ‼︎」

「ブハハハハッ。イキぴったりだぜ、お前ら」

 ワニは肩をすくめ、顔でも洗ってこいと言い置いて部屋を出ていく。辰之進は凹んだ部分を元に戻しながらその後についていく。

 意外にもよく眠れた。下着姿で寝袋から這い出して、首を回しながら上半身をかるくストレッチ。それからアキレス腱を伸ばす。

 ───よし!なんとしても、できれば今日中きょうじゅうにはこの事態に片をつけてやるんだから。連休が明けたら仕事なんだし!

 昨日と同じ服に着替えて出ると、リビングの床にはクロスが敷かれていた。

 その上に並べてあるのは千代子の淹れてくれた紅茶の紙コップとベーコン入りスクランブルエッグ、クリームチーズのベーグルサンド、そしてどんな時でも美容のためのビタミンと食物繊維を忘れない特製サラダの紙皿。

「も〜…チョコってどうしてそんなに出来た子なの?私泣いちゃいそうなんだけど?」

「ああ、これには俺も脱帽だぜ。このお嬢さんは本当によく気がつくし、健気で気丈なもんだ。奥さんにできる野郎は幸せモンだな」

「そ、そんなことありませんよ。私のために探偵さん達やミュウミュウに迷惑かけてしまいましたし…私、こんなことくらいしか出来ないから…」

 ワニに褒められ、千代子はエプロンの端を握りつぶしながらはにかむ。横目で盗み見すれば、ワニは(文字通り)大きく裂けた口元を緩め、目を細くして頷いている。

 うん…脈アリなんじゃない?頑張れ、チョコ。

「とっとと食って出動っすよ!登校の時間に間に合わなっしゃっす!」

 誰よりも早く料理に手をつける辰之進。空気が読めない奴め。

「ッ⁉︎ン〜めぇっす!ボス、こいつ、この卵焼きめちゃウマっす‼︎」

「そ、そんな。狸屋まみやさん、言い過すぎです」

「ンなことっしゃっす。俺、こー見えてけっこクチえっしゃっすから。ゲロウマだからそう言ったっす」

「あのねーマミりん、食事中に汚い表現しないでよ。あとあんた食べ過ぎ。ちゃんとワニこっちの分も残しときなさいよ」

 なんたってこの千代子の手料理を真に味わうべきは、私達のために不寝番ねずのばんをつとめあげ、あくび一つしないであぐらをかいているワニなのだから。

「いいさ蝶野サン、マミの食いたいだけ食わせておけ。腹ごしらえは仕事の基本だ。とくに今回みたいなハードなもんはな」

「えー、でもさあ…」

「へへっ、サンキューボス!」

 千代子の想いを雑にされると、私まで悲しく…

 って、当の千代子本人は黒い顔をほんのり染めて、嬉しそうにモジモジするばかり。あーもう!アンタ可愛いわよチクショー!

「あー美味ぇっす!マジで今まで食ったサンドイッチなんか忘れるくれぇっすぉ‼︎」

「ちょっとは遠慮しなさいよバカ狸!」

「い、いいのよミュウミュウ…あの、狸屋さん、足りなければおかわりも作りますから」

 ワニは少しばかりつまむようにスクランブルエッグをスプーンで口に運ぶ。がっついている辰之進とは対照的に余裕がある。

「それよりも、マミ、あれは忘れていないな?」

「ん?───あ、大丈夫っす!ボスに言われた通り準備して来ぁっしゃっす」

「よし、お前にしては上出来だ。この短時間によくやった」

「えへっ、そんなっ、当然トーゼンっしゅっすぉ…」

 褒められた辰之進は狸顔をクシャクシャに歪め、真っ赤になって頭をボリボリ掻いた。まぁ、こいつも悪気はないんだろうね…

 私はいつもの朝と変わらない紅茶の良い香りを堪能しながら、ワニに何のことかと尋ねたが───

「ま、俺のお守りみてえなもんだ」

 とはぐらかされた。

 一人と三体の食事が済んだら、ゴミをまとめて出発。

 努めていつも通りに千代子はノートや参考書籍を詰めたバッグを肩にかけ、マンションを出る。私は辰之進と一緒に少し離れてついていく。ワニは私達のさらに後方から、尾行があるかどうかを確認しながらついてきているらしい。

 途中ちらっと振り返ってみたけど、どこに潜んでいるのか全く分からない。とはいえ、さすがプロね。

「ねえマミりん、あんたはなんであのワニに尻尾振ってるの?」

「ボスはただのワニじゃっす!オトコっすぉ!」

 飛んでくる黄狸キック。私はひらりとよける。ぬほほ、そのように生ぬるい短足回し蹴りなど届かんわ!

「無駄口叩いてるとストーカー野郎に出し抜かれるっす。マジメにやぇっしゅお!」

「まーまー。普通に喋ってる方が相手が油断するんじゃない?ね、どうなの?なんでなわけ?」

 憎たらしげにぶうたれながらも辰之進は視線を千代子の背中に据えたまま答えた。

「俺がボスの舎弟っしゃってんなったのは、この街の半グレグループにいたのを拾ってもらっのがキッカケっすぉ」

「あんたが⁉︎半グレ⁉︎…似合わな〜い」

「るせっす!茶化すなら、こん話やめっす」

「ハイハイごめんなさいよ。で?私すっごく聴きたいのよね。お願い」

 千代子の遠い後頭部。ピンと立った黒い兎耳を注視したまま辰之進は続ける。

「ボスはそン昔、この街で命を救っしゅっしぁ人間がいるっす。その人間を探して恩義を返すために、ずっと探偵やってっすぉ!」

「命を救ったの?あのワニが?」

 なんだ、私だけではないのか…と思っていたら辰之進が尻尾で私のふくらはぎを叩いた。予想していなかったのでヒットしたが、ポワンという気の抜けた音のわりには結構痛かった。

「逆っしゅ!ボスが、救われたっす!」

イッたぁ───マミりんの滑舌が悪いのが悪いんでしょ?そう怒んないでよ。…にしてもワニのくせに義理堅いんだねえ」

 コロっとだらしない笑顔になって、辰之進は鼻面を高くした。

「だ・か・ら!何度も言ってっすぉ。ボスはじゃえっす。ぬいの中のぬい、男ン中のオトコなんっす!」

 頰を紅潮させて熱く拳を握る辰之進。まあ確かに、苦味走った大人の男の魅力とでもいうものは持っていると思う。外見はコミカルでファンシーなデフォルメされた動物だけど。千代子もそこにかれているのだろう…。

 男からも女からも惚れられる。それって、人柄が良いの代名詞なんじゃないのかな?

「そうなんだね。マミりんも大事なボスを取られないよう頑張りな。ま、チョコに勝てるとは思わないけど」

「ん?ぁんでそこであの娘の話が出てくっす?」

「それが分からないの?致命的だねえ。あんなに一目瞭然なのに」

 ふとポケットの中のスマフォにLINEの着信音。出るとワニの無愛想な声。

『こんな感じで、二時間ごとに肉声で連絡を入れる。蝶野サンもタイマーをセットしておけ。俺から通話が無かった場合、こっちの方でトラブルが発生したものと思ってくれていい』

「用意周到でいいアイデアね。うん、分かった」

 千代子は駅前で大学行きのスクールバスに乗り込む。私は少し迷ったけれど、辰之進が躊躇なくステップを駆け上がるのでそれにならう。

 千代子の席は前の方。私達は最後部の高くなっている席につく。

「ねえ、これでもあのワニはついて来れてるの?」

「問題ねっす。───ほら、ボスの格好いいかっちぇっバイクが車間距離あけて来てっす」

 後部席の窓から眺めてみた。ゆるやかな地方都市の、朝の通勤時間の車列の波があるけれど、どれがワニのバイクなのか見分けがつかない───というかあの短足で乗れるバイクとかあるの?それが不思議なんだけど。

「ねえ、チョコにちょっかい出してきてる犯人って、もしかしてあんた達の仲間なんじゃないの?」

「はぁ⁉︎ンなぉとあるわけっしゃっす!」

 それまで小声だった辰之進はボリュームを跳ね上げた。私は両手の指のジェスチャーで「抑えて、抑えて」と示した。

「…とにかく、それはっしゅっす」

「無いって、どうして言い切れるのよ?」

「俺達ぬいは人間と違って、優しく賢く義理堅いんっす。おまけに火は即オダブツになる禁忌タブー中の禁忌っす。だから犯人は、確率100%で人間!コレで決まりっす」

 そう言われるとムラムラと反抗心が芽生えてくる。普段からこちらを見下してくる上司に「どうせ無理だよねえ?この予算でそんな企画」と言われるたびに、度肝を抜くようなアイデアでそれを覆してきたこの私だ。ナメるんじゃないよ。

「じゃあもし犯人がぬいだったらどうしてくれる?」

「はっ。もしそうなら、そっすね、…吹き戻しピロピロさせながらサンバの格好カッコでこン街練り歩いてやっしゃっすぉ」

「ほお、言ったわね。じゃあ私も念の為にあのオモチャを買っておこうっと」

上等ジョートーっすよ!」

 言っているうちにスクールバスは大学に着いた。車寄せに停車するやいなやドヤドヤと降りていく学生に混じり、千代子の後を追いかける。

 が、すぐに何人かの女子グループが千代子に声をかけている。少しばかり立ち話をして、いかにも女子大生らしいかしましくも陽気な笑い声を立てて歩き出していく。

 ちょっとだけ肩の力が抜けた。友達があんなにいれば、ストーカーも直接手は出すまい。

「うーん、ここまでっすかね」

「そうね、あの子達と一緒にいればとりあえず安全でしょ。念の為チョコには休み時間には私とワニのスマフォにも連絡してって言っておいたし」

「にしても…人気あるっしゅっすねぇあの子」

 すれ違う他の生徒も、講師らしき年配の大人達も、千代子になにがしかの言葉をかけていくのを見て辰之進は感心している。

「ね?そうでしょ?あれがチョコの魅力なのよ。気は優しくて料理上手、いつもニコニコふんわりお嬢様。当然よ」

「いやなんであんたが得意になってっすか?別にあんたの手柄じゃねっしゅっそ。あの子の人徳ジントクっすぉ?」

 遠くなっていく黒兎のぬいの後ろ姿。周りの人間達とサイズ感が違うけれど、存在感はピカイチだ。私は、チョコ、あとは任せな!と心の中で叫ぶ。

「さて、このだだだーっ広い敷地のどっからどう回るっすかね」

「そうねえ…」

 私と辰之進は周囲を見渡す。続々とバスが到着してくる。この街にこんなに若者がいたのかと驚くほどの二十代前後の人の波。その中に混じってほんのときたま、ぬいの姿がある。

「手当たり次第、っていきたいとこだけど、皆忙しそうね」

「ん〜、とりあえず講義に出てねえ連中から当たっしゅっすかね。それなら部室棟行くっすぉ」

 ふむ。妥当かつ堅実な提案。ワニに『マミりんと部室棟に行くね』とLINEで打った。

『了解。俺は西側の生協に行く』

 とのこと。ワニがバイクに跨っているところを見たかったけど、また別の機会かな。

 部室棟という建物は探すまでもなく、バスロータリーの真向かいに聳え立っていた。飾り気のない、ちょっと昭和の団地を思わせる五階建てのビル。一階には辰之進が利用するという食堂が入っており、入口の食品サンプルを並べたショーケースを覗いたら確かに激安な値段のラーメンやらカレーライスやらが並んでいる。

「ここの『麻婆辛うどん』、全国からうどんマニアがコレ目当てに来っくらい名物の看板メニューなんっすぉ」

 ケースの一番端っこに鎮座しているそれは、どう見ても赤黒い餡をかけただけの丼飯に見える。食材の色を再現したというよりもはや豆板醤とか唐辛子の色にしか見えないんだけど。値段は───

「はぁ?ひゃくはちじゅうえん⁉︎」

「キュッフッフ、思わず平仮名になっちぇっしょ?オドロキの安さ!量!そして辛さなんっすお」

 驚きはしたけれど、それに比例して不安も倍増する。これ、下手したら食べ物にしたらいけないものまで混入されてないでしょうね?

