水色のテディ・ベア~おそらくは、そのテディベアは誰かに贈られたものだった

梓馬みやこ

水色のテディ・ベア

 私がぬいぐるみを買っていたのはせいぜい高校生の頃くらいである。

 これを書くにあたって発覚した事実であるが、小学生の頃もぬいぐるみに興味に示した覚えがない。それどころか持っていた覚えすらない。


 高校になって近くに大きな文具店があって、そこに動物のぬいぐるみが置いてあったため「シリーズもので集めた」というのが自分で購入した学生時代の記憶である。

 その頃になると興味がようやく向きだして、親がショップのスタンプと引き換えだとか、ちょっとお高めのリアル系のぬいぐるみだとかを買ってくれたりしたものが未だにクローゼットに居たりする。

 ともかく、手にするぬいぐるみはキャラやデフォルメではなく、リアルな形に近いものである。


 もしかしたら。


 ぬいぐるみや人形というのは、何か宿るような気がして手に取りづらいのかもしれない。



 実際、そういったものを捨てるのがとても苦手だし、故に興味がなくなっても雑に扱えない。

 幼少期に興味を示した覚えがないと前述したが、実は例外が存在し。

 おそらくは、生まれた時から傍らにあるぬいぐるみが、未だにベッドサイドに居るのである。



 それは元は姉のものであったらしい。だから自然、「生まれた時からのつきあい」ということになる。

 特に溺愛していたわけでもないのだが、とにかく寝る時は必ず傍らにいた。

 今では珍しい品らしく、本物の動物の皮が使われているようだ。

 今年に入り、補修のために内部を見たが本物の皮と本物の毛らしかった。


 ともかく彼は私の記憶の限りそばにいて、もしかしたらその存在故に他のものを欲しがることはなかったし、安易に手に入れ、安易に捨てる、ということに対しても違和感を覚えているのかもしれない。



 そんな私であるが、いや、あるから、というべきだろうか。とある中古ショップの膨大な「中古品」の中、それを目にしたときはどうにも見捨てておけなかった。


 それは水色の小さなテディベアだった。

 リボンは白い英字の入ったサテンの青色で、まだ真新しく汚れもないのに、100円のカプセルトイやむき出しの雑誌の付録などに埋もれて、吊るされていた。

 その店は当時、関東最大の売り場面積を誇ると言われ、それ故に捨てグッズの数もすさまじかった。何をみつけていたわけでもないのに、何気なく目に留まる方が奇跡に近い品数だ。


 誰が買っていくのだろうか、というより100円まで下げて売れなければ次は「廃棄」行きだろう。


 売った誰かが自分で買ったとは思えないからたぶん、誰かが誰かにプレゼントしたものだと思う。

 確かに贈り物とはいえ、ニーズ無視のそれらの中には要らないものも存在する。

 けれど、このぬいぐるみだとて初めから捨てられるために買われたわけではないだろうに……


 そう思うと「目が合って」しまった100円の水色のテディ・ベアの前を素通りすることが難しかった。

 実際は、一度は通り過ぎ、気になって戻ってしまったので、気の端にかかってしまった、というべきか。


 そして、テディベアのようなかわいらしいフォルムの存在には一切興味を示さない私は、生まれて初めてテディ・ベアを買った。

 たった100円で、青いリボンのテディ・ベアを。



 青の色はパステルカラーだった。酷い話だが、ピンクの熊だったらたぶん買わなかったと思う。その色がなぜかどうしても気になってしかたなかったというのも本音だ。


 柔らかい、ベロアの手触りでちょうど手のひらにお座りするほどのテディ・ベアはそうして私の部屋に来たわけだが、居場所は迷うことなくすぐにみつかった。

 パステルカラーのピンクのモフ竜のすぐ傍だ。


 ぬいぐるみを買わないのではなかったか。

 かわいい系は興味ないのではなかったか。


 それについては理由を述べれば納得いただけるだろう。

 そのモフ竜はとある物語のマスコットだったが、公式から出たぬいぐるみがあまりにもひどいフェルト製だったため、納得いかずに作っただけのことだ。


「公式に納得いかなければ自分で納得できるものを作る」


 割とライフワークである。

 納得いただけない? まぁそういう性分の人間もいるということだ。

 ちなみにぬいぐるみを作ったのはほぼほぼ初めてだったが、出来はとても良いと思う。器用ではないので二回は試作しただろうか。


 そんなもふもふファーのケモ竜のお腹にジャストフィットして、まるで初めから対であるかのようなまったく違和感のなさでテディ・ベアはもう何年もそこにいる。



 パステルカラーのピンクモフ竜の腹に埋もれるパステルカラーの水色のテディ・ベア。


 今ではこれが離れると、なんとなく寂しい感じすらする光景である。

 私にとってそのぬいぐるみが必要だったかというと、今でも全くそんな気はしないのだが、このぬいぐるみたちにとっては必要なことではあったのだろうとは思う。


 少なくとも。

 陳列棚に幾重にも吊るされた中から、みつけることができたのは良かったのだろう。



 人は理由があって生まれてくるとはよく言われるものの、物こそ理由があって生まれたはずなのだから。



 しかし、クローゼットを悠然と占有しているいくつかのぬいぐるみについては、そんな理由で捨てるに捨てられず。

 始めから私に必要なものだったのだろうかと問う日々である。



 ぬいぐるみの生きる意味とは一体。


 いずれ、人が幸せになりたいと願うように、彼らだってそう願ったところで、誰も否定はできないのであろう。

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水色のテディ・ベア~おそらくは、そのテディベアは誰かに贈られたものだった 梓馬みやこ @miyako_azuma

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