川本くん

@isako

川本くん

 山で女に会ったらもののけを疑えという言い伝えがある。昔話とか、古典怪談とかではよくある話で、坊さんが山に迷うと女が出てきて誘惑してくる。それに乗っかると、よくて肥溜めに肩まで使ってたり、腐った樹木を抱きかかえて腰振ってましたで済むが、悪いと獣に食われて死んだりする。まぁ解釈はいろいろある。頭がおかしくなってそういう幻想をみてしまったとか、酒に飲んで夢うつつだったとか。あるいは本当にもののけに化かされていたり。


 化かすか化かされるかでいうと僕は化かす側だと思う。どちらかと言えばね。


 生きてた頃の僕の名前は夏本海弥で、死んでからはとくにない。いつ死んだのかはもうあんまり憶えてないんだけど、お母さんやお父さんが、僕の死体が見つかった沢に花を持ってこなくなったので、たぶんだいぶ経ったんじゃないのかな?


 死んでからの僕はもう学校に行ったりする必要はなくなり、山で寝たり起きたりしている。厳密には睡眠をとっているわけではなくて、が山にやってくるときに、山全体の中から僕というニキビがポッコリ現れるのだ。そのときに起きる。順番が回ってくるとか、条件がそろうとか、そういうときに僕が出てくる。僕はもう山の一部なので、僕が僕としてふわふわ24時間浮かんでいるのとは違う。


 じゃあ僕が起きて(あるいは、ニキビみたいに吹き出てきたとして)、何をするのかというと人間を迷わせることしかしていない。


 だいたいは一人でいる女のひとを狙う。そっと耳元でなにか囁いたり、木を揺らしたりしてその人を怖がらせるのが初手になる。それで平気なひとはそのままおかえりいただく。あなたは山にきて、ちょっと妙な感じを経験するけど、それを気のせいだと片付けられるくらいに健康は心と頭をもったひとです。おめでとう。そう言ってあげる。


 怖がる人は、さらに狙っていく。足跡を消して今来た道を分からなくしたり、方位磁石や携帯をおかしくしてどんどん山奥に踏み入らせる。女のひとの心が弱っていくのを見るのは楽しい。かわいいと思う。そのあとは放っておいても、どんどん悪いほうに行く。急に叫んで、山とは関係のない、家族や友達の悪口を言い始める。その辺の草とか背の低い木を蹴る。私は怖がってなんかない。そういうふりをする。元気があるうちは騒がしいけど、次第におとなしくなって、泣き始める。トイレを我慢できなくなって、外でお尻を出してするんだけど、そこまでくるとたいていもう終りだ。みじめさや、理不尽さに、心がくちゃくちゃになっている。


 あとは、うっかり足を滑らせて体を傷めるか、熊や猿に襲われるか、運が悪ければ、じっくりと朝と夜を繰り返して死ぬかだ。僕は最後のパターンが一番好きで、いつもそうなればいいなと思う。


 男のひとが来た場合、僕は彼らを誘惑する。


 僕は彼らの前では姿を見せる。木陰からこっそり彼らを見つめる。彼らは僕を見ていぶかしむけど、僕がにっこり笑って森の奥に行くと、何も見なかったような様子で自分の道に戻る。でも僕は知っている。もう彼らの頭の中は、僕の裸でいっぱいになっている。


 彼らが休憩しているときに、僕は裸になって彼らに近づく。絶対に声は出さない。声を聞かれると正体がばれるからだ。彼らは初めびっくりしているけど、本当はそうでもない。僕をみたときから、僕を支配したいと考えているから、その思い通りになることに何の疑いももたない。僕は彼らの望む通りのことをする。どんなことだってするし、彼らの望むすべてを受け入れる。その時だけは、僕は生きていた頃にはまったく味わえなかったよろこびを感じる。しあわせだと思う。身体はもうないけど、こころはとても満たされるんだ。と、彼らはもうくたくたになっている。生きている必要がないくらいに疲れている。なんとか山から帰るひともいるけど、だいたい、そのまま死ぬ。僕は死ぬまで彼らのそばで、彼らの頭をなでてあげるのだ。今までよく頑張って生きてきたね。ここで終りだよ。おつかれさま。そう言ってあげる。


 夏本くんだろ。と僕を言い当てたのは川本正吾くんで、もう彼はすっかりおじいさんになっていた。僕は川本くんが川本くんだとは気づかなくて、でも川本くんは僕が僕だとすぐに気づいていた。「こんなところにいたんだね。俺たち、みんなで君を探したんだ。身体が見つかったから、もう向こうに行ったんだと思ってたけど、そうじゃなかったんだ」川本くんはちょっとだけ悲しそうに言った。僕は声を出さなかったけど、化けの皮ははがれていて、僕は川本くんが望む姿を見せることはできなくて、あの時崖から落ちてすぐの、命がなくなる直前の、ぼろぼろになったあの体のままのほんとうの姿を見せることになった。おじいさんになった川本くんは僕の悲惨な姿を見ても、眉一つ動かさなかった。「あのときのまんまじゃないか」川本くんは煙草を取り出して火をつけた。すごくおいしそうに味わって、ふわふわと森の空気に煙を吐き出す。


「実はまだ君がここにいるんじゃないかと思ってきたんだよ。もうあの頃のことを憶えているのも俺くらいになっちゃったからね。寂しい想いをしてないかなと思ってきたんだんだよ。俺と君は仲がよかったような気がするから」


 僕は川本くんに何も言わなかった。川本くんが僕を欲望することはないだろうなとは思った。僕は彼が川本くんだということは分かったけど、そのほか、川本くんがどんな奴だったかというのは、もうすっかり忘れてしまっていた。


「あと、伝えなければいけないこともある。この山はね。売ったんだ。都会の会社に。だからそのうち、ここにひとの手が入る。君がここで悪さをしないように、山をめちゃくちゃにすることにしたんだよ。動物も、森も、もののけもみんな追い出して、人間の場所にするんだ。俺なんかじゃ君を成仏させられそうにないから、そうするしかなかったんだ」


 川本くんは、うつむいて言った。


「友達だから、止めたほうがいいと思ったから」


 ようやく僕は、川本くんのことを思いだした。そうだ。あの夜、僕を引き留めてくれたのも川本くんだった。でも僕は山に入って行ったんだ。僕は僕の中にある暗いものに打ち勝つことができなかったんだ。


 もう僕はどこにもいない。川本くんは一人で思い出話をして、お茶を飲んで、煙草を吸って、そして一人で帰る。夜になって、朝になって、また夜になる。森の奥でもののけがゆっくりと息づく。でもそれはもう僕じゃない。ほかのなにかだ。

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