「オラオラ、食いもんにばっか気をとられっないで行くっすぉ!」

「マミりんと一緒にしないでよ。っていうかマミりん、よくこんな怪しいもの食べられるね。むしろカラダに毒じゃないの?」

「失礼っす!俺、マジで食い物にはうるさっしゅっすお」

 食堂脇から建物に入る。並んだドアはどれも半開きで、内側から人の声が漏れている。なかには真っ暗で気配のない部室もある。こういうのが大学という小さな社会の雰囲気なのだろう。高卒で入社した私には新鮮な、甘ったるい空気だ。

 千代子の所属するのは歴史研究会ヒスケン、それと手芸部だと聞いている。前者は四階、手芸部は三階。エレベーターを使って先に四階に上がる。

 歴史研究会はほかの部室と同じく頑丈だが錆の浮いた鉄扉で、部名のプレートの下にヨーロッパの古地図を模したとおぼしきポスターが貼ってあった。

 “歴史研究発表会───嗜好品とファッションから眺めた近代史”

 そう大きくレタリングされたタイトルの下にある日付を見ると、五月下旬に二日間に渡って開かれる大会らしい。さらに下にはテーマに沿った発表のスケジュールがぎっちり。中には千代子が担当になっているものもある。

 ふんふん、“貿易にまつわる菓子文化の発展と伝播”か。いかにもあの子らしいな。

「あー、あんたに言っとっしゅけど」

「何よマミりん、あらたまって」

「今から俺、スイッチ入れっすから。とりあえずあんたの親戚って事で通すっすぉ」

 辰之進は頭のあたりを二、三回、まるで髪を整えるように撫でつける。

「はぁ?親戚?私とあんたが?冗談言ってんじゃ───」

「三、二、一…」

 額を下に向けて集中し、勝手にカウントをとる。

「…オン」

 カチッ。黄狸のこめかみあたりで何か音が鳴った。

「───失礼します!」

 いきなり元気溌剌の見本みたいなトーンの声に切り替え、辰之進はドアを開けた。

 部屋の中は足を折り畳める長細いテーブルを二つ並べ、パイプ椅子で囲んだ会議室的な雰囲気になっている。唐突な私達の闖入で、思い思いに散らばって座っていた学生数名が一斉にこちらを向いた。

 小綺麗な身なりの男子が三名、女子が二名。そのうち眼鏡をかけたショートマッシュの女子が立ち上がって、手にしていたプリントをテーブルに戻した。

「はい?誰かに用ですか?」

 辰之進、両足の爪先を揃えてキッチリ四十五度のお辞儀をする。おいおい、ブライダル会社の研修で叩き込まれるのと同じ、小笠原流の正式な大和仕草じゃないのさ?

「初めまして!僕、狸屋辰之進と言います!来年この学校を受験しようと思っていまして。近くに住んでる従姉妹が、こちらのに所属しているご友人の方がおりますもので、頼み込んで連れてきてもらったんです。よろしくお願いします!」

「え?あんたどうしたの───ぃだっ」

 辰之進の短足が靴の上から私の足を踏んづけた。むっちゃ痛い。文句を言おうとしたらあべこべに睨み返し、ものすごい形相で目配せしてくる。

 あ、そういうわけか。小芝居しろ、っていうのね?任せなさい、外面そとづらを取り繕うなら私もプロよ!

「そうなんですぅ。ま、この子の成績だと無理じゃないのって言ってるんですけど、こちらの大学に憧れがあってどうしてもってせっつかれてしまいましてぇ…すみませぇん」

 口調をやんわり、おっとり、のんびりにして微笑む。心持ち内股にしてっ…と。あとは営業スマイル。

 さあどうだ?

「えー?私達は部活ですから、研究会なんて大それたものではないですが…」

 マッシュ女子の警戒が「ホッ」と音を立てて崩れる。つかみは上々かな?

「学校見学なんですね?それなら学生課に行ったほうが…」

「あっ!そこまでじゃないんです。あっいえ、ほんとにナマの大学の皆さんの雰囲気を知りたくて…」

「図々しいお願いなのは承知しております。私の友達がこちらにいる、ってこの子に喋ったら、それなら一度行ってみたいって駄々こねられちゃいましてぇ〜…」

「友達?」

「誰だろ?」

「俺じゃないよ?」

「あ、えっと、私はチョコ…宇佐美千代子とルームシェアしている者で蝶野美由紀というのですが…」

 マッシュ女子はポンと両手を合わせた。

「ああー!宇佐美さんの知り合いなのね?それを早く言ってよ」

「す、すみません。緊張してしまって…」

「もー、しっかりしてよミュウ姉ちゃん」

 だと⁉︎おいおい、猫被りなんてレベルじゃねーわよ。

「僕、春の見学会に参加しようと思っていたんですが、あいにくと風邪をひいて行けなかったんです。えっと、ホントに!皆様のご迷惑でなければ、お話とか聞かせて頂けたら…」

「まぁ君も、そう固くなんないで座りなよ。コーラとか飲む?」

「えっ、そんな申し訳ないです!皆さんのお邪魔をするつもりは…」

「そうですよこのタヌキ…じゃないこの子には水でも飲ましときゃいいんですから」

「まぁまぁ。宇佐美さんは多分まだ講義中じゃないかしら?それが終わればお昼ぐらい…うーん、いつになるか分からないけど、多分午後には顔を出すと思うわよ」

「そうなんですか。あの、でしたら皆さんからお話をうかがっても良いですか?僕史学に興味があって、入学したらそういうのを深く勉強する機会ができると考えておりまして」

 男子生徒の一人が足を組んで身を乗り出した。

「へー、じゃあウチなんかドンピシャじゃないか。どんなジャンルに興味があるのかな?」

 おお。見事だ。辰之進め、あっという間に学生達の「大人ぶって後輩(候補)の世話を焼きたい欲」に火を着けてしまった。

 そこからはもう、辰之進の独壇場だった。テーブルにはいつの間にか紙コップとアルフォートの袋が出され、歴史研究会の部員は活動内容からメンバーそれぞれの選考学科、アルバイトの内容に加え部室棟内のちょっとしたサークルヒエラルキーまでを、この探偵助手のに一切合切公開してしまっていた。

 黄狸は瞳をキラキラさせながら、大学生達を程よく持ち上げつつ受験生らしい控えめで幼い夢と希望を滲ませる。ブリブリに可愛らしく彼らを魅了する口調も仕草も、猫被りというよりもはやプロの役者が演技しているようだった。

「───それじゃ、もう少し従姉妹と校舎を回ってみます。今日はありがとうございました」

「はーい。気をつけてね」

「迷ったら人に聞くといいよ」

「辰之進君が変な勧誘に引っかからないように、お姉さん気をつけてあげてねー」

 二人してニッコニッコと満面の笑顔でお辞儀をしながらドアを閉める。私は階段を下りながら辰之進を肘でつついた。

「いやーマミりん、見直したわ。あんた根っからの役者じゃん。もういっそさ、テレビとかそっちの方いけば?」

馬鹿ばぁも休み休み言えっす。アイツらがたまたま脳味噌ノーミソ空っぽなお人好しの集まりだっただけっすぉ」

 ガクンと声のトーンを低くしてかったるそうに肩を回す辰之進。

「ったく世間知らずの坊ちゃん嬢ちゃんとお気楽トークっすんの、疲れっすぉ」

「…うん、私にはそっちのあんたの方がいいわ。ただ、そう───ホントに見直した」

「褒めたってなんも出さねっすからね」

 可愛くない。でも、あーたりぃ怠ぃとこぼして歩く黄狸が、先ほどよりずっと好ましく思えていた。

「それよりボスとの連絡時間がそろそろのはずっす。あんたちゃんとスマフォ確認してっすか?」

 言われてスマフォを確認すると、ちょうどタイマーが切れる寸前だった。

『マミはうまくやったか?』

 ワニの声が反響している。非常階段かどこかから話しているらしい。

「そりゃもう。ただの大飯食らいじゃなかったのね」

 私は歴史研究会のメンバーから聞いた情報をそのまま伝えた。といっても、千代子の品行方正さと男子女子どちらからも好意を持たれているという事実の裏付けにしかならなかったが。

『ふむ。そのまま続けてくれ。俺はもう二件ほどめぼしいところに当たらにゃならん。二時間後に調整池で一旦落ち合おう』

 OKと返し、通話を切る。

 私と辰之進は続けて手芸部に行ってみた。そちらはギャルっぽい子がぐちゃっとした机に肘をついて一人でネイル作業をしていた。

 ドアの隙間からそれを見た辰之進、今度はちょっと低めの声でなおかつチャラめの口調に切り替えて登場。

「どもっす!うっわめっちゃ綺麗なカラーリングじゃないっすか!このリアルなビートルのパーツはもしかして自作?ですよねですよね!すげー!」

 立板に水。私だってネイルくらいは知っているが、ブライダル関連の業務ではかっちりとした身だしなみがモットー(おまけにプライベートのほぼ全ての時間をゲームとスポーツ観戦に費やす)なので、普段付けたりはしない。正直そっち方面は疎いほうなのだ。

「えっと?てか誰?何の用?」

 いきなり手芸用品を押しのける勢いで距離を詰めてきた辰之進に、ギャルは眉をひそめる。そりゃそうだ。

 しかし辰之進は「キラっ」とモフモフの横顔に真っ白な歯をこぼれさせた笑顔で───

「あっども!俺ぇ、千代子に会いに来たっすけどぉ、あいつ今いねーの?」

 いやそもそもこの子一人じゃん。白々しいにも程がないか?

「千代子の友達?」

「そっすそっす。なんだ入れ違いかぁ?遊ぶ約束があったんすけどぉ…」

 チラッとスマフォをジャケットから取り出して、メールを確認するそぶり。もちろん、小芝居だ。っていうか、あんた待受画面にワニの横顔の写真設定してるとかどんだけあいつのこと慕ってるのよ?

「あちっ、やべーミスった、俺間違えてたー!約束明日じゃんー。どーすんべミュウミュウ?」

 お。私に振るか。ここはそう、黄狸に合わせてチャラさ半分くらいのキャラに徹するべきかな?

「そーねー、一応メール入れて少し待ってさ、来ないなら学食で時間潰す?あ、ねえあなた、それまで私らここにいてもいい?邪魔しないからさ」

「あ、まぁ…別にいーけど」

「ゴメンね!うるさかったらすぐ出ていくから」

 ネイル女子、ちまちまと手先を動かしながら辰之進を見ている。…ん?なんか、顔が赤くなってない?

「悪ぃね!キミ名前なんてーの?」

「…心愛ここあ

「心愛ちゃん!キミすげーセンスいーね!見ててもいいかな?」

 言いながら辰之進、心愛の前のパイプ椅子に腰掛ける。私も隣に座った。二人の会話に興味がない風を装って、スマフォをいじるなんかしちゃってみたり。

「…好きにすれば」 

「ありがと!へー、これストーンは天然石じゃない?さっきから思ってたけど色合いがナチュラルで気持ちいいね。絵柄はシュタイナーで、アレンジはオリジナルかぁすっげーな。あ、俺勝手に喋っちゃうんだゴメン!」

 私は顔をスマフォに向けながら彼女の爪を盗み見た。確かに凝っている。今ちょうど左手が出来上がったところだが、五本指を揃えると波の上に人魚が跳ねているシーンになっている。

「別にこんなの…フツーじゃない?」

「そうなん?フツーどうなのか俺よく分からんけど、でもすげー丁寧に心込めてやってんのは分かるよ」

「そ、そう?」

「うん!見てるだけで楽しくなる」

 うん、見間違いじゃないな。心愛ちゃん、しっかり辰之進を見て顔を赤らめている。手芸なんかを趣味にしているあたり、芯は根気強くて真面目な娘なんだろう。

 そこから辰之進はくだけた口調で会話を続け、もう片方の手にネイルが入るまでずっとひっきりなしに喋くっていた。

 彼女によると、学内で千代子に惚れている男子は多いが、行動に移せている者はほとんどいないらしい。バレンタインデーにも友チョコを配るばかりで本命をあげる相手はいない(私ももらったが、パティシエレベルのビターテイストなトリュフでめちゃくちゃ美味しかった)。テニス部の副部長とサッカー部の部長は告ったが玉砕とのこと。

 手芸部の部室を出るあたりには、最初の無愛想さはどこへやら、心愛はネイルが完成したばかりの両手バイバイで見送ってくれた。

「ねーマミりん、あんた何者?ホスト?」

だぁがホストっすか。あんな軟弱な連中と一緒んすんなっしゅ!」

 部室棟を出て調整池の方にてくてく歩く。昼ごはんどきで、キャンパスの学生達が建物から出てきたり入ったり賑やかだ。

「だってさー、相手によってコロコロ話題変えるしキャラも自由自在じゃん。さっきの娘…心愛ちゃんからLINEアドレスもらったんでしょ?」

「こんなの、業務に必要だからやってんすぉ」

「にしてもさぁ」

「っせーっすなぁ。あの娘もどーせ、俺の顔だけ見てただけっすぉ」

「あんたの顔?ただのズングリした狸じゃん、のさ」

 辰之進はブブブブーっ、と唇を鳴らして答えた。

「そりゃあんたは天賦の才ギフト持ちだからそう見えてるだけっすぉ。けど、普通の人間っしゃっしたぁ、俺は───」

 言っているうちに、緩い坂を下りきって調整池に出た。トレンチコートの低い背中が池を見下ろしている。

 ボス!と叫んで黄狸は駆け寄る。私も少し遅れて追いついた。

「まずは、これでも飲め。それから調査結果を聞こう」

「サンキューボス!」

「ありがと。マミりんに付き合ってキャラ作って喋ってたから、喉カラカラよ」

 差し出された缶コーヒー。口をつけたら、一気に飲み干してしまう。

 そんな私達の横で、ワニは懐から例のパイプを取り出して煙草を詰める。

 ふと、その太い首回りに目がいった。何か巻いているなと思ったら、入校証が提げられている。

 なるほど、普通の人間からしたら学生には見えないとは、こういう必要が出てくるということか。ご苦労なことだわね…

「───って、んんん⁉︎」

 私は思わずワニの胸元に見入った。

「どうした。何か妙なモンでもついてるか」 

「いや、あんたのつけてる入校証…」

 学外の人間が、学内への所用があって身に付けるもの。若い自分や辰之進には必要ないと言っていた身分証。

 おそらく入校手続きの際に撮影した顔写真入りの───

「はぁぁぁぁぁ⁉︎」

「ブフッ、いきぁり大声出すなっす!」

 ワニからもらったコーヒーを味わって飲んでいた辰之進の叱責。

「い、いや、だってさ、だってよ?それ、その、写真に」

「ああこれか」

 ワニは入校証をつまんで持ち上げる。

 そこにはワニの氏名の下にスマートフォンで自撮りしたらしき写真が貼り付けてあった。

 ワニではない。どころか、ではない。

 まごうかたなき人間の輪郭。短髪で、顎までがっしりしていて…

「ちょっとよく見せて!」

「ぐえっ」

 私はひったくるようにして入校証に見入る。張り詰めた紐に喉を締められてワニが爪先立ちになるのも構わずに。

「ボスに何するっしゅっすか!」

「うるさい黙れ!」

 こんなにまじまじと他人のポートレートに見入ったのなんて生まれてこのかたなかった。だって、そこには…

 側面を刈り上げたツーブロ短髪。

 がっちりした太い首回りに僧帽筋の発達した広い肩。

 掘りの深い顔立ちに口髭を蓄えた、“テキサスの狂犬”と称賛されたレスラー、若き日のディック・マードックのそっくりさんがいる!

「も、もういいだろ…?」

 ソフトな首吊り状態のワニが呻くので、放してやった。眉を立てて詰め寄ってくる黄狸。私は自分のスマフォを向けてカメラ機能を開き、シャッターを切る。

 その瞬間、電撃を食らったみたいに黄狸は倒れこんで短い手足をジタバタ振り回した。

いぃっで!なんっ…しゅっすかこンのアマ!」

 私はスマフォのアルバムに入った相手の姿に唾を飲み込む。

 きつめのウェーブをかけた金髪マッシュな青年が写っていた。クリっとした薄灰色の大きな瞳に細い眉毛で、顔も小さい。どことなく西洋の王室の血が入っているような気品すら感じさせる。

「…───まるでどっかのやさぐれ御曹子おんぞうしじゃん…これ、なんなの」

「見ての通りのマミさ」

 痛っで、痛っでと身悶える黄狸をよそに、ワニはトレンチの襟を整えながらスマフォをしまうようにゼスチャーする。

「え…?つまりどういうこと?」

「敢えて説明する必要がなかったから黙っていたがな、写真には俺達姿が映るんだ。そしてだな、そいつは文字通り魂を削られる行為なんだよ」

「魂を…削る?」

「よく分からんって顔だな。そうさなあ、あのお方のげんによると『付喪神の真体しんたいを時空間に定着させる』行為にあたるらしい」

「うん余計に意味分かんない。もっとイージーにラフに言って?」

「だぁっら!俺達の魂を屋台のドネルケバブみたく薄ーく削って、一枚のデータにしてるってことっすぉ!」

「へーえ。それでアンタ痛がってるわけね」

「軽く言うけど死ぬほど痛ぉっしゅ!もう怒ったっす!喰らえ狸屋流ウルトラ必殺ねじりんぼパーンチ‼︎」 

「大袈裟に騒ぐな阿呆」

 私に突進してきた辰之進をワニが尻尾で薙ぎ払った。辰之進は吹っ飛ばされながら

「ソーリーボス!」

 と叫ぶ。

「済まんな。我々と人間の常識の違いというやつだ。今後は写真を撮るのは勘弁してやってくれ」

「え〜?大袈裟に言ってない?」

「マミの言ってるのは本当のことなんだ。動画だとそうでもないんだが…なぜか写真だと削られる量が多いのかダメージがデカいんだ」

「それも全力パンチで鼻っ柱折られるぐれーっす!あー許せねえ、やっぱオイラの渾身の一撃を!食らえっす!」

「お前もガタガタうるせえぞ。男なら耐えろ」

 今度はワニのハイキック。辰之進はまたしても「イエスボス!」と甘んじて吹っ飛ばされる。

「…さて。蝶野サンの好奇心は満たされたかな。そろそろ報告を頼む」

 まだ聞きたいことはあったが、それは事件が解決してからの後回ししよう。とりあえず辰之進の人間バージョンの姿をアルバムにしまって、ついでに千代子にLINEで送っておいた。

「チョコの所属してる部活のメンバーからは、犯人っぽいアタリはつけられなかったよ。人間関係でも恋愛関係でも、そういう噂はなし」

 戻ってきた黄狸も肯定する。

「そっすね、あン娘の接触してる範囲では危害を加える輩はいねーみてっす」

 ワニは広い顎をボリボリ掻き、爽やかな五月の空を仰ぐ。

「ふむ。よく調べてくれた」

「あんたの方はどうなのよ?収穫はなかったの?」

「俺か?無論、あったぜ」

「ウソ⁉︎何?もしかして、まさかもう犯人見つけちゃったとかじゃ───」

 パイプの火皿の中身を携帯灰皿にあけ、ワニは思わせぶりに肩をすくめる。

「まあ焦るな。こういうのはな、相手を特定し証拠を揃えたら一気に詰める。ストーカー野郎が逃げる隙を与えねえことが第一だ」

「えー、勿体ぶっちゃってえ!」

「そうさな…もうあと一歩、最後の一押しが重要だと言っておくぜ。じゃ、俺はまだ調べ物があるんでな」

「ちょっと!」

 ワニはぴたりと足を止め、振り向きがてら叫ぶ。

「マミ、くれぐれも蝶野サンを頼むぜ!」

 黄狸は踵が鳴る勢いで脚を揃え、

「ラジャーっすボス!」

 と敬礼をした。軍人かよ。

「よーっ、し!したら俺らはボスの足、引っ張んねっすぉに聴き込み続けっすぉ!」

「っすぉ!って、じゃあ手当たり次第ってこと?何か作戦とかあるわけ?…あ、チョコからLINEだ」

『ミュウミュウ、ありがとね。こちらはいつも通り…と言いたいけれど、私ダメね。いつもより口数少なくなっちゃってたみたいで、友達から心配それちゃった』

 うーん、それは無理ないと思うよ?小包爆弾を送りつけられて、ヘラヘラしてる方が普通じゃないもん…と。返信。チョコってばこんな時にまで気を回すんだから。

 『ところで、今ちょっとだけいい?渡したいものがあるの。ご飯はもう済ませた?』

 え?まだだけど…と。

『良かった。今いる場所を教えて?』

 えっと、大きな人工池のところだよ…っと、送信。

「なんて言っしゅっすか?あの娘」

「ちょっと!横から覗かないでよ」

「何ァにバカなことほざいてっすか?定時報告は共有しなきゃ意味ねっすぉ」

 黄狸とわちゃわちゃしていたら、遠くから名前を呼ばれた。スマフォから顔を上げたら、友達グループを土手の上に残してこちらにチョコが駆けてくる。

「ごめんねミュウミュウ!あれ、庭田さんは?」

「ワニなら調べ物があるって言ってどっか行っちゃった。どしたの?」

「そ、そう。あのね、良かったらこれ、ミュウミュウと狸屋さんで食べてみて。学内カフェ限定の、名物なの」

 千代子は校章がプリントされた紙袋を差し出した。

「食い物っすか!ヒャッホウ♬」

「おいマミりん、アンタほんとに意地汚いよ!ありがとチョコ。ちゃんとワニにも残しとくからね」

「あ、いいのよいいの。その…狸屋さんとミュウミュウだけで食べて大丈夫だから」

 そうは言っても。乙女の想いのこもった差入れを、当の本人を差し置いて食べるわけにはいかないじゃない…

「分かった。私ちょっとワニ探してくるから。じゃあチョコは午後も一人にならないよう気をつけてね」

 千代子はいじらしくモジモジしながら頷く。黄狸はといえば、さっさと袋の口を開いて

「ウヒョッ!こン学校ガッコで一番高いランチセットじゃねっすか!」

 と、座り込んでいただきますをしている。もー、空気読めない奴だな。

「じゃあ私、ワニんとこ行ってくるからね。私のぶんもワニのぶんも取っといてよ!」

「へーいへい」

 私は千代子を見送り、黄狸を池の側に残してワニが向かった方へ歩き出す。

 一応、先に用件をLINEで伝えとこうかな。まだ近くにいるはず。なんせあの歩幅だもの。

 えーと、そのまま書くと『マミと食っとけ』とかにべもなく返されそうだな。どういう文面だったら、あの真面目な仕事人に差入れを受け取らせることができるやら…

「あのー、キミ、ちょっと」

「あ、はい⁉︎」

 いきなり呼び止められて心底びっくりした。声をかけてきた方もビクッと背筋を伸ばして一歩下がる。

 気の弱そうな、パーカーにジーンズの男子学生が片手を出して戸惑っていた。

「あの、さ。キミ、英文学科の宇佐美さんの知り合いだよね?」

「ええ、そうです。えーと…?」

 パーカー君は控えめな笑顔で会釈してきた。

「ども。僕、一年の山本。カノジョが宇佐美さんと同じクラスなんだけど、周りで変なことがあるって聞いてさ。今そこで変なヤツが宇佐美さんの後ろから尾行けてるのを見ちゃったんだよね。それで…」

「えっ⁉︎どこどこ?どんなヤツでした?」

「それなんだけど、見失わないように彼女に見張らせてるんだ。ちょうど良かった、キミ、一緒に来てくれる?急がないと学外に出られそうなんだって」

「行きます!案内して!」

 山本君、ついてきてと言う代わりに機敏に小走りになる。私もついていく。こういう人が出てくるのも人望だよね。さすが私のチョコ!

 行先は校舎の裏手の下り坂にあるグラウンドを回ったところ、雑木林だった。到着まで10分もかかっていないだろう。

 その奥へと続く人気ひとけのない小径で、山本君はスマフォを取り出してカノジョさんとやらに連絡する。

「うん。もう来てる。えっ?…ああ、分かった」

 昼なお暗い林の中。道の突き当たりは急に開けた草地になっていて、ぱっと見四、五階建ての古めかしい講堂があった。全体に足場が組まれていて、どうやら工事中らしい。

「あれは?」

「ああ、講堂なんですが老朽化で取り壊し中なんです。危険なんで今は立ち入り禁止になってますよ」

 なるほど。…で、目当ての場所はその隣にちんまりとあるプレハブ小屋か。いかにも不審者が隠れるにはうってつけだ。

「ここ…?」

 工事現場によくある組み立て式の造りだ。窓はこちら側に四つ。そして金属製のドアがひとつ。

「案内ありがとうね。きみのカノジョさんはどこ?危ないから離れてた方がいいと思うよ」

「ごめん」

 え、何が?

 バシ。

 いきなりムチで打たれたような衝撃が胸に来て、私は意識が飛んだ。

 

「マジ勘弁っすよ、人死にとか。俺まだ在籍してンすから…」

「ええまあ、分かりますよキミの都合は。心配せずともそちらの条件は最大限に考慮してフィックスしますから」

 足元の方から二人分の話し声がする。やけに反響していて遠いのか近いのかよく分からない…

 私はずうんと重い頭を起こした。かまぼこ型の漆喰天井に、高く梁が渡されている。天窓から差し込んでくる太陽光が目に痛い。と、鼻の奥がムズムズして…

「ぐえっくしゅっ!っ?けべほっ、エーッホ、エホエホ!」

 おっさんくさいクシャミをしたら、吐息が鼻から爆出した。喉が苦しくて二、三回激しく咳きこむが、それは口からではなく鼻から出ていった。

 完全に目が覚めた。っていうか、いつの間に寝てたの、私?

 鼻から息を吐くたびに鳩尾の上あたりがズキズキする。口がぴったり縫いつけられたように塞がれていて、ひたすらに気持ち悪い。

「あっ、その人、目を覚ましてるみたいっすよ」

「見れば分かります。ちょっと見張っててくださいね。すぐに戻りますから」

 クリアになった意識から、ここは私が不審者を追いかけて辿り着いたプレハブの中───ではなく、立ち入り禁止にされている解体中の講堂らしいと当たりがついた。学祭などで使う山車、大小の段ボール、折り畳まれた会議用テーブル、パイプ椅子、ブルーシート…その他諸々の雑多な用具が整理されて壁際に積んである。

 私は年月を経て飴色になった板張りの床に転がされ、手は後ろ手に縛られて足もくくってある。口は多分、ガムテープで覆われている。拉致監禁の見本じゃないの。

「苦しいかもしれないけど、少しガマンしてればすぐ終わるよ」

「ン〜!」

 この野郎、ふざけんじゃないわよ!…と叫んだつもり。

「アンタもさあ、素人が探偵ごっことかするもんじゃないって。これに懲りたら大人しく手を引きなよ。ね?」

「ンッンン〜ン!ンンン〜ン!」

 ナメんじゃないよ犯罪者が!私は友達を見捨てるようなことはしない!…と叫んだつもり。

「いや〜元気だねーお姉さん。根性あるってゆーか、この状況でビビってないのはすごいな」

 声の主が回り込んで、私の頭側に来た。見下ろすその顔。

 ───私をここまで案内した、あの男の子だった。

 そして私は目を見開く。この顔にはもう一つ見覚えがある。

「ンッ⁉︎」

「あれ、もしかして気づいちゃったの?お姉さん」

 気付くも何も。

 どうして今まで忘れていたんだろう。

 気弱げに笑うその顔は、昨日の宅配便(を装った、偽の)業者の青年だった。

「あ〜…そのカンジだと分かっちゃったかぁ。うんまぁ、そゆコト」

 ということは…

 私は目を瞑る。なんてバカ!タイムマシンがあれば飛び乗って、過去の私にラリアットをかましてやりたい!

 つまり、私は自分の部屋を燃やしてくれた相手にノコノコとついていって、あまつさえ捕えられてしまったということだ。

「お待たせして申し訳ない。ちょっとかさばる荷物で…持つのを手伝ってくださいませんか?」

 先ほどの、もう一人の声の主が帰ってきた。何か重いものを引きずっているらしく、苦労している息遣いに床を擦る音が重なっている。

 青年がそちらに行って、協力して何かを運んできた。

 ズン、ドボチャ。

 着地の瞬間地響きがして、私の横向きの視界に1m四方はあろうかという段ボールが置かれた。丈夫なPPバンドで梱包され、持ち手が二つついている。かすれた、見慣れない細かな漢字のプリントがびっちりプリントされている。ってこれ簡体字か…

 ひとつだけデカデカと読めるものがある。『稀释剂』…?ってなんのこと?

「ふう、台車が使えたらよかったですね。騒音の立ちにくいゴムタイヤのものでもプリペアしましょうか。リスケは山ほどあります…やれやれ」 

「あっのー、コレ何なんすか?」

「あ、分かりませんか?」

 ヂリヂリ、バシ。乾いた重い音。

 唸り声ひとつ立てず、山本君が目の前に倒れてきた。白目を剥いて半開きの唇から涎を流し、ビクビク痙攣している。

「ここまできて自分が計画に組み込まれている事を予見できないとは、ほとほと見通しが甘い人ですね。を見られてタダで帰す理由が無いでしょうに。そんなだから留年するのですよ。さて…」

 ほて。ほて。ほて。

 柔らかな足音が私の背後から回ってくる。

 まさか、まさか。それって───

「私なりに調べたのですが、このやり方ならに見えるらしいのですよ。拘束具は死亡する前に燃え尽きて、そのあと筋肉が熱反応に従って自然なボクサー型姿勢になるそうです。唯一つの難点は…」

 は、少し身を屈めて私の口のガムテープを雑に剥ぎ取った。

「痛ったい‼︎ぁにすんのよ唇剥けるじゃん‼︎」

「こうしておかないといけないのです。気管にすすが入っていない、もしくは微量である状態では焼死以外を疑われてしまうそうで───」

「このクズ!あとで覚えときなさいよ‼︎」

 そう、そこにいるのはスーツを着た、まごうかたなき赤い犬のぬいぐるみだった。

 ワニや黄狸、千代子と同じく魂を得た動くぬいぐるみ。それが片目をすがめ、汚物を触ってしまったといわんばかりにもこもこの手先をハンカチで拭っている。

「おお、勇ましいことで。声が出る状態になって一言目がそれですか」

 私は正直、他人に対して本格的な憤怒を抱いたことはなかった。今日、この時までは。…っていうかこの場合というべきなのだろうけど。

「───どーせ、私が叫んだりしたところで誰にも聞こえないような場所を選んでるんでしょ?違う?」

 相手は低い背を反らせ、クフクフと笑う。

「勘どころが素晴らしい。千代子さんのルームメイトに相応しいですね」

 話しながら、必死に考えた。後ろ手に拘束されている紐だかゴムだかを緩めて、時間を稼ぐ?足は自由だ。素早く行動できれば、隙をついて蹴りをお見舞いしてやれるだろう。それに私が戻らずにどれぐらい経ったのか分からないが、ワニも辰之進も捜索しているはずだ。

「そう言うアンタはチョコに似合うとでも?」

「ええ。それはもう」

 相手はくるりと回ってウインクした。

「どうですか?ミニーに対してのミッキー、デイジーに対してのドナルドのように、古今東西あらゆるキャラクターは不動のつがいを持っているもの。私が、私こそが千代子さんに相応しい男でしょう?」

 これがどこかのテーマパークだったら、紙吹雪舞い散る中でなら、とても相応しい行動。

 色褪せも傷もない真っ赤なフエルト地の犬のぬいぐるみ───どうやら小包爆誕を仕掛けた犯人もこいつらしい。人間どころか虫さえ殺せそうにない、可愛らしい、優しげで愛嬌のある顔の造作。子供が抱き抱えて喜びそうなデザイン。

「ご覧ください。非の打ちどころのない完璧な造形と愛らしさ。虫ケラのように穢れておらず、より完全な生命体でしょう?」

 くるくる周り、手足をちょこまかと動かして踊る。こういうシチュエーション、アメコミヒーローものの映画で見たことあるぞ。悪役が得意になってるシーンにありがちなやつ。

 私は鼻で笑ってやった。

「馬ッ鹿みたい。こそこそ女の子をストーキングして悦に入ってる変態のくせに」

 ピタリと動きを止め、赤犬は私を見下ろした。その表情は…とてもとは思えないほど醜悪な憎悪に歪んでいる。

「はあ…やはり人間ヒトメスはダメですねえ。ぬい我々のようにキュートさがない。子供の内は私達に近しい存在なのに、成長するとどうしてこうもみっともなく卑しくなってしまうのでしょうか」

「あんた、ロリコンのまであるの?救えないクズだね。そんな変態よりかずっとマシなにあの子は恋してんだよ。天地がひっくり返ったって、そのキモい手には入らないよ!」

「少しは口を慎んだらどうです?」

 そう言うと赤犬は私の顔面を蹴り付けた。鼻を中心に嫌な衝撃が走り、ぬるっとした熱いものが口元へ垂れてくる。

 そのショックが私の脳に揺さぶりをかけた。

 ぬいぐるみの連中はおしなべて個性が強い。こいつの容姿はここ数日中に目にしている。いつ?どこだろう?

 ───神社で私がコケたとき、私がこの天眼ギフトを授けられたきっかけ。

 あのとき丁度そばにいたサラリーマン風の赤い犬のぬいぐるみ。あれも、こいつじゃん!

「神社の石段にもちゃあんと蝋を塗っておいたのに。まさかあそこで死なないとは誤算でした。…まあ邪魔が入ったから致し方ないですけどね」

「…っ、この…」

 頭の中の深いところにチリっと電気が走る。脳細胞の奥底がむず痒いような。

 なんだろう。このぬい、それよりもずっと以前にどこかで…?

 火。ぬいぐるみ。燃え上がるカーテン。軋む木の廊下。昭和の塗り壁の古い家。お爺ちゃんが建て、私の幼い頃を過ごした家族の家…

「そこまでっすよ悪党!」

 辰之進の声。赤犬がそちらへ身構えた。

 ビニールシートで幕がしてある講堂の入口に、黄狸が仁王立ちで気炎をあげている。

「女を縛って暴力っしゅあ、マジ許ぇしぇっす!ズタボロにしてやるかぁ覚悟っすっせぇ‼︎」

 怒りのあまり普段から絶望的な滑舌が更に悪化している。けど…今だけは心底ホッとした。

 と、今度は全然違う高い方から塩辛い気合いが降ってきた。

「せぇぇぇぇいッ」

 スパイダーマンのように空中を飛んできたワニが、赤犬に体当たりを喰らわした。身長は同じくらいでも体積が違う。赤犬はたまらず丸くなって吹っ飛び、反対側の壁に激突!

「あ、ワニ…」

 トレンチコートの背中に言葉を失くしてしまう。こちらに顔を向けていなくても、ずんぐりした背中に湧き上がる果てしのない憤怒ふんぬが見てとれるから。

「───…テメェ蝶野サンの顔に傷なんぞこさえやがって…」

 囁くほどに小さな音量。なのに、一音一音が粒立つぶだって鉛の玉のように床に落ちて広がる。

赤犬あかいぬといえば火事の代名詞だったっけな。油断したぜ…情けねぇ」

 太短い尻尾をブン、とひと振り。

 開いた両腕の先に伸ばした鉤爪が、凶悪な鈍色に輝いている。

「殺しちゃダメだよ!」

 咄嗟に口走っていた。さっきまで心の中で一億回くらいクソぶっ殺す!とか思っていたのに。

「…お前さんの頼みでも、それだけは聞けねえ」

 ずん。ワニの足がうずくまっている赤犬へ一歩進むと、殺意のこもった地響きがした。

「ダメだったら!」

 私はよろめきながら立ち上がり、両腕の自由を奪われたままワニの背中へ押し倒さんばかりに縋りついた。

「そんなことしたら、あんただってこいつと同じになっちゃうよ!こんなくだらない奴に付き合うことない!そんなの私、私は望んでな───」

 ワニの体から立ち上る煙草の匂い。鼻の奥で火花が散ったようだった。唐突に目の前に映像が滝のように流れる。

 抱きしめた古いワニのぬいぐるみ。家の中で焔に包まれる恐怖。放水。水飛沫の冷たさ…

 ───そして記憶が結びつき、像を成す。

「クロコ…?」

 私の呟きに、ワニはギクリと歩みを止める。

「そうだよ…そうだよね?私が子供の頃家にいたぬいぐるみ…お爺ちゃんが昔パパに買って、そのまま私がもらった特大ワニの…」

 …おい美由紀、お前パパが買ってあげたぬいぐるみよりそんなのがいいのか?

 …そうよ、せっかくパパが海外出張でお土産にした新しいのがあるでしょう?

 …それ、顔がブサイクで怖くて、パパがいらないって言ったやつなんだぞ。

 …あとね、あまり抱っこしてねちゃダメよ。長年お爺ちゃんの煙草の匂いが染み付いてて、朝になったら美由紀にもうつっちゃってて。ママ、幼稚園のママ友からなんて言われるか。

 そんな風に両親からは疎まれた。隙あらばゴミ箱へ突っ込まれていた。それでも私は、その度にそのワニのぬいぐるみを救出して自分の枕元まで運んでいた。

 私のお気に入りだった。匂いはちょっとクセがあったし、綿ワタはすっかり固くなっていたし、お世辞にも愛嬌のある造形ではなかったけれど。

 ベッドの中で抱きしめていると、怖い夢や悪い想像から守ってくれる気がしていたから。

 だから私はそのぬいぐるみに、クロコダイルからとった『クロコ』という名前をつけて、すごく大事にしていた。

 あの、火事の夜に行方が分からなくなるまでは。

「思い出してくれたのか…」

 ワニが呟く。私は頷く。

「私、あの夜、あんたを持ち出そうとして家に戻ったんだよね。それで火に巻かれちゃって…」

 ワニの肩から力が抜けていく。

「…あんたが私を助けてくれたんでしょ?気がついたら家から離れた草むらで、一人で倒れてたんだよね」

「そうか…」

 ワニはゆっくりと振り向いた。

 丸っこくデザインされた顔の中、ワニらしくギョロリとひん剥いた目玉がえもいわれぬ哀しみをたたえている。

「やっぱり、は忘れているのか」

 ぽつりとこぼす。

 私が何を忘れているのか、どうしてそんな表情をするのか訊こうとした瞬間、赤犬が弾かれたように胸を反らした。

「クァーッハッハッハッハ!これはお笑い種ですねえ。が人間を庇うとは!」

「黙れっしゅクソ野郎。もう警察マッポにも連絡しえっし、てめぇは終わりっしゅ!」

 黄狸がスマフォをかざして叫ぶ。

 そうだ。ここでこうして待っていれば、警察が来てカタをつけてくれる。何もワニが手を汚す必要もない。私たちの勝ちだ! 

「110番通報から到着までは、平均9分以内だそうですね」

 赤犬は高級そうな腕時計を見下ろし、悠然ともう片方の手をスーツの内ポケットに入れた。

「安心してください。企画シームはまだ進行中です。ただ、多少のリスケをさせて頂きますが」

 赤犬の胸元でカチリと何かが押された。

 講堂の隅から甲高く尾を引く起動音がして、ブーン…という幾つものうなりが立ちのぼる。

「ここからは物量戦術を取らせて頂きます」

 天窓の光が届かない壁際から、何かが空中を滑って近づいてくる。ファンタジー系ゲームなら赤く目を光らせたしゃれこうべといったところだが、プロペラで浮いたドローンの群れだった。

「貴方達の外見データを入れた特注品です。残念ながら、数は失念してしまいましたがね」

 笑いながら赤犬は物陰に駆け込んだ。

「てっめぇ!どこまで往生際おーじょーっわ悪っすか⁉︎」

 追いかけようとする黄狸をワニが静止する。

「ほっとけ。それよりこっちに来て蝶野サンを護るんだ!」

 ワニが手早く私の拘束を解く。自由になったのはいいけれど、怪鳥の一団のようなドローンが私達を十重二十重に囲んで旋回している。

「───来るぞ!」

 第一陣が突っ込んでくる。それをワニは飛び上がって尻尾ではたき落とす。…と。

「っ⁉︎どわっ」

 地面に落ちるやいなや、ドローンは基部から爆散した。のみならず、周囲に炎を撒き散らす。ワニはからくも火の粉を避ける。

『言い忘れておりました。それらには一部、可燃性の液体が仕込んであります。強い刺激を与えると発火しますので、お気をつけて…』

 赤犬の高笑い。

「姿を見せなさいよ卑怯者!」

「いいから蝶野サンは俺とマミの間にいろ!」

「そっす!こーゆー荒事あらっとは俺達の仕事っすぉ‼︎」

 ワニはあくまで拳と足技と尻尾で、そして黄狸はそこら辺から拾ってきた棒切れでドローンを叩き落としていく。

『ヒトの肩を持つとは愚かな達ですね。貴方達が現れなければ千代子さんはいずれ合法的に私のモノになったというのに…。いい機会です、私の恋路アジェンダの邪魔者ともども泥棒猫には灰になってもらいましょう』

だァれが猫っすか!ボスはワニ、俺は狸っすぉ‼︎」

「いやそこ気にしてる場合じゃないでしょ」

『黙らっしゃい。品の良くない下衆め』

 ドローンの群れが、赤犬の意識を反映したかのように一斉に黄狸に向かってくる。ヤバい!

「マミぃ!合図したら頭ァ下げて伏せろィ!」

「⁉︎ラジャー、ボス!」

 ヒッチコックの懐かしのパニックホラー映画のように、ドローンの集中攻撃を受ける黄狸の傍らを離れ、ワニは機材を覆っていたビニールシートへ駆け寄る。私もすぐにその意を察して走り、反対側のシートの端を強く握った。

 ワニの目玉と私の目がばっちり合う。心が通じた。私は頷く。

いちィ!ィ!の…」

 私とワニはシートを把持して走った。その勢いを緩めずに、床を蹴って跳躍。

さんっ‼︎」

 黄狸がずんぐりした胴体を倒して転がる。私とワニは集まっていたドローンを空中でかき集め、シートの下にねじ伏せる。

 ドン!───手応えがして、シート全体が巨大なキャンプファイヤーとなった。講堂の高い天井を舐めるほどの火柱が立ち上がる。

「大丈夫か、マミ!」

「はいっす!」

 黄狸が起き上がり、力強く答える。

「奴は───?」

「…あそこ!」

 一気に充満してくる煤煙の中、私はステージの横にむき出しの階段を登っていく赤犬のおぼろげな姿を指した。

「いい眼だ!よし。マミ、お前は蝶野サンとそこに伸びてる間抜け小僧を外に連れて行け。俺は奴を追う!」

「ラジャー、ボス!」

 発火装置を仕込まれたドローンの山が作る紅蓮の炎が、そちこちへと赤い火の鱗粉を飛ばしている。早く消防を呼ばなければ、この建物全体に火が回るだろうことは…って、だから既にメラメラ燃えはじめてるんだってば!

 イカン、混乱してる。私。FPSで敵方に囲まれた時にはどうするか───

 私は自分の両頬をパァン!と張った。少しは冷静さが戻ってきた。

「ね、マミりん、あんた一人でこいつを運べる?」

「は?はぁぁ?何言ってっしゅかあんた、ボスも命令したっすぉ!ココは一目散、スタコラ逃げるんす!」

 私は黄狸に詰め寄って、爪が白くなるくらい強く両肩を掴んだ。

「私、決着を付けたいの。子供の時からの因縁なの。お願い」

「お…っ…」

 黄狸は口を大きく開けて、でもすぐに閉じた。

「───ラジャーっす」

「ありがと!」

「あっと、コレ!持ってけっす‼︎」

 走り出す私に、短い腕を振りかぶり、黄狸が何かを放ってきた。画面がガタガタのスマフォ。奪われていたらしい私のスマフォの代わりに、パンツのポケットに突っ込む。

 ワニの後を追う。炎が近くにあった山車に燃え移りかけていた。

 足手まといとか、そんなことはどうでも良かった。ただ、私の直感がワニだけに任せてはおけないのだと告げていた。

 

 階段を三階分ほど一気に上がり、息を切らしながら講堂の屋上に出た。雨水が自然と樋に流れていくよう勾配つけられた灰色のコンクリートの中央に、大きな天窓の強化ガラスが太陽光を反射して小さな池のようにキラキラしている。

 それを背に、赤犬は大空を抱きしめるように腕を広げていた。ムカつくほど余裕の態度。

 ワニはというと、その真ん前に対峙している。

「ああ。空が高い。領域に阻まれているので行ったことがありませんが、南国の海のように青い。とても空気が澄んでいて気持ちがいいですねえ───けれど…」

 眉がぐにゃりと撓み、歪んだ笑顔になった。元が可愛いつくりなだけに、嫌らしさが一層濃く見える。

「───地球が焼け落ちるような夕焼けの方が尚のこと美しい」

 川崎市におけるただ一体ひとりの探偵は鼻白んで吐き捨てる。

「何をほざいてやがる。詩人気取りか、この変態」

「ふむ…意見の相違は憂うべき悲運です。それに私からすれば、ヒトに執着する貴方がたこそが変態キンキーの謗りを免れない存在ですよ」

 赤犬は続ける。まだ何か隠し玉を持っているかもしれない、それを用心しながらワニはジリジリと歩を詰めていく。

「ねえ。貴方は、初めてとして目覚めた時のことを覚えていますか?」

「…この期に及んで与太話かよ」

 芝居がかった調子で赤犬は額に指を当てる。

「私は覚えていますよ。小さく、少し古めかしいレトロな家でした。そこに迎えられたあの日もそう───こんな抜けるような晴天でした」

 私はそろそろと進んでワニの後ろについた。

「その家の主人はまだ若い父親でした。娘のためにと、私を購入したのです。しかし…意に反して私は気に入られず、放っておかれました」

「なんの話してんのこいつ?」

「蝶野サン!なんでマミと逃げなかった⁉︎」

 赤犬がゆっくりと顔を私に向ける。

「ああ、ちょうど良い。貴方にも聞かせてあげましょう」

 ワニは舌打ちをし、私の前を塞ごうとする。それを押し除けて前に出てやった。

「ゴメンって一万回謝って土下座する以外に何か言うことあるわけ?」

「私が…謝罪を?」

 赤犬は笑った。鼓膜を引っ掻くような耳障りな笑い声で。

「やはりヒトは醜い。幼い頃は可愛らしく天使のようだったのに。成長すると薄汚れてしまうのだから。ねえ?

 私は唇を噛んだ。やっぱり、そうか。

「あんたも…ウチにいたぬいぐるみなのね」

 ワニが驚いて口を開ける。

 赤犬はほんの少し肩をすくめた。

「つまり…私のせいなのね?あんたがそんな風に歪んだのは。私が…クロコばっかり大事にして…ないがしろにしてたから…」

「蝶野サン…」

 父さんが買ってきてくれたぬいぐるみのことを、正直言って憶えていない。子供は残酷だ。一つお気に入りが見つかれば、それ以外には頓着しない。

「そうなんだとしたら…半分くらいは私にも責任あるし。それについては謝るわ。───ごめんなさい」

 両手を膝に揃え、頭を下げる。

 ワニは何も言わずにそんな私を見守る。

「魂を持てたのに、放って置かれて辛かったんだよね?本当に申し訳ないと思う。償えというなら、償うわ。だから…ね?だからもうやめて。これ以上誰かに迷惑を…」

「償い?虫ケラが?私に?」

 赤犬はケタケタと笑い出した。

「貴方は何を勘違いしているのですか?私がとして目覚めてすぐに実行したのは、貴方の古臭い家のガス管を開いてライターを点けっぱなしにしたことですよ」

「なっ───」

 今度は私が絶句する番だった。

「あの夜の事はつぶさに憶えています。二歳くらいの貴方は、とても愛らしかった。丸くて、小さく、まるでお人形…いえむしろ、私達の仲間ぬいのようでした」

 赤犬はゆらゆらと体を揺らす。体和の色も相まって、まるで炎の化身のように。

 ワニが一歩、前に出た。

「子供部屋は二階でしたね。ベッドの中でそこの醜いワニを抱きしめて眠る貴方を眺め、私は気付いたのです。ああ、なんという悲劇だろう。こんなに美しい存在が、やがて大人となってその容姿を変えてしまうなんて。このまま時を留めておくにはどうしたらいいのか…」

 もう一歩。ワニはもう赤犬に飛びかからんばかりの距離だ。

「かの有名なヒトの戯曲にもこんな言葉がありますね。“時よ止まれ、お前は美しい”───そこで私はそれを実行したのです。まさか逃げられてしまうとは想定外でしたが」

「この綿ワタクサれ野郎がッ‼︎」

 ワニの跳躍。赤犬は側転してそれを避ける。続け様に後ろに回り込んで何かを投げつけた。

 ワニのコートにジワリと液体の染みが広がった。赤犬は髭剃りシェーバーに似たものを向ける。

 え、あれってもしかして、私が食らったのと同じスタンガンじゃ…

 針金のようなものが発射され、バチっと青白い光の橋がワニと赤犬をつなぐ───

 瞬時にしてワニは火だるまになった。

「クロコ!」

 叫んで駆け寄ろうとした私に、赤犬は手元の機械を向ける。

「これは貴方を気絶させるのにも使ったスタンガンです。頭をちょいと使えば、このように便利な着火装置にもなりますよね」

「あんた…」

 燃え盛るワニを背に、赤犬は大きく溜息を吐いた。

「私が綿密に立てたスキームをよくもここまで引っ掻き回してくれました。まあ…丁度いい機会です。だいぶん遅れましたが、あの夜の決着をつけましょう」

 ジリジリと寄ってくる赤犬。私は無意識にポケットを探った。焦った指先が、黄狸がくれたスマフォに触れる…

 一つのアイデアが閃いた。けど、それは蜘蛛の糸ほどに頼りない。

「あまり暴れない方が気持ちよく意識を失えますよ?…まあ、もう貴方に退路はありませんがね。どうせもう階下したの方は火の海でしょうから」

 クロコの仇。そして、私と、私のかけがえのない友達の敵。やらないよりマシだ!

「あんたのことは私もよく分かったわ。この街で暮らしてる他のとは全然違うってことがね」

「ヒトメスに褒められてもあまり嬉しくはないのですが…まあ、頂戴しておきましょう」

「あんたは救いようのない愚か者だよ。見当ハズレもいいとこ」

「は?」

「私が理解したのはね───どうしようもないクズには人間もも関係ない、ってことだよ!」

 私は黄狸のスマフォを素早く引き出し、赤犬に向けて構えた。カメラモードをオンにして、シャッターを切る。

 ぎゃっ、と苦痛を漏らして赤犬がよろける。その顔にフォーカスを当て、続けざまにシャッターを押す。

「ヒトメスの分際で…っ、生意気な───」

 ダメージはあってもまだ立っている。スタンガンも握りしめたままだ。

「許しません…許しがたい…!私に向かってこのような屈辱を…っ」

 それでも諦めずにシャッターボタンを押す。釘を刺された昆虫のようにヒクつきながら、赤犬は憎悪に歪んだ目で刺すように睨んでくる。そして、スタンガンをこちらにかざす。

 ダメか…

「いい判断だ、蝶野サン」

 低いワニの声。

 赤犬のすぐ背後に、オーラのようにめらめら燃えながらワニが立っていた。

「な⁉︎あ、貴方なぜ生きて」

 みなまで言わせずに、ワニは自分の火のついたコートを相手にひっかぶせた。今度こそ本物の悲鳴が屋上に響き渡る。

「クロコ!無事なの⁉︎」

「あまり俺を侮ってもらっちゃ困るぜ、蝶野サン。痩せても枯れても探偵だ。この街でそれなりに修羅場もくぐってきたんで、なっ‼︎」

 片脚を軸にして力を溜め、渾身の尻尾アタックを赤犬にキメた。赤犬はゴロゴロと転がり、天窓の上に乗り上げる。

 私はワニに駆け寄った。あちこちからブスブスと白煙が立ち上っているが、どうやら焦げ目はついていないらしい。

「おっと、感激して抱きついたりしてくれるなよ。燃えちゃいねえが相当熱くなってやがるからな、嫁入り前の顔に火傷の一つもつけちゃあなんねえ」

 横に大きく裂けた口角をニヒルに吊り上げる笑いに、私は言葉がなかった。疑問符は湧いてきたけれど。

「なぁに、昨夜のうちにマミに頼んでおいたのさ。最近のネットってやつぁ便利だなあ。火事でも延焼を防ぐくれえ強力な防炎加工スプレーがすぐ手に入るときたもんだ…ガワッハッハッハッハ、は?」

 ワニの勝利の笑いはカッコよく終われなかった。

 ───私が、自分よりもずっと小さなぬいぐるみの体へ、飛び込むように抱きついたから。

「ちょっ、よせやい、あ、あのな、マジで火傷するぞ」

「黙りなさいよこのバカ‼︎」

 ワニの言う通りだった。布で覆われた表面はちょっと見ただけでは分からないほど熱を持っていた。頬ずりすれば、ヒリっとくるくらいだった。

「死んだかと思ったじゃない。二度も私の前からいなくなるなんて、そんなの───あんたの方こそひどいじゃない」

「う、お……おぅ…」

 抱きしめていたので見えなかったけれど、ワニは大きな目玉をギョロつかせながら反応に困っているようだった。

「───…醜いものですね…」

 掠れた、心底から嘲りをこめた赤犬のセリフ。

 赤犬は、ワニと違ってなんの防火処置もしていなかったせいでコートの火で焼け焦げのできた体で、重力から引きずり上げるように天窓の上に膝をついている。

「まだ生きてやがるか。ま、蝶野サンの言うように命だけは助けてやる。どうせもう警察ポリ公が到着だ…が、その前にちょいとお仕置きさせてもらおうか」

 私の耳にもパトカーと消防車の絡み合う間延びしたサイレンの二重奏が届いてきた。

「お仕置きって、何をするつもりよクロコ」

 ワニはばしっ、と片方の拳をもう片方の開いた掌へ打ちつけた。

「決まってら。この放火魔のせいで俺はあんたを見失い、十年以上も別れて暮らす羽目になったんだ。として目覚めた日に命を賭けて護ると誓った、それを下らねえ妄想で滅茶苦茶にしやがったんだ。落とし前をつけずにおれるかよ」

「クロコ…」

 やだ、何してんの私。胸に手なんか当てちゃって?で、なんなのこの、心臓がキュンってなってるのは?なんで私、ドキドキしてんの?

「蝶野サンのたっての願いだから、ブッ殺すのは勘弁してやる。まず軽〜くキンタマぶっ潰してチン◯を詰める。そんで目ん玉を串刺し、鼓膜破いて爪割ってから、一ミリ刻みにミンチ。それならいいだろ」

「良かぁないでしょバカちん!」

 私の張り手がクロコの頭にヒット。

「おい、俺ぁ怪我だぞ」

「そんだけ下品なワードが飛び出すくらいなら余裕で元気でしょ!」

「ほんじゃあ、あべこべに訊くが、蝶野サンならどうすんだい」

「え?え〜と…チョコの前に引っ立てて、今までの悪事をぶちまけて、謝罪をさせる…とか」

「おいおい、そいつはお人好しが過ぎるぜ」

 かーっ、ぺっ。痰を吐いて小馬鹿にするワニ。っとに可愛げがないわね!

 大きくかすれたため息が、赤犬の方から聞こえた。

「あー、あーあああ。吐き気がする。見るに耐えません。穢らわしいヒトメスと馴れ合うだけでも気持ちが悪いのに、あろうことか好意を寄せるなどとは…」

「こっ、こここここここ、好意なんぞじゃねえ。てめえは余計な口きくな。大人しくしてろ!」

「あれ、照れてる?クロコ、あんた照れてる?んーまぁ、そりゃあ、“命を賭けて護るンダー”とか言っちゃったらねえ」

「照れてねえ。言ってねえ」

「残念。言質とったし。このスマフォで」

 私はスマフォの録音再生ボタンを見せびらかしてやった。ワニは見たことがないくらいアングリと上下に顎を開く。

「消せ!消しやがれその録音!しかもそれマミの奴のスマフォだろうが!」

「誰が消しますか。重要な証拠だもーん。私のほうのスマフォにも送っとかなきゃね♡」

「ね♡じゃねえ!クソッ、とんでもねえアマだな、そいつをよこしやがれ‼︎」

 わちゃわちゃしている私とワニを醒めた目で眺めながら、赤犬はズリズリと後退る。しかしそれを見逃すほど私達も間抜けではない。

「おっと、動くなよ。逃げようとしたらマジで引き裂くぜ」

「そーよ。二度とチョコに近づけないよう刑務所に入れてあげる。仕事柄、懇意にしてる法律家のセンセーがいるからね」

 私はクールにクロコに同意しつつ、この隙に自分のLINEに音声を送信…っと。これであとでパソコンからでもデータを保存できる。ヤッタネ♬

「…逃げる?」

 赤犬はほくそ笑んでいた。まだ奥の手でも隠し持ってるっていうの?

 ぴしっ。

 何かがヒビ割れる音がした。

 足元に微細な振動が走る。私はハッとしてワニを引き寄せた。

「この時代、この地で私達が目覚めたのは天佑てんゆう…新しき完璧な生命を誕生させた、大いなる意志の導きによるものです───」

 赤犬の左半身はボロボロに焼けて色が変わり、痛みのために全身が痙攣していた。それでも天窓の中央に立ち上がり、辛うじて動く左手を空に向けて叫ぶ。

「ヒトという古きを捨て、新しきものをこの地球に呼ぶ。そのためには破壊カタルシスの焔が必要なのです‼︎」

 ワニはベッと唾を吐き捨てた。

「アホかてめぇ。人間と共生してナンボだろうがよ」

「そう───だからこそ貴方がたは愚かなのです。私達を縛るこの境界が、いつまでも続くと思うのならばね」

 振動が大きくなる。赤犬の立っている天窓全体がビリビリと震えている。まるでこの建物全体が赤犬の狂気に共振し、どよめいているようだ。

「万物に精気が宿り、極まって生まれた新たな存在。より完璧に、完全に進化するための知性体。それこそが私達であり、そうなるべくして運命づけられているのですよ。ヒトどもの歴史は終わりを告げるのです!もそうおっしゃっておられました。これは古き時代の幕引き───」

 一瞬、赤犬の姿が消えた。

 階下で起きた爆発が天窓を粉々に吹き飛ばし、鮮やかで巨大な怪獣の舌さながらの火焔を噴き上げたのだ。

 壊れたオモチャのように高く舞い上げられた赤犬の姿。信じられないことに、赤犬は哄笑を立てていた。

「ヒヒヒヒヒヒヒハハハハハハハハハ!見ているがいい虫ケラヒトども!これからは貴方達が弄ばれる番───」

 小さな塊はそのまま真っ直ぐに、屋上に開いた炎と煙の渦巻く穴に吸い込まれていく。…おぞましい笑い声の尾を引いて…

「あの野郎、最後に気になることほざきやがって…」

「そんなのどうでもいいじゃん!それよりもクロコ、私達はどうやって逃げるのよ?もう階段もダメでしょ?下に降りる道は…」

 屋上の端からもうもうと煙が上がり始めている。建物全体に火が回ってきているのだろう。爆発も相まって、熱を加えられたコンクリートと鉄筋の構造が足元で頼りなく傾いていく。

「無いわな。ところで蝶野サン、あんた体重は幾らだい?」

「はぁ⁉︎こんな時に何を訊いてくんのよ?」

「いいから言え。正直にな」

 私はちょっと声を落として、先日シャワーの後に測った数値を耳打ちした。

「マジか?…サバ読んでねえだろな」

「うっさいな!ここんところ不規則な生活してたから五百グラム増量してんのよ!」

「いや、最近の娘さんっていうのはどうにも痩せすぎじゃねぇかと思ってな。少しばかり肥えてるぐれえが健康にはいいんだぜ」

 ワニは腰に手を当てると大きくのけぞった。顎をスーツケースのようにガパリと開き、その奥に手を突っ込む。

 ぬるりと唾液の糸を引いて、大きな釣り竿のようなものが現れた。

「そんな物、何に使うの?」

 クロコは慌てる私の腰を抱いて、耳元で囁いた。

「ターザンごっこは好きか?」

 

 平成に建築された古い建造物でも、鉄筋コンクリートで頑丈に形作られたものはそう易々と倒壊しない。

 しかし、内部が空洞で強力な可燃物が燃え盛っている場合、話が別になる。

 大学の敷地の外れにある旧講堂は、いまや業火というガン細胞に侵された巨獣よろしくミシミシバキバキという乾いた絶叫と熱気とを振り撒きながら、倒壊寸前のわななきを見せていた。

 その前の開けた草地に気絶したままの青年が転がされ、辰之進は顔に熱風が吹き付けるのも厭わず危険なほど建物の近くで屋上を見上げている。

「ボス…」

 先ほど、講堂の奥から激しい爆発が起こった。衝撃波がガラスを粉砕し、覆っていたシートもろとも作業用の足場を薙ぎ倒した。

 恐らく、もう時間はない。構造を支えるべき連結部があちこち千切れていき、ぎこちなくギィギィと鳴いている。

 大きく見開いた辰之進の瞳が涙に潤んだ。

 その時…

「───ィィィィヤァァァァァァァァァ‼︎」

 音程の高い声とともに、屋上の端からひと塊の影がヒラリと飛び降りた。逆光に辰之進は目を細める。

 まごうかたなき庭田七宝のずんぐりした形。それにしがみつく、蝶野美由紀の細いシルエット。の探偵は自分より手足の長い人間の成人女性を軽々と片腕に抱き、懸垂降下の要領で建物の壁を蹴りながら地上へと降りてくる。

「───ボスぅぅぅぅぅぅ‼︎」

 二人の無事な姿を目視し、辰之進は矢も盾もたまらず突進した。

 と、そこへ二度目の爆発。ちょうど壁を蹴ったタイミングでの突風に、二人の体が高く舞い上がる。

「わあっ!ボスぅぅぅぅ──ギャベェゴフッ」

 地面から三メートルそこらの位置で、ロープ代わりにしていた携帯巻上げ機ハンディウィンチの強化糸を切った七宝と美由紀の足元で、辰之進は見事に下敷きになっていた。

「お。すまん」

「なんであんたそんなとこにいるのよマミりん」

 二人がどくと、辰之進は感極まって男泣きを始めた。おんおんと涙と鼻水を垂れ流すのを脇目に、七宝は美由紀に怪我はないかと確認する。

「うん。私は平気よ。それよりさ、ワニ、あんたは…」

「ミュウミュウーッ‼︎」

 ざわざわと集まっていた野次馬の垣根から、黒い兎顔が顔を出した。

「チョコ…」

「もう!もう!もう!なんてことなの、ミュウミュウ!危ないことはしないでよ!あれだけ頼んだじゃない、私…!」

「あっはっはー、ごめんごめん。でもさぁ、一件落着したから。これでもうチョコを苦しめるストーカーは永久に出てこないからさ」

「そういうことを言ってるんじゃないの!」

 ピシャリと叱られ、美由紀は神妙に視線を千代子に落とす。

「ミュウミュウは…あなたは私の一番大事なお友達なのよ。もうこういう無茶は絶対に、しちゃダメよ」

「そっか……」

「そうよ!」

 美由紀はまさに崩れゆく講堂をなんとなく見やり、胸の内に湧いてくるやるかたない感情を噛み締めた。

(人間とか…とか…そんなの、ほんの小さな違いでしかないのにね…)

 人間と、そうでないものとが、意思の疎通を図れること。

 お互いを友達として思い遣れること。

(それって、それだけで『奇跡』って呼ぶには充分すぎるものじゃない?それなのに…)

 一体の命あるぬいぐるみを飲み込んで、青空へ大量の煙を吹き上げる建造物。まるで壮大な荼毘の儀式のような光景だ。

 消防に先んじて到着したパトカーから、警官が二人降りてきた。これからまた事情聴取だの供述書の作成だので忙しくなるのだろう。

 美由紀は、人間たちからもの友人達からも見られないうちに、建物に向かいそっと手を合わせた。

 

 私服出勤した休み明け、会社で私は普段しないようなポカを何発もやらかした。

 いつもならそれこそ重箱の隅をつつくように嫌味を言ってくるお局様も、

「ま、そういうこともあるわよ。以後重々気をつけるように」

 で済ませてくれた。

 市内で発生したボヤ騒ぎ、それに続く大学校内での放火爆発事件がニュースになり、「巻き込まれた一般人被害者」が私であるらしいという噂が社内に飛び交ったお陰だった。

(そりゃこんなの顔に貼ってあれば皆察しちゃうよねえ)

 休憩時間、化粧室で片頬を覆う仰々しいガーゼを鏡で眺めながらため息をつく。蹴られた後に加え若干の火傷。髪も熱ダメージをくらったので、ハイボブカットに短縮してある。

「うー、痒ぃぃ!火傷なんて唾つけときゃ治るんだけどなぁ」(治りません)

 指でガーゼをつまみ、勢いよく剥がしてしまいたいところに、千代子の強い口調が思い出された。

「女の子なんですからね、お医者さんの指示があるまで取っちゃいけません。薬も、面倒かもしれないけど続けて。いい?返事は?」

 あんなにクドクド言い渡すこともなかろうに。ママを超えて、お袋さんだ。

 お客様の前に出られないからと、しばらく事務処理を任されてしまった。それは別に不満ではないのだが、自分に対する男性社員の態度がやけに甘くなっているのも居心地悪い。

 腕を怪我したわけでもないのに、あれを持ってやろうとか社食の順番を譲ってやろうとか。

(男ってどうしてこうに弱いんだろ。てか、ウザキモなんだよね)

 他人の好意、気遣いをそんな風に受け止めるのは間違っている。これは、自分の精神状態にこそ問題があるのだ。

 席に戻り、伝票とメールと資料の整理、フラワーアレンジ部門との調整がすむと暇になってしまった。柱の時計は、午後三時。

 私は意を決して、早上がりを申し出て会社を出た。自宅最寄りの駅の改札を出て、足の向く先は喫茶『ぽるこ』だ。

 多分、いやきっとそこでしか、このモヤモヤの区切りはつけられないのだろう。

 商店街に入ってすぐの、見た目は何の変哲もない小さなショートケーキのようなカフェ。ドアにはカフェ・タイムのプレートがかかっている。

 ドアベルを鳴らして店内に入る。コーヒー二割、紅茶八割の空気に心地よく包まれながら窓際のいつもの席に陣取る。

「あらミュウミュウ、今日は早退はやびけ?」

 奥の方からトテトテと水を運んでくる千代子に小さく頷く。

「そう。ちょうど良かったわ、そろそろ探偵さん達もいらっしゃるものね」

「え⁉︎なんで?」

「なんでって…謝礼金の受け取りに決まってるじゃない。昨夜話したはずだけど。一緒にお礼を言うんでしょう?違うの?」

「あー、そうだったっけ…いや、そんなつもりじゃなかったんだけど」

 あーこりゃ重症だ。そんな大事なことまで聞き漏らしていたとはね。仕事でミスもするわけだ。

「んー、でもこういうのって、タイミング的にどうなんだろ?私、最悪じゃない?」

「どうしたのミュウミュウ?何か都合が悪いの?」

 都合?それは悪くない。はっきり宣言するにはむしろ空前絶後のチャンスだ。

 どちらかというと、私の個人的な体面がよろしくないだけ…

 いや。腹を決めよう!

「ううん。違うんだ。───チョコは、さあ」

「なぁに?改まって」

 体に対して大きなスケールのお盆を前に支え、にっこり小首を傾げる千代子。黒兎のの、あざとく見えるほどの可愛らしさに私は呻く。

「う〜ん、敵わないなあ」

「え?一体なんの話なの?ミュウミュウ」

「んー…そのさぁ、探偵…の、話なんだけど…」

 そうだ。そもそものことの起こりは、千代子の片想い、恋愛相談だったんだっけ。

 あの赤犬は盗聴器で私と千代子の会話を盗み聞いた。そのせいで一気に行動が脅迫めいたものにエスカレートして、結果的には憎い恋敵のはずの探偵と私たちを結びつけてしまったのだ。

 行き着いたゴールは破滅。でもあそこで止めなかったなら、もっと犠牲者が出ていたかもしれない…

 私は複雑極まる思いをテーブルの下で組み合わせた拳でコネコネしながら、それでもなんとか続きをひねり出した。

「これからワニがここに来るなら、あいつに告白したら?」 

 一拍遅れて、千代子の毛並みがブワッと逆立った。

「えええええええええええええええええええええええええええええええ⁉︎無理無理無理無理無理無理無理無理、絶対、無理!」

「おバカ!健気に差し入れしたのはなんのためよ?」

「そ、それは、探偵さんがお仕事しやすいようにって…」

 私はキリッと背筋を伸ばした。

「今日ここで言えなきゃ、この先チャンスはそうそう無いかもしれないよ?ジリジリ待ち焦がれているうちに、横から来た誰かにかっさらわれて終わるかもしれない。それでも?」

「ななな、なんで急にそんなこと言うのぉ…?」

 分かるよ。あんたの性格なら、焦らずにゆっくりと恋の花を咲かせたいんだろうね。これは私のエゴ。

 でもね。それは、私も同じ立場だから、敢えて引き下がらないよ。

「私自身が死にかけたから。他に理由はない!」

 ワンピースならば大ゴマで背後に「どん!」とかオノマトペが描かれる調子で言い切り、腕を組んで睨みつけてやった。

 千代子は見えない紐に噛み付くような顔で恥じらっていたが、最後には

「……………いいわ。分かった」

 と言い、そのまま店の奥へと引っ込んだ。

(ふふ、注文もとらないなんて、チョコのやつ緊張しちゃって…)

「ンこんにちはーっす!って、おお⁉︎美由紀姐さんもいぁっしゃっじゃえっすか!おひ、お久しぶりっす‼︎」

 ドアを掌底で突き開けて、辰之進の黄色い狸顔が現れた。刑期を終えたお偉いヤーさんを出迎えるように腰を落として頭を下げるその背後から、

「入口で立ち話なんざおっぱじめるな、邪魔だ」

 とワニが蹴り飛ばす。

「イエスボス!」

 ゴロゴロ転がりながら叫ぶ辰之進に、私もつい笑顔が浮かんでしまう。

「たった一日ぶりじゃん。それにしてもタフね、あんたら」

「そいつはお互い様だな。もう仕事に出てるんだろう?蝶野サン」

 ワニは燃えてしまったトレンチの代わりに、少し良い生地のチェスターコートを羽織っている。二人が私の前に腰掛けたのを見計らって、店の奥から様子を窺っているらしい千代子に声をかけた。

「ほーら!お待ちかねの王子様が御来場よ。出てきなさいお姫様」

 ビンビンに両耳を立てた千代子が、恨めし顔でお盆に水を運んでくる。

「ミュウミュウのバカ」

 小さな声で可愛らしく毒づく。私はは知らんぷりでハーブティーを、辰之進はアイスコーヒーを、ワニは渋い声で「いつものやつ」と注文。千代子はドアにかけてあるプレートを『休憩中』にして、オーダーを伝えに戻っていく。

 ワニは例のパイプセットを出して、キウイの香りのする葉を火空に詰めてマッチを擦る。年季の入った動作を見守ってから、私から口火を切った。

「ねぇ、見た感じあんたは元通りだけど、手当てってどうしたの?」

「ああ、懇意にしてる医者がいるからな。保険証もあるぜ。心配はいらねえ」

 そのお医者さんというのはなのだろうか。聞くだけ野暮かしら?

「聞いぇくだっしゃっせよ美由紀姐さん!ボス、『こん程度なら唾つけときゃ治る』っつって医者ん行かねーとかしぁっしゃっすお」 

「何チクってやがる」

「ソーリーボス!」

 尻尾ビンタを喰らう辰之進。

「なんだ、あんたも医者嫌いなんだ」

「フン。男がちっとが焼け焦げたくれぇで騒いでどうする。だがな蝶野サン、あんたはキチっとその顔、治しとけよ。医者通いをサボんじゃねえぞ」

「お互い様でしょ。で、マミりんはそんなクロコをお医者さんに引っ張ってったんだね。良い舎弟じゃん」

「へ…へへっ。別にそぇっくれぇ、ボスんためなぁ当たり前っす」

 鼻の下をさかんにこする辰之進。そこへ千代子がお盆を捧げてやってきた。

 私はテーブルに並べられる注文の中、ワニの前に置かれた物体に絶句する。

「…何ソレ」

 レトロなガラスの器。カラメルたっぷり、ホイップたっぷりなカスタードプリンがフルフル震えている。アクセントのチェリーが鮮やかなルビーよろしく輝いて…

「こいつが何か?」

「あーね、姐さん、こえっしぇボスの大好物なんっすよ。仕事ヤマが立て込んでっときにあ、俺がテイクアウトにしてもらっえ事務所ン届けるっすぉ」

 私はワニの顔をまじまじと見た。ワニはうるさそうに大口をへの字に曲げ、テーブルにプリントされた明細書をばさりと投げる。

「とっとと済ますぞ。この内容に文句が無けりゃあ、最後に書いてある口座に依頼料を振り込んでくれ」

 千代子は私の側に座り、紙束に目を通す。私もまじまじと覗き込む。

 ふむふむ、探偵事務所の請求書ってこんな風になってるんだ。二人分の基本実働費、プラス諸々の必要経費が羅列してあって、交通費とか項目が細分化されて───

 総合費の額に思わず「げっ⁉︎」と声が出た。しかし千代子はこともなげに受け取る。

「良いと思います。早速振り込みますね。ネットバンキングには対応していらっしゃいますか?」

「ちょちょちょ待ってチョコ。何涼しい顔してんの?大金じゃない!ねえクロコ、これってまけらんないの?」

「何言ってやがる。大まけにまけてこれだ。ビタ一文も減らせねぇぜ」

 ワニはしれっとした態度でプリンを引き寄せ、スプーンですくう。

「それにしてもさ、チョコはまだ学生なんだよ⁉︎もう少し勉強してあげても───」

 いからせた私の肩を、千代子が柔らかく「ぽふん」と叩く。

「大丈夫よミュウミュウ。この件に関しては遅まきになったけど私の実家にも伝えてあるの。全額肩代わりしてくれることになってるから」

「え?実家…てチョコの親?」

「そうだけど?」

 色々な『?』が頭に浮かんだ。だけど、ここで混乱するのは時間のムダなのだろう。

「まあ、スジを通すなら蝶野サンにこそ協力費を支払うべきなんだが…」

「そっすよボス!美由紀姐さんっしゃ体張ってくれたんすから、なんか返さねーと道理が立たねっしゅお」

 辰之進はズビズビとコーヒーを啜りつつまくしたてる。わっ、ちょっと服にかかったじゃん!

「うむ。その点なんだが…」

「待って。それより先に、チョコから言いたいことがあるんだって。ね?」

 請求書を折り畳んでいた千代子の黒い手が止まる。

「お嬢さんが?俺達に?」

「そ。っていうか、片方にだけど。───チョコ!」

 千代子の黒い瞳が不安げに私を見る。

 私は深く頷く。

 そう。あんたが先に言ってくれなきゃ、私だって言えない。これは親友に対する義理立てだ。

 目の前にいる、この丸っこいデザインのワニの。無頼漢を気取る、言動も乱暴、デリカシーに欠けたおっさんじみた探偵。

 同じ相手を好きになるなんて、私達やっぱり親友だよ。変なところが似てるんだ。

 変な様子の私達に二人が顔を見合わせる。

「───その…」

 一人と二体から注目され、千代子はギクシャクと顔を上げる。

「私───」

 うんうん。そうだよ言っちゃいな!大丈夫、私がついてる!

「───いつもプリンを買いに来てくださって、ありがとうございます…」

 がんばれ!話をずらしちゃダメだよ!

「…よくお店に飾ってある花のこと、褒めてくださいましたよね…」

 ん?あー、花瓶に生けてあるやつのことね。確かに季節ごとに生花の種類を変えて、彩りも考えてあるよね。千代子らしい抜群のセンスで。

「私の髪飾りとかも…すぐに気がついてくれて…」

 へー。ワニのやつ、そういうこと口に出して褒めるタイプなんだ。意外。そりゃ点数高いわ。

「あの…以前に大学で…憶えてます?テニスサークルの先輩からしつこく勧誘されてた私を、助けてくれましたよね」

 勧誘?ナンパかなんかされたのかな。人間の姿の千代子ってめっちゃほっそりして淑やかで可愛いから、入学したての頃、その手のヤカラに絡まれて毎日大変だって愚痴こぼしてたもんねえ。

 …あれ?

 千代子の熱っぽい瞳。その視線はワニではなく、辰之進の気の抜けた黄狸ヅラにそそがれている…

「あー、あン大学の学食にぁ結構けっこお世話んなっしゅっすねぇ」

「それだけじゃ…ないんです。帰りが遅くなって、駅前の飲み屋さんがたくさんあるところでタチの悪い酔っ払いに連れ去られそうになったとき…狸屋まみやさんが取っ組み合いをして、助けてくれましたよね…?」

 私はあんぐり。人間の口ってこんなに開くんだなーとおかしな自覚さえするほどに。

「え、チョコの好きな人ってクロコじゃないの⁉︎」

「な、何を言ってるのミュウミュウ⁉︎」

「だって…」

 人は危機的状況に陥ると、それまでの人生が走馬灯のように駆け抜けるという。私の脳裏にはこれまでの数日の千代子とのやりとりが二十倍速で流れた。

 用意のいい朝ごはんも、差し入れも、ワニのためではなく───

「そうか。そういうことだったのか…!」

 私は上半身の力が抜け、椅子の上からずり落ちた。話の腰を折られ、千代子はまた押し黙ってしまった。

 プリンを食べ終えたワニが、彼の隣でキョトンとしている辰之進の後頭部を叩く。

「オラ、お嬢ちゃんを困らせるな。きちんと答えてやれ」

「え?や、俺なんかしたっすか?」

 消え入りそうに俯く千代子。バツが悪い私。キョロキョロ頭を巡らすばかりで察しの悪い辰之進に、イラつく様子のワニ。

 店の置き時計がだしぬけに四時の鐘を鳴らした。

「あー…なんかよくわかんねっすけど…」

 辰之進は頭をボリボリかく。

「よーすっに、なんか俺にお礼がしてーってことっしゅね?」

 私はガクッと肘が滑った。なんでそうなる。

「そ───そう!お礼です!お礼がしたいんです!その、私が個人的に、狸屋さんに」

「マミりん、ね」

「俺だけに?なんで───」

 私は満面の笑顔で、テーブルの下から辰之進の短足にキックを入れた。辰之進はぐぶうと湿った空気を肺から出してテーブルに突っ伏した。

 

 安普請の防音扉を開くと、そこは昭和を煮詰めて灰汁を掬って綺麗な上澄みだけを残したような、印象深い『古き良き』スナックだった───

「いやね、そりゃカラオケならどこでもいいんじゃないのって言ったけど、だからってなんでまた飲み屋さんなのよ。普通ならカラオケボックスでしょこういうときは」

「どういうときか知らんがな。俺にゃあここがいの一番に思いついた店なんだよ」

 商店街の潰れかかった和菓子屋のお向かいさん、スナック『テディズ・ネスト』は私も知っていた。仕事帰りの深夜に(平日休みのの昼間にでも、だが)通りかかるといつもドアの向こうから歌謡曲が漏れてくる、いかにも町内の暇な中高年が通い詰めていそうな店だ。

 しかし中は想像を斜め上に超えていて、調度品は輸入家具だし絨毯にはシミひとつない。上品とさえいえるレイアウト。それでいて天井にはしっかりミラーボールがぶら下がっている。

「不思議な店。だけど、結構きれいね」

「きれいにしているつもりおすけど、けったいなとこもありもすなぁ」

 ポツリと呟いた千代子の背後から、低めのソプラノが返した。

「一見さん嫌いの庭田はん、ご自身で新しいお客さんを連れてきはるなんて。それもこないに別嬪はんの、ええとこのお嬢はんを、二人。これは今夜中にも雪が降るかも知れへんねぇ」

 ころころと喉を鳴らして笑うのは、見た通りの三毛猫のだった。ほんのりとした濃い紫の着物に限りなくシルバーに近い色合いの帯をキリッと締め、草履に足袋姿。いかにもこの店のママといった風体だが…

「あ、あの、初めまして。私達クロコ…じゃない庭田さんにお世話になってる者です。私は蝶野、こっちは宇佐美と申します」

 仕事口調になる私に三毛猫のママは品のある笑い眼を一層細くした。

「まぁまぁ、ご丁寧なこと。ウチはそないに肩肘張るような店やおへんさけ、お楽になさいよし。テディ・ネストへようこそ、お嬢はんがた。店主のかんぬき珠子たまこと言います。さ、どうぞ奥へ…」

 辰之進は既にズカズカと上がり込み、珠子さんが小さな肉球付きの掌で示した奥の方のテーブル席に陣取って叫ぶ。

「タマさん、今日の着物の色、よく似合っしゃっすね!」

「ほほほ。いつもながらお口のよろし子ォやねぇ。これはね、二人静ふたりしずかいうんどすえ。帯の方は灰紫はいむらさきよ」

「おぉー。そうなんっすか。ベンキョーになるっす!」

「すまねぇなママ、ちいっとやかましくするが許してくれ」

「ほほほ。庭田はんが水臭いことおっしゃるなんて、これまた珍しおすなぁ。お若い方が元気ならええことおすえ」

 頭を下げて通り過ぎるワニの背中に、珠子さんはそっと手を添える。

 え、ちょっと待ってよ。まさかこの二人…

「主人は今日、下の子の授業参観に出てますけど、じきに帰ってきはります。難しいカクテル以外ならお出しできますさけ、よぉけ飲んで、食べてくださいね。お代は日ごろのご愛顧への恩変えにしうんとサービスしますよって…」

 内心穏やかでない私の疑念を打ち砕くように、三毛猫のはそのままほてほてとカウンターの内側に入っていった。

 席に着くと、早速辰之進はメニューを広げて隣に腰掛けた千代子にあれやこれやと説明していた。千代子はというとアイドルの握手会に来た奥手なコアファンよろしくただただ紅潮して固まっている。

 シチュエーションのお膳立てをしたところでなこなか進展しそうにないけれど、相手がコミュニケーションの化け物みたいな辰之進だ。いずれは二人が手を繋いでデートに行く日も来ることだろう。

 って、なんかお見合いをセッティングするのが趣味のオバサンみたいな考えしてるな、私。それよりまず、自分のことだ。

「蝶野サンは、アルコールいけるのかい」

「ぅあっ?な、何何何?」

「いや…飲み物の注文をだな」

「あっ?ああ、そうだね。えーと、あんまり強くはないかな。ビールとかウーロンハイとか、何か軽いのでお願い」

 ワニが訝しんでいる。うう、こんなの高校生の時以来だよ。我ながら久しぶりの感情に振り回されてるのは分かってるんだけど。

 とりあえず人数分のグラスにビールが運ばれてきた。グラスを並べ、中身の入っていないものにはビールを注いでいく珠子さん。着物の袂をはんなりとたくしあげながらビールと泡の比率を綺麗な7:3に仕上げる技量に思わず溜息がこぼれる。

「あ、タマさん!美由紀姐さんはギフト持ちっすから、その辺気ぃ使わなくて大丈夫っしゅお」

「あらま!ほんに?その若さで天眼をお待ちでいらはるの?」

 細い目を見開くと、縦に切れた瞳孔が見えた。

「え…あの…はい、そんな感じで…」

「まあまあまあ、まあ…」

 に囲まれ、ただ一人普通の人間という状況で、私は身じろぎする。

「ちょっと、お待ちください。蝶野はんいわはりましたね?───というと、庭田はんの…」

「とりあえず乾杯だ、ママ」

 そうね、そうしましょと珠子さんは笑い、自分もグラスを取った。

「それでは庭田はん、音頭をお願いします」

「む、そうか…俺か」

 クロコは尻尾を一、二度振り、おもむろにグラスを掲げた。

「まず依頼が無事完了したこと───」

 そしてじっと見つめていた私の視線に気付き、クロコはこう付け加えた。

「───それから再会と、各々の発展を祝して。乾杯!」

 最後の方はなんとなく照れ臭そうで、ぎこちなかった。

「乾杯!」

 唱和して、キンキンに冷えた黄金色の液体を飲み下す瞬間私は理解した。

 今の一瞬、クロコは顔を青黒に変えたけど───

 そうか。爬虫類の赤面って、そういう色なんだね。

「あれ?美由紀姐、何ニヤニヤしてっしゅっすか?さーカラオケカラオケ!美由紀姐とチョコちゃんは何を歌うっす?あ、先に俺は鳥羽一郎入れたっす!ボスはいっもあんま歌わねっすけど、渋声で超カッコいいっすぉ!」

「お前は落ち着け」

 ソーリーボス〜!とクロコの尻尾で張り倒される辰之進。助け起こす千代子。ゴロゴロと喉を鳴らして笑っている珠子さん。

 私もなんだかおかしくなって、急に大きく笑い出してしまう。あれ?なんか変だな?こんないつもの光景がツボってる?

 グラスに口をつけるなり、クロコが眉を立てた。

「うん?なんだこれは…ウーロン茶が入ってるぞ」

「まぁ、そないなことあらへんはずやけど…庭田はんはウイスキーをストレートロック、狸屋はん宇佐美はんは私とビール、ほしたら───」

「あひゃひぃわぁ、ウーロンハイでっすぅ!」

 私は上機嫌でグラスを掲げた。一気に飲み干したので、ひっくり返しても一滴もこぼれない。

「うっわ美由紀姐さん!ボスのと間違えっしゅえ?一杯全部、飲んだっしゃっ?大丈夫っすか⁉︎」

「大丈夫ひょ!」

 私は思い切り上半身を捻った裏拳を辰之進の鼻面に叩き込んだ。「ヘルプボス!」と叫びながら相手は吹っ飛ぶ。

「おいおい蝶野サン…相当に酒癖悪いな」

「そぉんなこと、ないひょお?私わあ、嬉ひーのぉ!やっとこ命の恩人にぃ、出逢えてぇ、お礼ができひぇえ、そえに…」

 あら、あらら。お店が回る。床がせりあがる。ミラーボールが、膨らんだり縮んだりしてるよ。

「クロコぉ…今夜ひゃ絶対じぇったい、あたひとデュエット、歌ってえ…」

 なんだか、眠い。とても。椅子の上に座っていられない。ヤバ…

「そいつは鼻血が出るほど魅力的な申し出だが、もうちいっとシラフのときに聞かせてくれな」

 クロコはつぶつぶと口の中で声にならない言葉を泡立てる私を優しく抱き支える。

「ママ、そこのソファ借りていいか。寝ちまっただけだから」

「ええ、それはもう」

 クロコの腕が軽々と私をソファに運んだ。紳士的に横たえられ、深い眠りに落ちる寸前のうわごとが出がけに念入りに塗ってきたリップの隙間から滑り落ちる。

「クロコぉ…いっちゃやだ…」

 一瞬、目を丸くするワニの。そのまなじりが柔らかくほどけて…

「俺はどこにも行かねえよ。お前さんは忘れてるようだが…」

 それから、鼻の先まで顔を青黒くしながら私の頬に口を近づけた。ほんの少し、触れたかどうか判別しがたい距離でのキス。

「───あの火事の中から、泣きながら俺を運び出してくれたのはお前さんだろ。俺はお前さんに恩をきちんと返すまでは、絶対にどこへも行かねえさ…」

 我ながらセリフを言っちまったなと顎をゴリゴリ引っ掻きながら、そそくさと人の輪に戻っていく。私は何が起こったのかも知らぬまま、ぬいぐるみのワニを抱きしめていた子供の頃の甘い夢に巻き取られていった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ぬいはモフるか焼くしかない 鱗青 @ringsei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